ぼくは今一人で森にいる。
いや、森にいるのだと思う。
あの後、ぼくは六花ちゃんのお母さんから呪布を貰った。
一人で捲こうとしたら六花ちゃんに取られ、そのまま六花ちゃんに捲いてもらうことになった。
何でも、面倒は任せろ。らしい。
呪布を捲いたら『線』はきれいさっぱり見えなくなった。
とある巫淨が神を封じた時の切り札だ。という曰くがあるとかないとか言う呪布なのだから、
一個人の持つ奇怪な眼を完全に封じることができるのは当然と言えば当然なのだろう。
同時に頭痛も消え、あの日以前の自分に戻れたのだと実感できた。
しかし、その代償と言うか必然というか・・・
呪布を捲いたのは目なのだから、『線』や頭痛と共に視界を封じることになってしまった。
まぁ別段困る点もないので問題無いのだが。
それに『線』や頭痛に比べたら、この状況は数倍幸せだと思う。
幸いな事にぼくは七夜だ。
自分の周りのこと、例えば地面の形、前に何があるか、程度なら多少は肌で感じ取れる。
でもまぁいきなりこの状態に慣れろと言われても難しいから、こうしてこの感覚に慣れるために森に来ている。
・・・と思う。
自信が無いのはここまでも一人で来ているからだ。
ぼくがここ巫淨に来てから一週間は経つらしいが、実際にぼくが起きていたのは昨日の夜から。
そして、歩いた(正確には走った)道は半狂乱になりながらの家と森の間だけだ。
・・・そんな状態で盲目の子供が一人で出歩くなとも思うが、なんとかなるだろうと思い、適当に歩いてきた。
そして、運良く森に来れたらしい。
やわらかく反発し足に馴染む腐葉土
鼻をほのかに刺激する木の匂い
頬を撫でる水気をかすかに含んだ微風
それら全てが、ここが森であることを教えてくれる。
だからここは森だ。
―さて、時間も惜しい・・・閑話はここまでにしよう。
ここからは七夜としての話だ。
ぼくが今現在、そしてこれから負う事になる欠点は
胸に傷があり血が足りないこと。
そして、目を封じていること。
この二点である
この二つが戦闘においてどのような影響を及ぼすか事前に調べておかなければならない。
もしもの時、自分に何が出来るのか知っておかなければ不利になる。
知っていても、知らなくても変わらないと思うなら、それは違う。
戦いは何も真っ向からの打ち合いだけを指す訳ではない。
相手の隙や弱点を探り、そこをつくのも立派な戦いだ。
何を言いたいかと言うと、自分の弱点を把握し、
それが不利にならないように行動することも、地味だが大切だと言いたいわけだ。
ぼくはナイフ、七つ夜を構えた。
このナイフはぼくの主武器で、昨日呪布を貰った時に渡してもらった。
本来なら他にももう一つ武器、と言って良いのかわからないが。を使うのがぼくの戦闘スタイルだが、
目を塞いでいる状態で使える物ではないので、それについては後日考えることにする。
集中するために深呼吸を繰り返す。徐々に呼吸の間を広げていき、気を落ち着かせる。
それと共に感覚を広げ、場の流れを支配していく。
本来なら一息でしなければならない動作だが、今は基本に帰ると言うことで時間をかけ、丁寧に段階を踏む。
一呼吸繰り返すごとに身体が時間に置いて行かれる。
木の揺らぎ、風の流れ、それらを実際よりゆっくりと感じる。
今なら土の上に針が落ちる音でさえ聞き取ることが出来るだろう。
大きく息を吸い込み、一間止め、時間を優に三十秒は掛け肺の中の物を全て吐き出す。
それで終わり。
息を吸い込み己が動くための燃料を必要最低限取り入れる。
戦闘において腹に空気を溜める事はしてはならない愚行だ。
腹に隙間を作り、衝撃を伝えやすくする自殺行為である。
故に必要以上に取り入れることはしない。
鍛錬だからそこまで気を使う必要は無いなんて言い訳は通用しない。
余裕がある時こそ、最悪のケース。
つまり、相手の力量が自分に拮抗、または自分を凌駕し、
いつ攻撃を仕掛けられてもおかしくない場合を想定して訓練をするべきだ。
「ふっ・・・」
鋭く息を吐き出し、地を蹴り前方にあるだろう木に向かい跳躍した。
ドガッ・・・!!
「っ・・・」
確かに木はそこにあった。
しかし描いていた場所より人一人分程後ろに誤差があったようだ。
そのため、木を足場にし二段跳びをしようとしたのが無様にも足を空振り、木に激突してしまった。
ドン・・・!
落ちた勢いを受身で殺す。
だが、その衝撃だけで胸は痛み、熱を持ち意識を刈り取ろうとする。
傷が心臓の鼓動に合わせ脈動する。
脈動のたび、傷が触手を伸ばし身体を蝕んでいく。
目の前が暗くなる。立ち眩みなんてレベルじゃない。
目を突然もぎ取られたかのように視界が無くなった。
―ドクン 鼓動と共にせり上がる吐瀉物
―ドクン 痛みに堪えられず身体を捨てて逃げていく魂
―ドクン 誰かの腕が胸からはえてくるような不快感
―ドクン 忘れたいのなら・・・・
クルエ
「っあっ・・・」
だめだだめだだめだだめだだめだだめだ・・・
余計な思考は全て切っていく。
ようやく周りを確認できる程度に視界が回復してきた。
運の悪いことに胸の傷を木の根が飛び出している所にしこたまぶつけたらしい。
平地だったなら転んでも、もう少しは楽なのかもしれない。
それにあんなに痛まない限り、あの事を連想することはないだろう。
普段思い出そうとしてもまったく思い出せないのに、こういった痛みや恐怖を感じた時は強制的に思い出させられる。
まったく。迷惑過ぎて自分の身体なのに呆れてしまう。
運がなかったことにして起き上がろうとする。
途端、目の前が暗くなる。
バランスを失いまた座り込んだ。
なんてことだ・・・あれだけで眩暈がするなんで。
気付いたら顔から汗が噴き出していた。
それを拭う。拭ったそばからまた噴き出してくる。
少し身体を打っただけで身体中から汗が噴き出し続け、身体の異変を宿主に教えようとする。
―まずい。このままではもしもの時何の役にも立てない。
「どうする・・・」
まったく考えが浮かんでこない。
当たり前だ。
戦いとは五感全てを尖らせ相手の隙を探し、また、相手に隙を見せず、
反撃の機会を与えることなく確実に殺すことだ。
簡単に言えば、戦闘は何をおいても勝つことを優先する。
それに最初から一つ欠けている、それも一番重要な視界を欠いている者が対等の立場に立てるはずがない。
視界は人間が外部より取り入れる情報の約七割を担っている。
それが無いと言うことがどれだけ影響を与えるかは言うまでもない。
しかし今はこんな悲観的なことを言っている場合ではない。
やれないではなく、やるのである。
簡単な方法はすぐに出てくる。
そう、この呪布を取れば言いだけの話だ。
そうすれば遅れを取るどころか、簡単に殺すことも出来る。
だがしかし、
「この布は絶対取らないこと。
この布を取るのも捲くのもわたししかしちゃいけないからね」
と約束している。
彼女との約束は必ず守りたい。
それがぼくが今ここに居る為の最低限のルールだ。
だから最後の最後までこの布を取らないで戦える方法を考えようと思う。
「はぁ・・・」
あまりにも絶望的な状況に涙は出ず、代わりに笑いたくなった。
―このままじゃ駄目だな。
気分転換に歩くことにする。
歩く程度なら問題は無いだろう。
一人で森の獣道を歩く。
思った通り、歩き程度の速さなら周りをちゃんと把握することが出来るようだ。
先は急ぎすぎて、いきなり空間把握を、しかも全力で移動している時にしようとしたため失敗したが、
この調子なら、歩く速度から慣らして行き、徐々に段階を踏んでいけば空間把握も夢ではないかもしれない。
まぁこの案も時間がかかるため、何の対抗策にもなっていないが・・・
とにかく今は森を進むことが出来るだけで充分だ。
森が少しはこの鬱憤とした気持ちを晴らしてくれるだろう。
いろいろな音が聞こえてくる。
ぼくの足音、木々のざわめき、鳥の声、時折吹く風が木々を通り抜ける音
目をつぶると耳がよく聞こえる。
そんな定説を自分自身で確認するはめになるとは思わなかった。
思わず笑ってしまう。
風の向きが変わり、開けた場所に出たことを教えてくれた。
足元を流れる草がこそばゆく、微かに香る風は涼しい。
どこから流れてくるのだろう・・・風が運ぶ花の香りが安らぎを与えてくれる。
―その香りに心を奪われた・・・
どこから運ばれてくるのか、近くなのか、遠くなのか、それすらもわからない。
しかし、このまま歩き続ければいつかその場所に行きつくことが出来るような気がした。
確証は無い。それでもそう感じる。だから歩を速めた。
そこはそれほど離れていなかった。
あまりにも急ぎすぎたため、乱れた呼吸を整えながら歩く。
そして足を止めた。
きっとぼくの前には地平線まで続く花が咲き乱れているのだろう。
見たい。が、見るわけには行かない。
それに見てしまったらきっとキレイじゃなくなってしまう。
だから決して呪布は外さず、ただそこに立っていた。
どのくらい時間がたっただろう・・・
ぼくはいつしかこの世界と同化していた。
ここで過ごした時間はどれくらいなのだろう。
五分、三十分、一時間、もしかしたら一分も経っていないかもしれない・・・
「なにしてるの?」
不意に後ろからそう問われた。
「何もしてない」
振り返らず、前方に広がる世界を眺め続けながらそう答えた。
「ふーん。わたし琥珀。こっちが翡翠ちゃん」
どうやら二人いたようだ。
訊いてもいないのに自己紹介してくる。
正直放っておいて欲しい。気が散ると、この世界に置いて行かれそうだから。
「なにしてるの?」
再度問われる。一人にして欲しい。
「花を見てる」
このまま放っておいても進展は無いとわかり、簡潔に答えることにした。
「見えるの?」
おかしなことを訊いてくる。
ここに花は無いはずだ。それにぼくは目を塞いでいるから見えるはずがない。
「見えないよ。それでも花を見てるんだ」
自分でも間の抜けた事をいっていると思う。
理解できなくても何も不思議ではない。
むしろ、理解できなくて当然だと思う。
「その花はきれいなの?」
かすかにだが声が違う。
きっと琥珀ではなく翡翠なのだろう。
「きれいだよ」
「きっとここに花は無いんだ。
それでもあたり一面に花が咲き乱れている。
一輪一輪が咲き誇り、世界を作っている。
ね?キレイでしょ」
そしてその世界には僕しかいない。
ぼくに見られる以外に役目が無い花は、それでも懸命に花弁を広げる。
ぼくはそれに応え全ての花を見ようとするが、
あまりにも広く、あまりにも多い花の世界に圧倒され、ほんの一握りの花しか見てやれない。
ほとんどの花は無意味にその命を散らす。
それでも、いつか自分をぼくに見てもらうために懸命に咲き誇る。
その時が永遠と呼べる先にあり、刹那の間だとしても。
思わずまじめに答えてしまった。
かなり恥ずかしい。
きっとふたりとも奇怪な物を見る目でみているだろう。
「へぇー・・・何かいいね。羨ましいな」
しかし返ってきた応えはキレイで、濁りの無い想いだった。
「え?」
思わず振り返ってしまう。
「キレイなんでしょ?そういうのを見れるのって素敵だと思うな」
「わたしもです。キレイなものは好きだから」
夢を見ているかのような調子で語ってくる。
でも笑い飛ばせない。
だって、あまりにも純粋なこの二人の在り方をキレイだと思ってしまったから。
「ぼくの事を変だとおもわないの?」
「わたし達にはわかりません」
「でも、間違いだとは思えない」
肯定でも否定でもなく、疑問でもない。
人の在り方を一つの可能性として容認する思想。
「ありがとう」
先に迷惑だと思ってしまったことを恥じる。
彼女たちに会えて、そして話せて、嬉しい。
現金な話だが、七夜志貴は琥珀、翡翠の在り方に好感を持ったようだ。
そういう諸事情の謝罪と、感謝を込め、とても遅れてしまった自己紹介を返す。
「遅れたけど、ぼくは七夜志貴。よろしく」
さっきは無視してしまったから、今度は進んで話し掛けることにした。
「それより、なんでここにいるの?」
そもそもここは森の中、
子供のぼくが言うのもなんだけど、子供だけで入ってくるような場所じゃない。
「え?だってここわたし達の家の近くだもん」
「こんな森の奥に」
それこそまさかだ。
こんな森の奥に家があるとは思えない。
おそらくこの二人は巫淨の人だろう。
ならばぼくがいた屋敷を中心に集落を作っているはずで、
この二人の家もその集落にあるはずだ。
「えーっと。うーん」
やはり何かあるみたいだ。
悪いことならちゃんと注意しなければならないし、
良いことなら手伝いたい。まぁこんな状態で手伝えることなど高が知れているが。
「ここは本家の屋敷のすぐそばです」
翡翠が何かに気付いたのか笑いながら言う。
ん?本家ということは、ぼくが寝ていた場所だ。
―つまりぼくは森の奥に進んでいるつもりで帰ってきていたのか・・・な?
軽い敗北感に打ちひしがれ、長いため息をついた。
「あはー。そういうことですか」
琥珀も気付き、二人で笑っている。
「つまり遭難してたんだ」
―・・・痛い
何が痛いって、全てとしか言えない。
顔が熱い。きっと顔中真っ赤になっている。
きっと目が見えていたら一目散に森に逃げただろう。
しかし、今森に入ると本当に遭難してしまうかもしれないので入れない。
それがとても悲しい。
そういうことを散々からかわれながらしばらく雑談をしていた。
「それで、志貴ちゃんはお昼もう食べた?」
不意に思い出したのだろうか、今話していた事と噛み合わない。
ちなみに、今は二人の家族構成について話してもらっていた。
なんでも父親を早くに亡くし、家族は母親と三人だけらしい。
でもこの里も七夜と同じで、一族同士仲がとても良く、寂しい思いなどはしないですんだらしい。
「ぐっ・・・」
おそらく意図せずの問いだろうが、ぼくには苦虫を噛み潰す方がまだ優しいと思える。
何故ならぼくは森の中で迷って、ここに出てしまったのだ。
おそらくここで二人に会わなければ昼を食べれないどころか、本格的に遭難して空腹に苦しむ所だった。
だからそう問われることは、自分の間抜け具合に気付かなかった事を問われていることと同意なのだ。
「もうすぐ一時だからお腹空いたでしょ?」
「うん」
・・・そんなに長い間引き込まれていた覚えはないのだが、
どうやら小一時間は瞑想にふけっていたらしい。
「なら一緒に食べよう?家すぐそこだから」
「いいの?」
思わぬ幸運に知らず声が弾んでしまう。
「うん、なら決まりだね」
琥珀はぼくと翡翠の手を取って走り出す。
「ほらほらはやく!」
「ただいま」
「ただいま」
「お邪魔します」
走って四、五分転びそうになりながらも何とか着く事が出来た。
「お帰りなさい。あら?その子は」
大人の女性の声がする。おそらくこの人が二人の母親の瑪瑙さんなんだろう。
「志貴ちゃんだよ」
「七夜志貴です」
琥珀の紹介を受けて、名乗る。
「そう。貴方が七夜の子なのね」
やはり『あの事』が気まずいのか、すまなそうに呟く。
「はい。一週間前からお世話になっています」
しかし、ぼくは『あの事』つまり七夜が滅ぼされた事をそんなに気にしていない。
と言うよりも覚えていない。
突発的に思い出すことはあるが、大部分は思い出せない。
わからないものにどうして憎悪を持てようか。
ぼくが唯一気にしているのは意識を手放す前に見た誰かの背中だ。
あれはよくないモノ。誰かが殺さなくてはいけないモノ。
それ以外に覚えているものは・・・赫い月だけ。
あと・・・後になって気付いたことだが・・・
独りになったことも忘れられない。
けど六花ちゃんが救ってくれた。
だからもう独りじゃない。
それに琥珀と翡翠も多分友達だ。
こっちが勝手に思っているだけかもしれないが、そうであることを願う。
きっと二人も友達だと思ってくれている。
「・・・そうですか。それで、どうしたの?」
瑪瑙さんは簡潔にあの話を終わらせた。他人の事情に深入りするような事はしないのだろう。
うん。ここの人は皆良い人だ。
「一緒にご飯食べるの。いいでしょ?」
琥珀が人生で一番幸せな事のように笑ってくれるのがとても嬉しい。
ぼくまで幸せになれる気がする。
「それならおにぎりにしましょう。外で仲良く食べてきなさい」
瑪瑙さんも笑いながら返してくる。
それが、ひさしく忘れていた家族の温かみを感じさせてくれる。
「うん」
琥珀と翡翠が元気に返事をする中、ぼくは少し泣いてしまった。
そうして今ここにいる。
あの後、ぼく達はしばらく玄関で話していた。
そうしたら瑪瑙さんがすこし大き目の紙袋を持って現れた。
「はい。仲良く食べなさい」
琥珀に紙袋を渡しながら笑う。
「「うん」」
「はい」
元気よく飛び出していく琥珀に遅れないよう、そして転んで翡翠を心配させないよう、
細心の注意を払いながら追いかけた。
ここは川と言うより、せせらぎと言う方がしっくりくる。
緩やかに流れる水は微かな音を響かせ静寂を優しく壊し、ここに居る者全てに落ち着きを与えている。
風は淡くこの身を包み、揺り篭に揺られているようだ。
自然の揺り篭。
ここを表すとしたらそうとしか言えないだろう。
息を呑み驚いているぼくに
「良い所でしょ?わたし達のお気に入り」
生き生きとした声で琥珀がそう自慢してくる。
きっと琥珀は腕を組んで、胸を反らして仁王立ちしている。
「見れなくてもわかるよね?」
翡翠もそう訊いてくる。
翡翠も浮かれているのか、落ち着いた声にそれ相応の幼さがにじみ出ている。
「うん」
余計なことは省き、感じたままに口にした。
しかし省きすぎたかもしれない。いくらなんでも頷くだけはないだろ・・・
「さ、食べよう」
それでもちゃんとわかってくれたのか、先より元気な声で琥珀がそう切りだした。
琥珀と翡翠に誘導されながら三人で近くの倒木に腰をかける。
―その時・・・
「・・・ハァハァ・・・ふぅ。やっと見つけた」
森の方から声がした。
「志貴ちゃん。目が見えないんだから遠くに行っちゃだめでしょ。
帰って来れなくなったらどうするの?」
六花ちゃんは走っていたのか、息も絶え絶えにまくし立てる。
「ごめん。でもだいぶ慣れたんだ。歩くぐらいなら何も心配いらないよ」
どうやら心配し、探してくれたみたいだ。
心配をかけてしまったことをすまないと思うが、心配してくれたことが嬉しい。
我ながら不謹慎だなと思うが、しかたがない。
「ほんと?よかっ・・・?ん?」
我が事のように喜び、ぼくの手を取る。
そしていざ手を振らんという時に気付いたのだろう。
ぼくの手を上に振り上げた状態で止まり、ぼくの後ろを見る。
「なんで琥珀と翡翠がここにいるの?」
絶対零度の声がぼくの耳を掠める。
無知なぼくは知らなかった。
それが獲物に飛び掛る野生の獣が発するソレよりも冷たく、
そして、今にも溢れんばかりの殺気を内包していたことを・・・
いや、きっと本能が理解するのを避けたんだろう。
七夜が殺気に気付かないはずが無い。
「さっきそこであったんだ」
危険信号に気付かない志貴は己の首を落とす刃をさらに磨く。
「これから三人で一緒に昼飯を食べるんだよ」
―その瞬間、世界が凍る。
「へぇ・・・人が目が見えなくて森から出られなくなったのかもしれない。
と、必死に誰かさんを探している時に、
その対象、つまり本来ならば森の中で恐怖に震えていなければならない誰かさんは呑気にも女性に声をかけ、
そう・・・平時でも将来を約束した女性がいるのなら決してしてはならないことをし、あろうことかこれから食事ですか・・・。
さぞお愉しい事なのでしょうね。
まぁ当然わたくしも誘われるのでしょうが、空耳でしょうか?
先程『三人で』とおっしゃっていたような気がするのですが、そこの所いったいどう説明してくれるのでしょう?」
楽しみです。と、どこにそんな力があるのか、握り潰さんばかりにぼくの手に力を込めてくる。
とても冷たい声に身体が縮こまり、
微かにも動けないはずの身体は独りでに震え始める。
下手なことを言ったら死ぬ。
理性が、いや本能までもが理解した。
何か言わなければならない。しかし反論の余地無し。
さて、ならばやることはただ一つ・・・
土下座
それは両膝を地につき、大地に手をつけ、頭を地に擦り付ける。
日本男子にのみ許された深い屈服の意を表す姿勢。
「すいませんでした!!」
そしてこの気合いの入りまくった声。
このコンボを目の前にして、これ以上不平不満をもらす輩など・・・
「心配したんだよ・・・」
なんて事をしていたのだろう。
そう。謝るとは相手にこちらの誠意を伝えること。
「ごめん」
こんな風にふざけ半分でして良いことではない。
女性にどうとかは置いておいて、
彼女に必死で探させてしまうぐらい心配させたことは事実なのだ。
そのことについて七夜志貴は真剣に謝らなければならない。
「ごめんね。六花。心配してくれてありがとう。探して、見つけてくれて嬉しいよ」
立ち上がり、正面から六花の目を見ながら誠意を込めて伝えた。
「ふんだ。許さないんだから」
そう言いつつもぼくの手を握ってくれる。
その手は暖かく、とても気持ちが良かった。
あの後、琥珀と翡翠にさんざからかわれ、
半泣きになってしまったのは、ぼくだけの秘密だ。
夜。ぼくは静かに屋敷を抜け出し、訓練を始めた。
昼いろいろとあって忘れていたが、現状は何も変わっていないのだ。
どうにかして戦う方法を見つけなければ、本当に役立たずで終わってしまう。
それだけはできない。
ぼくの手で琥珀、翡翠そして六花ちゃんを守りたい。
そのための努力ならば喜んでしよう。
最初は歩く。
針とした夜の空気は音をよく通す。
しかし風が止み、己の足音以外何も聞こえない。
時折吹く風も微弱で、なんの役にも立たない。
それでも止まるわけにはいかない。
今止まると負けてしまう。
―戦える身体じゃないんだ。諦めろよ。
故に止まれない。
木に肩をぶつけ、その衝撃で胸が痛んでも、
転びそうになり、踏ん張った代償に意識を削られても、
止まるわけにはいかない。
今日大切な物を確認できた。
ぼくはそれらを守りたい。
だから・・・
―ふと、懐かしい匂いがした。
―ドクン 踊りまわる人達
―ドクン 叫ぶ声ナク声ワらうコエ
―ドクン 誰かのセナかダレカの腕
―ドクン 思い出せ
―ドクン 思い出せ
―ドクン 何を ?
―血の匂いを
鼓動が高鳴る
傷が脈動する
魂に見捨てられる
誰かに犯される
何かを食い破る
四肢を引き千切る
頭を潰す
笑いながら食べる
食べられる
それを見て笑う
何をしている?
―思い出せ
嫌だ
認めろ
嫌だ
―イヤダ
ダレカのサケぶコエ
「ッ・・・」
今度は間違いなく聞こえた。
これ以上の確認は要らない。
里は何者かに襲撃されている。
―だが、戦えるのか?
この状態では無理だろう。
ならば答えは一つしかない・・・
―この布はぜったいに取らないこと。
この布を取るのも捲くのもわたししかしちゃいけないからね。
「ごめん。一度だけ。一度だけ破る」
呪布に手をかけ、一気に捲り上げる。
―ドクン
『線』が視界を埋め尽くす。
どういうわけか『点』まで見える。
―これなら・・・いける!
身体が悲鳴を上げるのを無視し、全速で里に向かった。