それから数年。
志貴は一日も休まず魔力の操作、つまり『強化』を磨いてきた。
具体的に言えば、魔力量の体感できないレベルで調整する為に感覚を研ぎ澄まし、己の境界を如何なる状況でも展開できる精神を作る為に練磨し続け、それらをコンマ一秒でも速く構成する為にひたすら反復練習を重ねた。
他にも細部に渡り説明すればそれこそ気が遠くなるような『強化』の為だけの鍛錬を志貴は積み続けた。
一言、それのみを磨きつづけたと言えば聞こえは良い。
しかし、実際には志貴にこれしかなかっただけで、これしか出来なかっただけなのだ。
それ故、力を欲するならばそのただ一つを極めようとすることは至極当然。
つまりそれしかなかったが為に選べる道が他に無かっただけである。
他の者が見れば異常とも言える鍛錬も、当人から見れば当たり前の事をしたまでであるわけだ。
しかしそれはやはり異常なこと。
本来であるなら到達するまでそれこそ十年は掛かるであろう域まで志貴は物の数年で既に上り詰めていた。
凡人という才能。
志貴は魔術の才能と言う点では決して恵まれていなかった。
しかし志貴は後天的な才能でそれを補足したのである。
その才能とは先も言ったが"反復"である。
七夜として生を受けた志貴は物心がつく以前から血の滲むような鍛錬を余儀なくされていた。
それに対し志貴は別段不服を持つこともなく、軍隊の訓練と並べても劣らないそれをただの日課として日々を過ごしてきた。
もともと戦闘訓練が好きだったという稀有の気質もあったが、一言も弱音を吐かず訓練を受けていたのは志貴だけだった。
当然七夜は暗殺という性質上"正確な一撃による必殺"が基本である。
それ故、一つの技を習得する為だけに気の遠くなるような反復練習を繰り返すのだ。
そうしてその拷問とも呼べる日々が志貴に与えた物がこの"反復"いや…それを苦としない精神である。
だから志貴はこの短期間でここまで伸びる事が出来た。
それに併せ志貴は一日たりとも戦闘の訓練を欠かす事をしなかった。
その地道すぎる修練が、戦闘という面において彼を一人前の魔術師と呼べるようにしたのだ。
そうして今志貴は先生と町に出ている。
志貴の成長ぶりを喜んだ青子が褒美として遊びに連れて行くことを計画したのが昨日。
志貴が『名無』片手にうんうん唸っている横で、何年ぶりかに見る情報誌を片手に青子もまたうんうん唸っていた。
そうした努力の末、こうして人気があると言われるオープンカフェにいる。
「志貴。何でも好きなもの頼んで良いわよ」
そう言われるが志貴は英語が少ししかわからない。
先も言ったが志貴は本当に鍛錬以外まったく何もしていない。
英語の本場、倫敦に一年居れば流暢に使いこなせるようになるはずの英語をまったく使えるようになっていないのもその為だ。
だから頼みたくてもメニューすら読めない。
それに年が二桁になった者として拙いのだろうが外に出た経験はこれが二回目だ。
無論一回目は数年前、先生と刀やら着物やらを買いあさったあの日の事を指している。
だからこういう店は言うなれば初体験という事になる。
そんな状態の自分に出来ることとしたら、
「先生のオススメでお願いします。先生昨日調べてたでしょ」
というさり気ない逃げの他にない。
それに先生がせっかく調べてくれた物を無駄にするのも勿体無いきがする。
だからこれは逃げでもなんでもないのだ。と自分を納得させた。
「そう?ならそうするわ」
そう言ってウェイターを呼びつけメニューを指差しながら二、三言葉を交わしている。
その顔がどことなく嬉しそうなのが微笑ましく、例え逃げる理由だったとは言え、そうしてよかったと思った。
「うーん。それにしても志貴も英語話せるようにしなくちゃね」
どうしようねー。と笑っているが、僕としては笑えなかった。
どうやら隠せていたと思っていたのは僕だけで、先生はとっくに知っていてどうするべきかを悩んでいたらしい。
まったくもって人が悪い。
先生は時折、と言うより頻繁に僕をからかう。
それが正面切って怒れるような事ならまだ良いのだ。
しかし先生は今みたいに本当に些細ないたずらを仕掛けてくるので怒る気力すら削がれてしまう。
「多分なんとかなりますよ」
先生への細やかな反抗を込めて投げやりに答える。
ここにくる前、決して焦らないと誓ったが、無駄な事に時間を費やすとまでは誓っていない。
語学を修めることを無駄なことだとはさすがに思わないが、それでも優先順位は低い。
覚える気が無く、怠けるぐらいなら最初からやらないほうが余程効率が良いという物だ。
「でも英語読めないとラテン語習うの難しいのよね。そうすると魔術書とか読めないわよ?」
優先順位が上がった。
僕の中で優先順位が、強化(魔術)、体術、語学になった。
「先生。それ、何年も経った後に言うことですか?」
「本当は最初に魔術書の勉強とかしないといけないから一番最初に言うことね」
何が凄いって先生がそんな重大な事を胸を張って大威張りで宜っていることが凄い。
僕のもっともな指摘も先生にはまったく通用せずに散ってしまった。
「それって拙いんじゃないですか?僕魔術書の内容なんてまったく知りませんよ」
そして何より問題なのが『一番最初にやること』を僕がすっぽかしていることだ。
もし魔術がそれを土台として積み上げて行く物ならば今までの努力が無駄になってしまう。
それはやめて欲しい。
「大丈夫。あくまで一般の魔術師の基本だから。
志貴の場合ほとんど全てが異常な所から始まってるのよ。
そもそもどうして一番最初に魔術書を学ぶかわかる?」
僕としてはそういうまめ知識よりも僕の安否を一刻も早く確認したい。
しかし先生がそう言って素直に話してくれる人でないのは重々承知でもある。
落ち着かない気分のまま先生の話に耳を傾けることにした。
「魔術が何であるかを理解する為ですか?」
魔術書がどういう物なのかすらわからないので予想の立てようが無い。
それでもちゃんとした意見を言わないと先生が不機嫌になり、話が長引くので必死に考える。
「惜しい!似たような物だけど、魔術基盤にアクセスする方法を学ぶためよ」
魔術基盤…?
たしか魔術の元となるシステムのような物だった気がする。
それにしてもアクセスするってどういう意味だろう?
魔術の基質は自分の中にある物じゃないのか?
「それってどういう意味ですか?基盤にアクセスって…まるで他の物に触れるみたいに」
僕が当然の疑問を投げかける。
「それよ。志貴が他の魔術師と大きく異なる点は。
いい、志貴。簡単に言うと魔術師は魔力を操るだけなの。
魔術の基盤は定められた場所にあって、魔術師は呪文を紡ぐ事によりその基盤を引き出すことができる。
引き出すわけだから同じ時に同じ神秘を使おうとした者がいる場合、その神秘は当然二等分されて引き出される。
だから神秘は秘匿されるのよ。それを知る者が少なければ少ないほど神秘としての価値が高いんだから。
話が逸れたわね。
つまり基盤を引き出せないと魔術師は魔術を使う事ができない。
それなら最初にその手順を学ぶのは当然でしょ?」
なるほど、魔術とはそういうものだったのか。
魔術を知った数年後に知る事では無いかもしれないが、その事実は驚きだ。
しかしそうすると疑問が生まれる。
それならば何故僕は自分で持っていると錯覚しているのか。ということだ。
「それじゃあ僕の基盤も僕の中には無いって事ですか?」
「志貴も賢くなったわね。すぐに理解するなんて」
偉いわーと頭を撫でてくるが実に恥ずかしい。
ここが外だと認識して欲しいものだ。
「でも言ったでしょ?志貴は特別だって。
志貴は基盤を使っているわけじゃないわ。
姉貴も言ってたけど、志貴は何かからの派生として『強化』を使ってるの。それは理解してるわね?」
頷く。それは初めて説明された時にわかった事だ。
それに『強化』を繰り返すたび頭に同一のイメージが浮かぶことから容易に理解することも出来た。
「私は固有結界の類じゃないかなぁと思うんだけど、どう?」
いや…どうと訊かれても
「固有結界ってなんですか?」
結界類の説明をまともに受けたことがない僕にはそれがどういう意味だがまったくわからない。
それも先生の責任だと思うのだが当の本人は、そこからー。と不満そうな顔をしている。
「術者の心象世界をこの世界に反映させる魔術よ。
本来なら精霊類だけしか使えないんだけどね。物事には必ず例外がいるって事よ。
一部だけど魔術師にも使えるのがいるの。それで、もしかしたら志貴もその内の一人なのかなって」
ごめん先生。意味がわからない。
「それって目印みたいなものあるんですか?その…今の説明聞いてもちんぷんかんぷんで」
固有結界なるものが何であるかはそう問題ではない。
今は僕がそれを持っているのかどうかに焦点を置くべきだと思う。
「ごめん。わからないわ。私も持っているわけじゃないから」
しばらく考えた末、先生は済まなそうに言ってきた。
しかし元々この話は先生が言い出したことだ。
先生がすっきりしたのならそれで良いと思う。
「でもなー。そうだと思うんだけどなー」
悲しいかな、先生はまったくすっきりしていない。その予兆すら見られない。
「『強化』さえあれば戦えるんで問題無いですよ」
先生が何で悩んでいるのかわからないが、少なくとも僕は悩んでいない。
そのことを伝え僕が気にしていないことをわかってもらわなければ永遠と唸っていそうだ。
今も、姉貴がわからないとなると固有結界すらも怪しいわねー。などと考えに没頭している。
いつものお返しにこのまま放置するのも悪くないのだが、やはりそんなに悩まれると悪い気がする。
「特に困った事なんてないんで、今はこのままでいいですよ」
「そう?でも何かあったら言いなさいよ。その時はちゃんと調べるから」
「はい」
話が一区切り付いたころ先ほど頼んだ物が運ばれてきた。
先と打って変わって穏やかな話題と共にそれを平らげて行く。
その光景はやはり家族と呼ぶに相応しく、志貴と青子の信頼関係が一目で見て取れる。
だから当然、このテーブルを監視していた人間もそれを読み取った。
「 だ。お前の予想通りブルーは弟子を取っている」
何に対しての嫌悪なのか、苦虫を潰したかのような顔をした女が、感情を抑えた声で事務的に何かを報告している。
「既に放った。後は彼らが勝手にやるだろう」
電話から洩れた笑い声はこの女の話し相手が人間なのかを疑ってしまうほど、奇怪でおぞましい。
「殺しはしない。殺される方が余程有り得るだろう」
淡々と応える声はここにきてもやはり口調が変わらない。
しかし、まるで反吐を飲み込んだかのように顔色は青白く、電話を持つ手も微かに震えている。
一際高い哄笑が響き、女は堪らず電話を投げ捨てた。
「肉体さえ生きていれば良い。か」
凶刃が最後に渡した免罪符は、やはり狂気に満ちていた。
「先生。さっきから視線を感じるんですけど」
あの店を出たあたりから頻繁に視線を感じる。
「それはそうでしょ。その格好で人目につかないはずないわよ」
それに返す先生の声は浮かれていた。
それもそうだろう。己の愛弟子と何の気兼ねも無しにこうして遊べる機会などこれが最後になるかもしれない。
彼女にとってそれを楽しまないのは己を"破壊の魔女"と呼ぶことと同等の罪となる。
でもまぁ志貴の格好がまずかった。
彼はせっかくの外出だからと数年前に譲り受けたあの浴衣を着ていた。
数年前のモノを何故着ることができるのかは気にしないでもらいたい。
それは彼が成長していない現れなのだから。
日本ですら視線を集めてしまうその格好で外国をうろついて視線を集めないほうが異常である。
故に、その中に一つだけ混ざる首筋に絡み付くような視線を"勘違い"と処理してしまっても不思議ではない。
しかし、先生―魔法使いである青子―は本来ならそのようなミスは決してしない。
いかに百の視線を集めようとも、彼女にとってその中から敵意のそれを見つけ出すことなど造作もない事だ。
だが様々な偶然が重なり青子はその存在に気付けていない。
それを偶然と呼ぶか、必然と呼ぶかは誰にもわからない。
『物事に偶然など有り得ず、全てが必然の元に生ずる』
それに従えばこの偶然も必然であり、志貴の将来
に関わる大切な事なのだろう。
「先生。おかしいですよ」
その異変に最初に気付いたのは志貴だった。
先まであんなにも注視されていたのにこの公園に入った途端、見てくる輩がいなくなった。
それは別段おかしくも何ともない変化、しかしそれに加え人々がこの公園を次々と後にする奇行が相俟っては見逃せない物がある。
今は昼下がり、公園の利用者が増えることは有っても減ることは無い時刻。
その微かな異変、勘違いともとれるそれを正確に捉えられるかどうかが生死を分ける。
「志貴。抜刀を許可するわ。気配を探って」
青子も即座にそれを理解し臨戦体制をとる。
その後ろ、青子と背を合わせながら志貴が七つ夜を懐から出す。
突然、そのまま世界が凍ってしまったのではないかというぐらい通りの喧騒が遠くなった。
一陣の風が吹き、そして耳障りな拍手と共にその男が現れた。
「いやはや…まさかあの段階で気付かれようとは」
歌うように笑う。
踊るように運ぶ男の足取りは一見隙だらけだが、その隙全てが罠である事は男の眼光から見て取れる。
「なるほどなるほど。そう警戒するでない。神の仔よ。
我は危害を加えに来たのではない。
その為の人払い。その為の時間である」
見た限り三十歳前後、百八十前後の全体的に無駄な肉が無く華奢な印象を受ける体躯、帽子をかぶりステッキを持つ手には白い手袋。
そしていちいち役者ぶった口調が不思議とこの男に合っている。
流暢な日本語で話し掛けてくる辺り東洋の人間なのだろうか。
しかし目深にかぶった帽子に阻まれその男の顔を見ることが出来ない。
どうやらその言に嘘は無いようだ。
人が居ない場所は戦いになっても気付かれない反面、人ごみに隠れての奇襲が出来ない。
こっちには先生がいる。正面からまっとうに戦おうと思う自殺願望者はまずいない。
そして時間。この男の言い分だと先の時間は僕と先生が戦闘準備をする為に用意したらしい。
「それで、何の用?」
先生の敵意がその男を貫く。
しかしその男は優雅にステッキを回し、大げさに礼をした。
「許されよ。魔法使い。
我汝の邪魔をする訳も無く。
ただその仔と語る機会を望む者なり」
先生はその言葉に目を細め、僕を背に回す。
「この子はただの子供よ。
貴方達がどうやって嗅ぎ付けたかは興味無い。でも、危害を加えるなら殺すわ」
その明確な殺意を受け、役者は笑う。
「そう急くな。青の君よ。
汝なら我を殺すに刹那で足りる。
故に待ち給え。
重ね言うが我に殺意無し。
この場で踊る我を赦されよ」
先生の殺気を中てられてなおその振る舞いに乱れは見られず、その男が只者でないことを改めて知らされる。
「あぁもう!!死ぬか引くか。貴方にはそれしかない。
本当ならすぐ殺すけど今は志貴がいるから選ばせてあげる」
一向に引こうとしない男に痺れを切らし先生が怒鳴った。
それは純粋な殺意のみで編み上げられた呪詛。
対象でない僕の身体まで縛り付けるその声を受け、その男も流石に動揺した。
「待たれよ。破壊の魔女よ。
そう怒る無かれ。
我汝に触れること敵わず、勝機皆無。
敵意真心より無し、胸開きて見せれるな
「―なら見せなさい」
その言葉と共に男が吹っ飛ぶ。
まるで巨大なハンマーで殴られたように優に二十メートルは飛んだだろう。
男の血で描かれた軌跡は空に留まらず血に落ちる。
一直線に引かれたそれの終着に無残なモノが転がっていた。
僕の目に所々に散らばった男の一部が入ってきた。
それらは当然男が予告した通り胸の中身、臓物で、心臓はまだ脈動を続けている。
「志貴。ごめんね」
先生が泣きそうな顔で謝ってくる。
僕にこの光景を見せたくないが為のあの譲歩だったのだろう。
「そんなことないです。ありがとうございます」
でもそれは違う。
さっきの男の目的は僕だった。
先生は僕を心配してその男をまぁ…殺してしまった。
感謝こそすれ、不快に思うことなんて無い。
やりすぎた気もするが、あの男の持つ異質さを思えばその過剰な反応も当然だと思う。
先生の手を握り、それを伝える。
ここ数年の付き合いで先生は他人との付き合いが苦手で相手の感情を読めないことがわかった。
だから先生との会話は一番手っ取り早いスキンシップをすることが最も有効な手段なのだ。
先生もそれを自覚している為、僕が手を握ると小さくありがとうと言ってきた。
「さってと。志貴のおかげで気分も晴れたし行こっか」
一陣の風が吹いた。
「待たれよ。親仔。
気分を害したならば謝ろう。
我殺し心晴れてくれたかな?
なに。我は気にせん。
所詮散り行く命。何時散ろうと変わり無い。
しかし褒美があっても良いとは思わんか人の仔よ。
故に機会を与え給え」
僕と先生が振り返った先に、"変わらない"男が立っていた。
その足元にはまだ脈動する心臓がある。
つまりこの男は心臓無しに動いているという事になる―
「志貴。ちゃんと見なさい」
先生が恐怖に後退る僕の頭を引っ叩き、その手で男の背後を指差し、そこにはその男の死体がまだあった。
「え?」
それが奇怪すぎて逆に冷静になれる。
死体とその男が同じ空間にいる。つまり同じ人間が二人いるという事。
それは有り得ない。
ならば可能性は極端に限られる。
一つ、今目の前にいるモノは他人。
先の男は顔を隠していた節がある。
それがこの為だったのかはわからないがその可能性も否めない。
二つ、
「魔術で作り出したモノ」
僕の口からその言葉が出ることを待っていたかのようにその男は狂喜の乱舞を見せる。
「素晴らしい!!
そう。我は人形。
故に道化。道化が芝居をせずに何をする」
右からもう一人その男が現れた。
「我ら三。三位一体を模す者なり。
故にトリニティ。
埋葬機関三位に置かれた人形なり」
そして血だらけの腹部をそのままに最後の一人も立ち上がる。
「我ら戦意無し。
語りが我らの剣、踊りが我らの鞘」
「故に語り、踊らせよ。
さすれば必然剣は鞘に収まり」
「何人たりとも傷つくこと無かれ」
そう跳ねるように歌いながら僕達の周りを回る。
そしてさり気なく、徐々にだが距離を詰めて来ている。
その光景は喜劇。
あまりにも特異すぎる状況に身を固める事しかできない。
先生はそんな僕を守るように抱えながら
「それ以上近づくな。そして止まれ。
そうすれば話すことを許す。でもそれ以降に動いたら完膚なきまでに壊すわ」
そう決断した。
僕という足手まといがいるこの状況ではこの人形の包囲を抜けられないのか、悔しそうに唇を噛んでいる。
しかしいざとなれば手段があるのか先生に焦りの色は見られない。
この状況を打開せよ。と言われればすぐさまどうにかできる力を青子は十分に持っている。
だがその手段とは彼女が口に出した通り、つまり"破壊"である。
"それ"を使えばこの公園だけでなく周りの建物にさえ被害を与えてしまう恐れがある。
魔術とは秘匿するもの。
このように人目がある、それも昼間に行使して良いものではない。
それに加え、蒼崎青子は魔法使い。
彼女を監視し、その神秘を垣間見ようという輩は後を絶たない。
故に使えばその代償は計り知れないものとなるだろう。
しかし志貴に危険があればそれも已む無し。
己の業を他者に見られようとも志貴を守る。それが青子の覚悟である。
その声に三人の男は足を止める。
「感謝する。魔法使いよ。
我心より誓おう。
これより微動だにせず踊り、語ろう」
「感謝する。魔法使いよ。
我が名を以って誓おう。
ここ微動だにせず騒ぎ、笑おう」
「感謝する。魔法使いよ。
我の良心に誓おう。
この身微動だにせず嘆き、蔑もう」
三者三様、と言って良いものか定かではないが、この距離を保ち話をする事に合意した。
「それで、志貴に何の用なの?手短にしなさい」
しかし時間をかければかけるだけこちらが不利になるのは自明の理。
相手には援軍があるかもしれない。むしろある可能性のほうが高い。
先生を相手に単独で攻めてくるはずが無い。少なくとも僕なら援軍を用意しておく。
だから一刻も早くこの場を離れる事が今取り得る最善の手だろう。
「なに…そう手間は取らせぬ。
我ら我が長の恋文を携えここに在り。
それ語り聞かせるが我らの命。
青の君よ。静観し給え。
この文、呪を孕まぬモノゆえ」
正面にいる男が手紙を取り出す。
洋紙に蝋を垂らし捺されている判は旧家のそれを思わせる細かい作りをした十字架だ。
男は封を破り、三つ折りにされた中身を広げる。
そして軽く頭を下げ、息を吸い込んだ。
初めまして。両方。
私はナルバレック。埋葬機関一位に席を置く者である。
いきなり本題に入る無礼をまず詫びよう。
さて、ブルー貴方に質問をしたい。
弟子を取らないはずの貴方が弟子を取った。
私がこの情報を手に入れたのはつい先日。
そのせいもあり、その子供の情報はまったく手に入らなかった。
情報では子供であったが、もし違うのならば失言を詫びよう。
貴方の謎めいた行動も然る事ながらその子供の正体も非常に興味深い。
回りくどい事はやめよう。
単刀直入に訊く、その子供はなんだ?
貴方が弟子に取るほどの者であるならば是非我等に紹介願いたい。
そして青の仔よ。
私の機関に入るつもりはないか?
ブルーの弟子ともなればいずれ幾多の雑種が群がるだろう。
そうなる前に私の元に来い。
それが貴方にとって最善の道であり、許されたただ一つの道だ。
それを忘れるな。
その男は読み終わると優雅に一礼をした。
「さてお二方。
以上がナルバレックの言である。
それを憎むも嫌うも止めはせぬ。
我はただそれを伝え、返される言葉を切り裂く者。
故に心して答えよ。
その返答により汝らの命は運ばれる」
そうしてやっと僕にもわかった。
先の手紙は勧誘でも願望でもなく、ただの強要だと。
聞く前からわかっていたのか、先生は口を歪め不敵に笑う。
「当然断るわ。志貴も私も暇じゃないの。で、断ったらどうなるの?人形さん」
三つのそれは肩を震わせ、笑いをかみ殺している。
泣いているようにも見えるそれは既に殺気を孕み、先までの滑稽な男の影をどこにも見ることができない。
「危険因子は舞台を去れ」
「ブルー。貴様に用はない」
「即刻ここを立ち去れば見逃すぞ?」
皆まで聞かず先生は弾けたように笑い出した。
その笑い声は無邪気で、今までのどんなモノより僕に恐怖を縫い付けた。
「私のモンに手を出そうなんて正気?
いいわ。貴方たち教会が如何に小さな存在でしかないって事を教えてあげる」
その声をきっかけに殺し合いが始まった。
男が駆ける。
その動きは三者共に同じ円を描き、先と同じように少しずつ間合いを詰めてくる。
まさに円舞。統一された動きが視覚を狂わせ、死角を作る。
「志貴。いける?」
先生が僕の背後に回りながらそう訊いてきた。
―どうだろう。
身体。異常なし、むしろ最高潮。
魔力。異常なし、いつも通り。
武器。七つ夜、先日研いだばかり。
対象。捕捉範囲内、単体ならば殺害可能。
其れ即ち、戦闘可能。
「いけます」
七つ夜を構え、己の内に呼びかける。
イメージは楔。
鎖で固められたそれを無理やり抉じ開ける。
「―開放、
その言葉と共にナイフが身体の一部になる。
高台から低地へと水が流れるが如く、そうなることが自然であるように魔力がナイフに満ちる。
固定」
全工程が終わる。
その間、人では数える事が叶わない刹那の時であり、志貴や青子以外の者が見ても何か呟き魔術回路を起動したようにしか捉えられない。
そして魔術を扱う者との戦闘に長けているこの男も当然、二言呟くと共に魔術回路を起動した。程度にしか受け止めていない。
故にその男は志貴の"次の行動"を警戒した。
魔術回路を開いた魔術師が次にやる事、魔術行使。
熟練の戦士だからこその隙、まさか二言で魔術が完成しているとは思わない慢心。
志貴が動く。
その動きは洗礼された七夜のそれ。
常時の筋力でさえ相手の視界から消えることを可能とするそれを強化した身体で使うというのだから、その効果は言うまでもない。
しかしこの男も幾度となく死線をくぐり抜けた経験を持つ。
如何に見えなくとも戦場で己を生かした勘は志貴の姿を逃すはずがない。
ましてや魔力を纏った者。一流の魔術師が気配を探れないはずがない。
が、それは常識の中でのみ意味を成すものだった。
ドシャッ
一つ目の人形が縦に割られて崩れ落ちる。
そこに気付いた跡、ましてや抵抗した跡は見られない。
残りの道化が飛び引いた。
間合いを十分に取り、志貴の異様さを見極めようとしているのだろうか。
「汝異様なり、我ら気付けずただ引き裂かれる」
「汝異様なり、魔力を発せず」
それだけ言うと男はまた舞い始めた。
先までの様子見とは違う、相手を確実に殺すための暴風となって迫ってくる。
それは不思議な舞だった。
二人いるはずのその舞台にある影は一つ。
どのように動いているのかわからない変則的な足運びは、直線的に向かって来るようにも、蛇行して向かって来るようにも見える。
これこそがこの男、トリニティーの持つ技能"虚舞"である。
あえて己の形をした残滓を魔力で作りその場に残し、その気配に時には隠れ、時には振り払いながら移動する幻覚術。
対処法を持つ者が極少数に限られる為、その効果は絶大を誇る。
ちなみにその対処法とはその場を洗い流す。
「逝きなさい」
つまりこういうことである。
その轟音を間近で受け、耳の機能が麻痺してしまった。
煙が立ち込み、視界が悪くてしょうがない。
爆風に煽られ二度も三度も転がった為、方向感覚が狂ってしまった。
よろけながら立ち上がり、やけに遠く聞こえる先生の声を探って歩きやっと出口までたどり着いた。
「大丈夫?もうちょっとで志貴も危なかったわね」
そんな事をカラカラ上機嫌に笑いながら言ってくる先生に少なからず腹が立った。
「先生。使うなら一声かけてください。防御体勢も取れないじゃないですか」
自分の身を守る当然の権利を主張した。
これからも先生と組んで戦う事があるだろう。
その時、これと同じことをされたら生き残れる確証が無い。
だからこれは今の内に話しておくべき事。
相手が先生だろうとこればかりは譲れない。
「大丈夫よ。志貴強いし、私も手加減したんだし。それに言ったら相手にもばれるでしょ?
仮に当たっても…まぁ大丈夫よ?」
しかし、いや。やはり先生。
考えがアバウト過ぎる。
本気であの威力のモノを頭部に受けても生きていられる人がいると思ってるのだろう。
「先生。本気で怒りますよ。せめて事前に言っておいてください」
それが最大の譲歩だ。
と言うよりこれ以上条件を削ることができない。
「わかったわよ。今度からちゃんと言うから。だから許してよ。ね?」
語尾にハートを付けてまで終わらせようとしている所に性格の歪みが見える。
そのいい加減な性格がいつまでも一人身の要因だと知っているのだろうか。
「志貴。知ってる?
志貴ってとっても素直だから思ってる事が簡単にわかるのよ?」
瞬間、ぼくは走った。
後ろを振り返ると指をポキポキ素敵に鳴らし、いざ殺さんとばかりに先生が走ってくる。
「まて〜。ゆ〜る〜さ〜ん〜」
完全とも言える勝利に酔い。僕たちははしゃぎながら次の目的地へと向かった。
先生が跡形もなく消し飛ばした広場を背にして。
二人は去った。
掻き集めても人一人分無いだろう肉片が広場に散乱している。
その一つが誰かの手によって拾い上げられた。
「酷いな。これでは作り直すしかない」
その肉片に見切りを付けたのか、要らぬとばかりに手を離した。
ズチャ、と聞くものを不快にさせる音と共に肉片が地に落ちる。
要らないはずのそれを見る目がどこか悲しげなのは元々その女が持つ雰囲気の為だろうか。
「処理はお前たちに任せよう」
いつの間に現れたのかその女の後ろには四人の男がいた。
無個性なスーツ姿、そして寡黙、とその者たちを表す特徴がまるで見つからない徹底的に訓練された捨て駒。
その中でも彼らは"処理班"と呼ばれる部類だろう。
その言葉を受けただけですぐさま行動を開始し、あらゆる証拠を消し去る。
もちろんその間一言も言葉を交わすことはない。
それぞれが何を担当するのかさえも既に決められ、一つの芸術にまで完成させられているその動き。
それを気にもかけず女は公園を後にする。
彼女こそが埋葬機関三位であるあの道化の作者。
しかし彼女が埋葬機関に所属しているのかと問われれば、答えは否だ。
彼女はただ作るだけ。
本来なら彼女が三位に席を置きその人形を行使して戦えば良いものを、彼女はそれを良しとしない。
故に人形は言った。
我は道化だと。
しかしそれらは些細なこと。
志貴にも青子にも誰にも関係の無い話。
指揮者も公園を去り、後に残ったのは処理者だけ。
その者たちが結界と共に消え去り、公園が日常に戻ったのはそれから一時間後だった。