―六花ちゃん

そう呼ばれた。

彼は優しく、そして穏やかにわたしの名前を口にした。

それだけで『この人』七夜志貴がいい人なのだとわたしはわかってしまった。
根拠がどこにあるのかはわからない。
でも理由も無く優しいと思えてしまう。
それだけ『この人』を優しいと思うことは自然であった。

故に恐れることはない。
わたしはそう考え彼に近づこうと前に踏み出した。

「だめだ!!来ちゃだめだ」

七夜志貴…志貴ちゃんはわたしが進んだ分だけ後ろにさがる。
その姿は捕食者に迫られるそれのようで、ただ何かに怯えていた。
何に怯えているのかわからず、わたしは辺りを見回した。

「えっ…」

わたしの口からは単調な驚きの声しか出ない。いや、出せない。
人は自分の理解の範疇を越えたものに出会うと思考を停止させてしまうと言う。
今のわたしの状態はまさにそれだろう。





でも一体ここで何があったんだろう。

岩は砕け、粉塵になり。
木はバラバラに崩れ、積み木みたいだ。
地はひび割れ、花や草はその生涯を終えている。

その中心に志貴ちゃんはいた。

つまりこれは志貴ちゃんが起こしたことなのだろう。
一体どんなことをすればこのように物を破壊することが出来るんだろうか?
少ない知識しかない私には検討が付かない。

わたしの視線に気付いたのか、自分の周りを見て笑った。
それには自嘲の色が然りと聞き取れ、聞いているわたしまで悲しくなってしまう。

志貴ちゃんは顔を歪めながら

「ぼくがやったんだ」

そう口にした。

その声は悲しく切なく、それが嘘などではないことを示していた。
自分の言葉に何かを思い出したのか、さらに顔を歪め、己への憎悪を剥き出しにして叫んだ。

「だから来ないで。今来られたら殺しちゃう」

叫んだはずの言葉に力は無く、わたしにはその拒絶の言葉が助けを求める声に聞こえた。

あぁ…なるほど。
彼が怯えているのはわたしでも、この場所のこの有り様でもなく、この場所をこうした自分自身なのだ。

「うん。わかったよ」

そう言ったわたしを志貴ちゃんは安堵と少しの悲しみを持って見ていた。

「ならこのまま話そうよ」

わたしはその場に腰をおろした。

志貴ちゃんはわたしのその行動が予想外だったのか、驚きに眼を見開いた。

「こわくないの?」

その声はわたしがそう訊きたいぐらいに怯えている。
喜びと不安。
本来なら決して同伴しない感情が互いに潰し合いながらも同じ言葉に乗ってわたしに届いた。
何に怯えているのかわからない。何を怖れているのかわからない。
だけど、彼はわたしがここに居ることを喜んでいる。

ならばわたしはわたしの心が伝わるよう、精一杯の努力をしよう。
わたしはここにいて貴方と話したい。
それが伝わればそれでいい。

「少し怖いよ」

「ならどうして!!」

なんていうニブチンなんだろう。
あんなに心を込めたのに一欠けらも伝わってない。
口にしないと伝わらず、またそれを自分がしないといけない事に少しの恥じらいを感じながら

「だって、志貴ちゃん優しいから」










「だって志貴ちゃんやさしいから」

―彼女、六花ちゃんはそう答えた。

その答えにぼくは驚き、固まってしまった。

彼女は理解している。
この場所をこうしたのがぼくであることを。
また、ぼくがどうやってこうしたのかはわからなくてもそれが人外の力であることも。

それでも彼女は根拠も無くそう言ってくれた。

―優しい。と

彼女が信じてくれることがなにより嬉しい。
だから、彼女が信じてくれる自分を誰より信じられないぼくがなりより悲しかった…。

「だいじょうぶ?」

そんなぼくを彼女は心配してくれる。





きっと彼女はぼくがどうなろうとぼくの味方でいてくれるのだろう…

そんな身勝手な考えが脳裏に浮かんだ。

彼女になら打ち明けられる。
彼女になら頼れる。
彼女なら裏切らない。
彼女なら一緒に悩んでくれる。

ぼくの心が無責任にそう言ってくる。

しかしそんなに簡単に話して良い訳が無い。
たしかに彼女は聞いてくれるだろう。悩んでくれるだろう。
自分の感情を必死に抑えながら。

人は弱い。
己と少しでも違うものは受け入れられない。
一つの例外も無く排除しようとする。
それが人間の本能。
それを否定する気は無い。ぼくも人間だから。

しかし彼女も人間。だから本能には逆らえない。
故に話せば拒絶される。
いくら彼女が優しくても、理解できない恐怖には勝てないだろう。
―それでも聞いてくれる

一体どんな根拠があってこんな考えが浮かんでくるんだろう。
いや、確かに聞いてくれる。
先も言った通り彼女なら真剣に聞いてくれる。
自分の心を削りながら。

「うん。だいじょうぶだから放っておいて」

そんな事して欲しくない。
なんの関わりも無いぼくの我侭で誰かに何かを失って欲しくない。




「なんで?」

そう訊いてくる彼女の目には涙が溢れていた。
顔を伏せ、ぼくには見せないようにしているが、それでも泣いているのがわかる。

ぼくにはその理由がわからない。
なんで彼女は泣いているんだろう。
ぼくは彼女に泣いて欲しくなんかないのに。
その為に彼女を拒絶した。
それなのに泣いてしまわれたらどうすれば良いのかわからない。
「わたしには話せないの?」

ぼくの方を見もしないで必死に嗚咽を堪えている。
決してぼくに気付かれないよう涙を堪え、身体の痙攣を抑える。

そんな事をする理由なんて一つしかない。
ぼくがそれを見て罪悪感を持たないようにするためだ。
彼女はぼくが話さない理由が自分にあると思っているんだろう。
その少女は全てを己のせいにして、ただ純粋にぼくの力になれない自分の無力さをただ悔やんでいた。





なんて愚かだったんだろう…

捲き込みたくない?ふざけるな。
もしその気があったのなら最初から拒否すれば良かったんじゃないのか?
それの機会をわざわざ見逃しておいて今更そんな綺麗事を言うのか?

いい加減認めろよ。





―ぼくが一目見た時から、この少女に逝かれてたって事を





「『線』が見えるんだ」

「うん」

「地面、木、空。そして人にも」

「うん」

「怖くなって眼をとじたけど、それでも瞼越しに『線』は見える」
「うん」

「起きた時に傍に人が居たんだ。その人にも『線』があって、怖くて僕は逃げた」

「うん」

「『線』はどこまでも追ってきて、怖くて痛くて壊れそうだった」

支離滅裂な言葉がぼくの口から溢れてくる。
まとめて話すなんて事出来ない。それでも彼女に伝えたかった。
自分の気持ちに気付いてしまった。
だから伝えたい。
隠したくない。
例えその結果として怖がられ、拒絶されることになろうとも。





「だから…」

「だから『線』を無くせばいいと思って―近くにあった『線』を薙いだ」

「そしたら指がなんの抵抗も無く『線』に沈んで・・・木が切れた」
「…」

「きっとこの『線』はツギハギなんだ。それがわかった時ぼくは正気でいられなくて、自分を見失ってしまった」

「…」

「だからありがとう。
 きみがここに来てくれなかったらぼくは戻って来れなかった」
気付いたら泣いていた。

嗚咽に喉を詰まらせることなく、
目を赤く腫れ上がらせるでもなく、
ただ、流水のようにさらさらと泪が零れ落ちる。

後悔は無い。
彼女に話した事はきっと正しい事。
その上で彼女がぼくを拒絶するのなら、それはしょうがない事。





「そっか」

彼女は優しい、これ以上はないってぐらい優しい声でそう言った。
母が子をあやすような声。不安を消し去る魔法。
その声はぼくの頭上から聞こえてくる。

「えっ…」

ぼくは抱かれていた。

親が子を守るように、彼女はぼくを優しく強く抱いている。

「なにを…」

後の言葉は続かなかった。

だって…彼女は泣いているから。

ぼくを守るように抱きながら、ぼくに縋るように身体を寄せ、嗚咽を殺している。

「わたしには志貴ちゃんの苦しみはわからない。










あぁ……そうか…










 だけど、志貴ちゃんが苦しんでるのはわかるよ」










彼女はぼくのために泣いているのだ。





「ありがとう」

その言葉にどれだけの気持ちを込めただろう。

ぼくは独りだった。
いや、独りになった。
七夜のみんなが殺され、世界にも捨てられたのか眼も壊れた。

そんなぼくを六花ちゃんは信じてくれた。
信じさせてくれた。

「うん」

この気持ちの全ては伝わらないだろう。

しかしそれでもいい。この気持ちの一欠け、それ以下でもいいから伝わればいい。

そう思う。
だから心の中でもう一度「ありがとう」と言った。