「それにしても先生。さっきのアレは何だったんですか?」
しばらく追いかけっこが続き、あの公園から十分離れた所まで来た。
そこで足を止め、周りに追跡者が居ないかを確認しながら先生に訊ねた。
「教会の埋葬機関よ。前にも話したでしょ。
それが貴方を勧誘しに来ただけだから気にしないの」
埋葬機関。
確か教会の教義に存在しない異端を排除する代行集団だったはず。
そして魔術協会とは仲が悪くて、協定があるから殺し合いにならないだけで反発しあってるとか言っていた。
そんなのがどうして僕を引き込もうとしたんだ?
僕も一応協会に所属しているから彼らにとって嫌悪するはずの存在なのに。
「わかりました。それに一人立ちなんて先生が許してくれませんよね?」
そう。ナルバレックって人の言葉も気になるが、ぼくにとって先生以上の師はいないのだから関係無い。
全ての柵を洗い流す為に冗談めかしてそう言う。
「当ったり前じゃない。勿の論よ」
それに乗って胸を張り、大威張りで僕の道を切り取っていく先生。
その言葉はきっと冗談なんかじゃなく、結構な本心だと思う。
まぁ、それはそれで問題だから勘弁願いたいものだが。
望んでおいて贅沢な気もするが、先生が浮かれると命に関わる。
だからこのぐらいで話を変えて、勢いを流す事にした。
これが数年の付き合いでわかった先生の対処法だ。
「いつまでもついてきますよ先生。それで、今からどこ行くんですか?」
そう訊くと、先生は上手くなったわね…とかぼやきながら考え始めた。
この頃僕が先生の暴走を危惧して意図的に逃げていることを察しているようだ。
次はこの手が効かないかもしれない。そう考えるだけで身体が震えてしまう。
何をそんなに深刻に考えるんだ?とか自分でも飽きれてしまうが、相手は現役ばりばりの人類最強だ。
そんな人が『悪戯』として括る仕掛けがどんなものかなんて想像に容易いだろう。
そんなくだらない事を本気で悩んでいると、方針が決まったのか先生に頭を突つかれた。
「とりあえず骨董屋に行くわよ。あーもう。あの馬鹿に取られた時間が痛いわね」
頭を掻きながら悪態をついている先生。
お世辞にも上品と言えないが先生がやると似合っていて良い。
「あっ…こら!!なに笑ってんのよ!」
そんな弟子の他愛も無い変化に過剰反応し、例の如く追っかけてくる。
「先生!僕その店がどこにあるか知りません!せめて前走ってください!」
「それ挑発ね!? いいわ受けてあげる。さぁ死になさい!!」
どこをどう取ったら挑発に…あ。
追いかけている側に前を走れと言うのは、どこをどう取っても「抜かせるものなら抜かしてみろ」と、馬鹿にしてるだろう。
それが意識外での挑発だとしても、立ち止まろう物なら先生秘伝の喧嘩キックが炸裂しそうだ。
あれを甘んじて受けれるほど僕は人間をやめていない。
僕が止まらないのだから先生が止まるはずもなく、何故か暗黙の了解で魔力並びに凶器使用不可というルールができ、本気での鬼ごっこが始まった。
結局疲れるまで走り続け、目的の店に辿り着いたのは午後九時となった。
「それで、どうなったんだ?」
暗い、蝋燭の灯りもこの広大な空間を照らすには少なすぎる。
その暗闇の中から囁きが聞こえる。
それはアダムを誑かし、金の果実を食わせた蛇と同じ質、人に恐怖を抱かせる反面、それの言う通りにしなければならないと思わせる魅惑を持つ声。
「それでもなにも私は作るだけだ。答えはあの人に訊いてくれ」
応えた声は三位を拵えた女のモノ。
発せられた声には我が物を殺された憤怒の感情が微量だが混ざっている。
「なんだ?まだアレのことを気にしていたのか。あれは所詮替えの利く代替物だろう?
ならば作り直せばいいではないか。一つに拘る理由は無いだろ?」
ギリッ…
女は五メートルほどもある机を介して座る者にさえ届くほどの歯軋りをもらした。
それを聞き対面に座る女、ナルバレックは笑みを浮かべる。
「いいぞ…怒りは女を美しくする。
だが勘違いするな。お前に許されるのはあれの基質を使うことのみ。
そしてそれを許される条件は私の命を厳守する事。
それができないのならば今すぐ消えろ。替えなど幾らでも用意できる」
歯軋りこそ聞こえぬものの、眉間に皺を寄せナルバレックを睨む姿にはありありと憎悪が見て取れる。
しかし彼女はこの女がまだそのような態度を取る事に歓喜し、身体を震わせる。
「そうだ。それでいい。
お前は私を憎み、そして離れられない。
安心しろ。私はそんなお前を気に入っている。
お前がその歯牙を向けない限り捨てることは無いだろう」
それに何を思ったか女は黙し、静寂が場を支配する。
「わかった。あの人が送ってきた情報を伝える」
女が何かを諦めたかのように覇気を無くした声でそう呟いた。
それと共に変わらず笑みを保ち続けていたナルバレックの口元が更に釣り上がる。
仮にこの二人以外の者がこの場にいたのなら、その者は悲鳴を上げて逃げだしただろう。
それほどまでにその微笑みは狂ったものだった。
「簡単な話しだ。
お前の手紙を七夜志貴、蒼崎青子に読んで聞かせ、七夜志貴に埋葬機関に入るかどうかを問うた。
それに蒼崎青子が切れて、一体目が大破。
そしてお前の望み通り戦闘に入り、別の一体が七夜志貴に殺された数瞬後、蒼崎青子によって後の二体が殺された。
一方的にやられただけで、あっちの情報はまったく手に入らなかった」
「七夜志貴が殺した所を詳しく話せ」
「あの二人をトリニティが包囲した時、七夜志貴が何か呟き、魔力を帯びた。
そして魔術に警戒し、その詠唱中を叩こうと考えた時に七夜志貴が接近戦をしかけてきた。
情けない話だが、七夜志貴がトリニティよりも速かった為に反応できず殺されてしまった。
これが詳細だ。あの子供が何者か知らないが、奇襲しかできないようだ。
正面から戦えばあの人がやられるはずが無い」
最後の言葉はナルバレックの耳に入っていなかった。
彼女は震える。
彼、七夜志貴の素晴らしさに。
あの若さにして既に埋葬機関と十分渡り合えるその才覚に。
目の前の女は虚を突かれた。と言っていたがむしろ逆だ。
埋葬機関相手に、それも感情を持たない自動人形を相手に虚を突けるほどの手練などそう多くない。
あの少年はそれほどの逸材だったのだ。
これを不幸、いや。幸運と呼ばずして何と呼ぶ。
彼が何者なのか、それはもうどうでも良い。
彼が私の求めるモノを持っている事がわかった。
彼を私の物にする理由などそれだけで十分だ。
そして女はさらに付け加える。
「それと、あの子供は両目を魔眼殺しで封じていたらしい。
しかし戦闘に使わなかった為能力は不明」
それを聞くと共に立ち上がってしまった。
そして今更ながら己の不運を呪った。
何故自分は自ら見に行かなかったのか。
その場に自分が居たら間違い無く七夜志貴を連れて帰っていた。
物事には波がある。
その時可能だったことが次の日には不可能になる事など当たり前。
故に一分一秒でも早く彼を見つけ、勧誘しなければ。
幸い彼の冠する数字である第七席は空いている。
これを運命と言わずに何と言うのか。
七席は彼の為に"私が"開けていたに違いない。
「今すぐトリニティを作り直せ。
必要なものがあるならば金を惜しむな、全て買え。
三日以内に完成させろ」
それだけ伝え、席を立つ。
私にもやる事がある。
三日後、極秘に一日ここを空けるとなるとそれなりの細工も必要だ。
当然その間の仕事も処理しておかなければならないので仕事も増える。
となると一秒たりとも時間を無駄に浪費するわけにはいかない。
せっかく極上の道具が入ると言うのに、それを最高会議に悟られて、あまつさえ掠められては面白くない。
逸る気持を抑えながら、己が目的の為に静かに足を進めた。
―コロス
「あ……ぁ…ぁ…あぁ………」
―コロセ
「はぁ………ぁ…ぁ…あぁ」
どんどんどん
―コロセハヤクコロセ
「だぁ……ぁ…め……ぇ………」
どんどんどん
「どうし の? レ ア。こ 開 て」
どんどんどん
―コロセコロセ
「お……かぁ…さ…。おね…ぇ…がぃ…にげぇ…て」
どんどんどん
「 レ シ 聞 え わ。 を けて」
―ホシイホシイハヤク
「はぁ…ぁあ………」
とんとんとんとんとん
「はぁ…」
―ニゲルニゲルニゲルニゲルギゲル
「うくぅ…ぇ……」
―追え追えオエ追えおえ追え終え追え
「がはぁ……ぁぁあぁあぁぁ」
ギシッ…
ペタペタペタペタペタ
カチャ―ギィィィィィ
ペタペタペタペタペタ
トントントントントン
カチャ―ギィィィィィ
ペタペタペタペタ…
「 レ ア!!心ぱ し 」
―ナニこれ?
「どう た だい? イ ア」
―コロセウバエホシイカワクホシイホシイ
「 イシ ? いじょ ぶ ?」
―だめだめだめだめだめ
―ナンデ
―おとうさんだカラ
―ドレガ
「オトウサン」
「 イ ア!!」
ブチュ…
「 え 」
グチャ…ゴクゴクゴクゴクゴクゴク
「エ イシア?」
ゴクゴクゴクゴクゴク
「エレイ………シ」
ドサッ…
―オイシイ
「ど たの?……… と さん!!」
ガシッ
「えっ…… レ シ ?」
グチュ…
バリバリ………ビュッ
ペロペロ
ペロペロ
―オイシイ
「………エレ…ィ……シ……ァ…………」
「失礼します」
一体いつからいたのか、無個性の男が部屋の主に声をかけた。
部屋の主はそれに目もくれず机の書類に没頭している。
今まで幾度となくこの部屋を訪れた男だが、このように仕事をしている姿は初めて目にしたらしい。
僅かながら男の顔に驚きの色が見える。
ほんの僅かな変化だが己の感情を表に出さないように訓練された者がそのような失態を見せる事は珍しい。
それほどにこの行動は奇怪だった。
「あの…ナルバレック様」
男が声をかける。
訊かれた事にのみ機械的に答えるはずの男が自分から声を発した。
それもやはり"男達"に許されていない行動。
この短い間だけで特例とも言える事が二度起こった。
しかしそれを巻き起こした張本人は我関せずとばかりに書類に向かう。
「あの…」
「聞こえている。しかし私は忙しい。くだらん用事は後にしろ」
やっと反応した部屋の主はその男への労いはおろか、その内容を問う事もせずに出て行けと言う。
「アカシャの蛇が姿を現しました」
その言葉に反応し身体を震わせる。
「いつの事だ?」
どうやら無意味では無かったらしい。
ナルバレックはここで初めて顔を上げその男に訊ねる。
先の震えは何を感じたからなのか、その顔には喜色が溢れている。
「二日前の夜の事です。現地の教会と連絡が取れず詳しい事はわかりませんが諜報部隊はそう連絡してきました」
「最新の情報は?」
「諜報部隊も昨日の夜から連絡が途絶えています。恐らく全滅でしょう」
「ふむ」
それにしても運が悪い。
あれから三日。今日トリニティが完成する予定だったのに。
人形の用意が出来次第、七夜志貴を貰い受けに良くつもりがこんなことで潰されるとは運が無い。
やはり一度与えられた機会を活かせなかった者へ仕打ちをするのは当然か。
やはり悔やまれる。
三日前彼らの元に自分が行けば良かった。
―いや…待て
「アリエッタを呼べ」
言葉と共に男がドアを開け、外に出る。
そう。何も機会を待つ必要は無い。
機会が来ないのならば己で用意すればいいだけ。
「失礼」
ドアが開きアリエッタが部屋に入ってくる。
着ている物がいつもの男装染みたスーツではなくただの作業服だ。
もしや終わっていないのか、と懸念していると、
「三人とも大丈夫。いつでも戦える状況だ」
それが聞きたかったのだろう?と嫌悪丸出しの顔で言った。
それならば問題無い。
予定通りに行かなかったが、全ての支配権はまだ私を離れていない。
どうやら信仰深き羊には、神も寛大なようだ。
「おい」
ドアが静かに開き先の男が入ってくる。
「何でしょう?」
「協会に『アカシャの蛇を討伐する部隊を借りたい』と教会から連絡を入れろ」
つまり彼を招待すれば良いのだ。
生贄は二十七祖の番外位ミハイル・ロア・バルダムヨォン。
きっと満足してくれるだろう。
「しかし理由は?彼らが生半可な事で動くとは思えません」
「なに…埋葬機関が出払っている事にしろ。
誰かが戻るまで最低でも一週間はかかる事にしてな。
一週間も死都を放っておく訳にはいかんから頼みたい。
この理由ならば出ざるを得ないだろう。報酬も望み通り出すと言え」
「お言葉ですがあの町はまだ死都になっておりません。
まだ三桁は生存者がいるという話です」
それを聞いてナルバレックは本当に不思議そうな顔をした。
「何を言ってるんだお前は。
まだ成っていないならば成るまで待てば良い。
死都に成った事を確認後、協会に要請しろ。
それまでは事実を隠蔽し、間違っても協会と爺共には知られないようにしろ」
「待て」
話を終え、準備に取り掛かかろうとした両者に声がかけられた。
「お前たち正気か? まだ救える者が三桁もいるんだぞ?
今すぐにでも行って死徒を殺せばたくさんの人が助かるんだ。
あの子供にそれを見殺しにしてまで手に入れる価値があるのか?
そもそも七夜志貴が埋葬機関に入る確証は無い。
それならば確実に助けられる方を選ぶのが上策だろう?」
アリエッタがそう叫ぶ。
身体は震え今にも倒れてしまいそうなほど蒼白な顔をしている。
目の前で行われた、自分の理解の範疇を越えた話に恐怖してしまったのだろう。
彼女の言ったそれはどこにも間違えの無い正しい答え。
故にそれを取る事が聖職者としての勤めのはず。
彼女もそれを信じ、実現させる為に埋葬機関にいる。
「それがどうした?
お前の言う通り確証が無いからこそ少しでも七夜志貴が正しい選択を取れる機会を増やすのだ。
わかっているのなら口を挟むな」
しかしその正しさは清純な者が持つモノ。
彼ら狂っている者が持つ正しさと、彼女が持つ正しさが同じモノのはずが無い。
己の信じる正しさはここに無い。
それを今になって気付き後悔する。
「間違っても動くなよ。私の邪魔をしたら殺す。
私はお前を気に入っているんだ。だから殺させてくれるなよ」
釘を刺された。
今この瞬間から彼女と共に動く時まで私には監視がつく事になる。
失敗した。
少し考えればわかる事を激情に流され、考えもせずに口にしてしまった。
自分の愚かさが痛い。
「アリエッタを部屋に連れていけ」
ふらつきながら部屋を出る私をナルバレックは嘲笑を浮かべながら見ていた。
「くそっ!!」
男がドアを閉めると共に机を蹴り倒す。
こんな事をしても気分は優れない。むしろ不快になる。
しかしこの怒りをどこかにぶつけ、冷静にならなければならないのだ。
唯一、犠牲者を救おうとしている自分が冷静にならなければ誰も救えなくなる。
だから例え子供染みた行為であっても、それを止めるつもりは無かった。
しばらく無意味に暴れ、怒りを完全に発散した。
中途半端な代償行為だった為か気分は優れないが、今は気にしていられない。
そしてすぐさまあらゆる観点から解決策を思案しだした。
しかしどんなに考えても一つしか思い浮かばない。
もっとも確実性が高く、同じほど危険が付いて回る。
つまりこのままここを脱出し、協会に逃げ込む。
幸いトリニティは健在。材料を惜しみなく使えた為これまでで一番の出来だと自負できる。
不安要素は色々ある。
"男達"から逃げ切れるか、協会が信用してくれるか、今からロンドンに向かっても間に合うか、そして私がそれをする勇気があるか。
やるしかない。
私は何の為に埋葬機関にトリニティを入れたのか忘れていた。
―人を守りたい
彼の最後の言葉を叶える為にこうして私はここにいる。
私は人を助けたいのであって死徒を殺したいのではない。
それを忘れていた。
ならば取るべき道は決まっている。
「トリニティ。起きなさい」
人形が三体、人が眠りから醒めるように自然に目を開ける。
「おお、アリエッタ。我が君よ。
どうしてどうした。我は何故目覚める」
恐らくこの部屋も監視されている。
説明にかけられる時間は無い。
最後に息を大きく吸い、覚悟を決める。
「私を抱いてここを逃げなさい。
目的地は協会。今すぐ行くわ」
三人の道化は笑い踊る。
「心得た。我が主よ。
我が全身全霊を持って送り届けようぞ」
一人がアリエッタを抱え、残りの二人が油断無く辺りを警戒しながら走る。
―おかしい
ここまで二分。あと大聖堂を抜ければ外に出れてしまう。
その間一人も攻撃をしかけてくる者がいなかった。
恐らく罠だろう。
しかし止まる事は出来ない。
たとえ罠だとしても逃げ切ってみせよう。
「やれやれ。二分の間に改心してくれる事を祈っていたんだがな」
大聖堂に掲げられた十字架に祈りを捧げていた女が振り返る。
不敵に笑うナルバレックがそこにあった。
彼女は足元に二メートルほどもある棒を置いている。
あれが噂に聞くロンギヌスの槍。
当然レプリカだが、その聖格はオリジナルに匹敵するといわれるナルバレック家が受け継ぐ第十聖典。
彼女が愛用する武器であり、あれを持ち出して逃がした異端はいないと言われる凶器。
そんな物をこの場に持ち出す真意は何なのだろうか。
私を殺すのにアレほどの概念武装は要らない。
彼女と私達の実力差を考えれば、正直ナイフ一本で足りるかもしれない。
「懺悔は済んだか?特別に聞いてやろう。何を残すかよく考えて告白しろ」
ただ単に血を吸わせたいだけなのかもしれない。
本番を前に、準備運動という所だろうか。
この女にいちいちまともな理由を求める方が間違いだ。
「ふざけろ」
窓に向かい突進する。
前を行くトリニティが手を顔の前で交差し跳んだ。
甲高い音を立ててステンドグラスが四方に飛び散った。
続いて私を抱えたトリニティが抜け、少しも間を置くことなく最後の一人も飛び出る。
―おかしい
ナルバレックがこんな古典的な手に動揺するはずも無ければ、通用するはずも無い。
となれば、私は逃がされている。
それが一番順当な答え。
しかしそれならば待ち構えている理由が無い。
「くそっ…」
あの女の言動が無意味だった事が無い以上、この奇行にも必ず意味がある。
しかし今は何をしても生き残らなくてはならない身。
見逃すというのならば、敢えて止まりはしない。
思考を開始しようとする脳を縛り付けて、躊躇せずそのまま走り抜けた。
「逃がしてしまいましたね」
いつの間に入ってきたのか椅子の一つに男が座っている。
その声は今ここで起きた事について洩らしているが、その事に興味があるようには聞き取れない。
「ああ。逃げられてしまった」
ナルバレックも同様。まるで違う事を話しているかのようにどこかピントの外れた受け応えをしている。
「それで良いのですか?協会に知られてしまって」
男の声は無機質で、先日アリエッタに襲撃を命令した声に似ている。
おそらく、いや。立場を考えるとその電話の主はこの男で間違い無いだろう。
埋葬機関二位。これこそがこの男の持つ肩書である。
「問題はある。だがそれ以上に得る物がある」
埋葬機関一位、ナルバレックはそれだけ言うと歩き出した。
「おや?そちらは出口ですよ。どこに行くんです?」
ここに来て男は初めて興味を示した。
どうやら自分の考えが及ばない事に関心を持つタイプの人間らしい。
「なに。アリエッタが向かったからな。
私も動いておかなければ現地に間に合わんだろう?」
なんの事は無い。何故ナルバレックがロンギヌスの槍を携えていたのか。
それはただ単にナルバレックが旅支度をしていただけに過ぎなかったのだ。
「貴方まで出向くのですか?まだ私と四位がいますぞ?」
女は立ち止まり、それを鼻で笑う。
「わかってないな。お前は自分が渇望する玩具を目前にして黙っていられるか?」
それだけ言うと答えも待たずに颯爽と出ていってしまった。
「子供のような心をお持ちですね。ただ」
酷く汚れているのが気になりますが…
男は薄く笑うと、ナルバレックの後を追い、礼拝堂を後にした。