ゆらゆら揺れる。
暖かい…
ゆらゆら揺れる。
海に浮いているみたいだ…
海が身体を溶かして、ぼくの境界線を壊していく。
溶け出した身体は四方に流れゆく。
やがてその存在意義は薄れ、世界に飲み込まれてしまうのだろう。
己で想像したことに恐怖を覚え、目を開けた。
そこは光の中。いや、光そのものだ。
あまりの眩しさに何も見ることができない。
光が無くては何も見えないのに、光が有りすぎると何も見えない。
おもしろい。
まだ夢の中にいるのか?
でもそれじゃあ、この確りとした意識は何なのだろう。
夢か現か確かめたくて手を伸ばし、何かを求める。
だが、掴めるものは何も無く、空虚だけが指の間をすり抜けていく。
ここには何も無いのかもしれない。
仮に間違っていても同じ事。
ここに何かがあっても認知することは出来ない。
定義できないものに概念など無く、概念の無いものに存在など無い。
故にこの世界が存在を赦すことは無く。
同時に、全ての存在を赦している。
身体が揺れている。
先生に背負われた所までは覚えているから、たぶん先生の背中で寝てしまったのだろう。
揺れる。今度はかなり乱暴だ。
それに人の声が聞こえる気がする。
揺れる。いや、揺すられた。
「ほら。起きなさい」
目を開けると先生の顔があった。
「おはようございます」
反射的に挨拶した。
それを聞き、先生は不機嫌そうにぼくの頭をペシペシ叩いてくる。
「なーに寝ぼけてんのよ。今は夜よ」
起きてんの?と頭を揺すってくる。
上手いのか下手なのか、脳がグルングルン掻き回されて気持ちが悪い。
「起きてます。だから止めて下さい」
寝起きに脳味噌を掻き回されて気分が良い奴なんているわけがない。
ぼくも当然その中の一人だ。だから当然気分が悪くなってげっそりしてしまう。
それでも寝起きよりは幾分か頭が覚醒しているのか、周りを確認する余裕ができた。
笑い声が聞こえる。
どうやら向かい側に座っているおばさん達が笑っているようだ。
うむ…いったいここはどこだろう。
ぼくは椅子に座っていて、横には先生が座っている。
今は夜だと言うが、肌に感じる空気は暖かく、しかし澱んでいる。
恐らく閉鎖された空間にいるんだろう。
しかし身体は左右に定期的に、もしくは不定期にゆれている。
つまり閉鎖された空間ごと動いているという事になる。
向かい側におばさん達がいるということは、向こうにも椅子があるのだろうか。
壁は大部分が硝子張りなのか、冷えた隙間風がどこからか入ってきて首筋を撫でる。
これが電車かな?ぼくが知っている電車の特徴と一致する点が幾つかある。
これが電車なら、何故ぼくは電車に乗っているのだろう。
電車とは人の移動手段だと聞いた。それならばいったいどこに向かっているのだろう。
「先生。これ電車ですよね。どこに向かってるんですか?」
感覚から言って、どうやらぼくは二時間ほど寝ていたみたいだ。
その間に電車に乗り、今もこうして乗っているのだろうが、状況をいまいち把握できない。
「嫌な所よ」
それなら行かなければいいのに。とは言えなかった。
わざわざ時間をかけて嫌な所に行くとなると、おそらくぼくに何か関係があるのだろう。
「そこってどんな所ですか?」
ならばぼくは万全の状態でそこに臨まなければ先生に失礼だ。
差し当たって、まずは情報だろう。
そこが何なのかを知っておかなければ話にならない。
「もう少しで駅に着くから、それまで待って」
先生が言い終える前に身体が右に流された。
電車が減速しているからだろう。
甲高いブレーキ音と共に電車は徐々に減速していき停車した。
「ほら行くわよ」
駅に着いたのだろう。
先生が立ち上がると、ドアが開いた。
機械仕掛けの扉だ。プシューと空気が抜けるような音と共にスライドする音が聞こえる。
ぼくも先生に手を引っ張ってもらい立ち上がる。
ぼくが不慣れなのを知っているのか、そのまま手を繋いで電車を降りる。
「そこ隙間あるから気をつけて」
よくわからないが、気を付ける必要があるみたいだ。
大股で踏み出す。
なるほど、段差が出来ていた。
大股で踏み出したので、逆にバランスが崩れてしまったのはいただけないが。
おそらく今跨いだのは電車と駅の間だろうが、実際たいした事は無い。
隙間があったとしても二十センチ程度なのだろう。
「ほら。気を付けろって言ったでしょ」
呆れた声で注意された。
実は何も言われなかったらこんなことにはならなかっただろうが、それを言ったら殺されてしまうので言わない。
「ごめんなさい」
確かに注意を正確に捉えられなかった自分にも非があるので、謝る。
だけど今度からはもう少し詳しい説明を加えて欲しい。
これも心の中だけで呟く。
誰だって自分から死にたくは無い。
回避できる死なら喜んで逃げよう。
「うんうん。偉いわよ。ちゃんと自分の非を認められるようになったら一人前ね」
…先生はどうなのだろう?
猛烈に訊いてみたいが、これも殺されてしまうだろうから止めておく。
…なんだか先生といるのは死と隣り合わせだ。
何気ない日常がスリリングになってしまう。
駅を出るとひんやりとした外気が身体を撫でてくる。
周りは静かで人の気配がしない。
それが余計に身体を冷やし、着物一枚のぼくにはきつい。
あれ?そう言えばどうしてぼくはきれいな着物を着てるんだ?
「先生。ぼくの服どうしたんですか?
あと、これから行く場所そろそろ教えてください」
ちょうど良いし、まとめて訊くことにする。
「あれ?もしかして気にしてた?」
ぼくが忘れていると思ったのだろうか、先生が驚いている。
と言うより先生は電車の中でぼくの話を流したらしい。少し悲しくなった。
「私の姉の所よ」
約束したことは守るのか、どうでも良いでしょ。と投げ遣りにだけど答えてくれた。
しかしなんで姉の所に行くのがそんなに嫌なんだろう。
それに何故行くのか、ますますわからなくなった。
「まぁいろいろ感想があるみたいだけど、今はその時ではないでしょ?だから後にして。
姉貴の所に行くのは、とりあえず君のこれからについて話し合いをしようと思ってね」
ますますわからなくなる。
話し合いならぼくと先生ですれば充分だと思うのに、何か理由があるのだろうか。
「混乱するわよね。でもその理由についても後でまとめて説明するから今は勘弁して」
どうやら全て先生の姉の家に着いてかららしい。
でも、どうして今じゃ駄目なんだろう。
「どうして今は駄目なんですか?」
先生は口を開きそこで止まる。あれ?と呟き、首を傾げた。
「よくよく考えてみたら今話しても、後で話しても変わらないわね。
ごめんなさい。ピリピリしていて考えが回らなかったわ」
先生が緊張してしまうほどのところなのだろうか…
少し身震いがする。それを寒さのせいにして、訊いてみる事にした。
「それなら話してくれませんか?」
考えているのか少し間があく。
「いいわよ。確かに話しておいた方が良いこともあるし」
それに歩いてるだけじゃ退屈だしね。といたずらに微笑む。
「これから話す事は一つだけ。
後のことは君の選択によって異なるから、今は言えないわ」
一間起き、声が真剣な時の先生の物になる。
「君にはこれからある選択をしてもらう。
選択肢は二つ。
一つは今から行くところ『伽藍の堂』に留まり、日常の中で生きる道。
多少『こちら側』にも関わることになるだろうけど、日常の中で生きていける。
もう一つが私と共に『時計塔』に行き、そこで私の手伝いをしてもらう道。
これは当然日常には戻れない。
これ以上のことは君の選択が終わってからね」
「わかりました」
何だか難しい話だが、ぼくが何をしなければならないのかはわかった。
「うん。よろしい。ちゃんと考えて、よく悩んで、そして答えをだしなさい」
それからはただの雑談に戻った。
ぼくの服は、しばらく歩いていたら焼け残っている家を見つけて、そしてそこから頂戴したそうだ。
なんとなく嫌な気分だが、血まみれの服を着て歩くよりマシだと腹をくくった。
「さ。着いたわよ」
あれからの道のりはよく覚えていない。
なんせ先生に引っ張られるがままに歩いていたのだ。
ちゃんと悩めと言われたから、真剣に自分なりに考えてみた。
無論どちらを選ぶかをじゃない。
なんでぼくがそれを選んだかをだ。
階段を登っていく。
この建物も、その周りも静かで、辺り一面に先生の足音が響き渡る。
さっきから建物が一つの生物のような感覚に襲われる。
その化け物をこの音が起こしてしまわないかとても不安になった。
しかし何も起きずに目的の階に着いたようだ。
「やはりお前か。何をしに来た?」
先生の姉の声だろうか…ドアを開けるや否や、きつい口調で声をかけられた。
それに、何だか敵意が混ざっているような気がする。
「そう邪見しないでよ。遊びに来ただけなんだから」
姉がそうだからこの妹なのか、先生はいつもの調子で軽く受け流す。
「はっ。お前がただ単に遊びに来るはずが無い。笑わせるな」
それにしてもこの姉妹はどうなっているんだろう。
じゃれ合いでこういう事を言っているならわかるが、どうやら本気で言っているみたいだ。
二人とも声が凍えてしまいそうなほど冷たい。
「だから本当に遊びに来ただけよ。この子の事のついでに」
ぼくの背中を押して前に出す。
ぼくとしては止めて欲しい。なんだか恐怖以外を感じない。
「なんだその小僧は?」
なんて強い視線なんだろう。敵意も殺意も含まれていないのに身体が震える。
「私が拾ったの」
今はそれどころじゃないから突っ込めないが、その言い方だと誤解が生じてしまう。
「ほぅ。お前がか?」
笑わせるな。と嘲笑する姉。
「魔眼持ちだし、色々あって放って置けなかったのよ」
二度目は駄目なのか、より一層強い怒気を含ませて反論する先生。
怒るのはいただけないが、先の冷たい空気よりはいつもの先生らしいから少しほっとした。
「そのぐらい見ればわかる。
その程度で面倒を引き受けるほどお前は甘くないと思っていたんだがな」
しかしすぐに言い返されてしまった。
押し黙る先生の態度が可笑しいのか、愉快そうに笑っている。
どうやら先生の姉も普通の人では無いらしい。
『魔眼』という言葉を普通に流していた。
「『直死の魔眼』でもそう言える?」
先生が意を決したような声でその言葉を口にした。
それにしても聞き慣れない言葉がまた出てきた。
どういう意味を持つのか、それを聞いた途端、笑い声が止んだ。
「ほう…なるほど。
例外を起こす事象は決まって例外である、か…。
これはまた難儀なガキを拾ったな」
先と同じ嘲りの言葉。ただ、もう声は笑っていない。
「うるさいわね。気になるんだからしょうがないじゃない」
姉の声が真剣になったのを感じ取ったのか、先生もまじめに答える。
と言うか、とても恥ずかしい。
先生にそういう事を言ってもらえるのは嬉しいが、ぼくは今蚊帳の外で、反応出来ないから性質が悪い。
「はっ。よもやお前の口からそんな温かみのある言葉がでるとはな。
小僧。礼を言うぞ。珍しい物を見せてもらった」
真剣さはどこにいったのか先生をまたからかい、爆笑する。
「煩いわね。志貴は関係無いでしょ」
それに律儀に反応して顔を真っ赤にして怒る先生。
なんだ。
なんだかんだ言って、それほど仲が悪いわけじゃないんだ。
会話に入れないぼくはそんな他愛も無いことに納得していた。
「いや。そうとも言えんぞ。
そも、お前がここに来た理由はその小僧にあるんじゃないのか?」
そう言われ、そこでやっと目的を思い出したのか、
「あーもう。これだから嫌なのよ!!」
先生が逆?ギレして叫んだ。
「私とてお前の顔を見るのか勘弁願いたい。
しかし今回はその小僧の『眼』に免じて赦してやっているだけだ。
それで、私に何をしろと?」
先生の心の叫びをあっさり無視し、本題に入る。
きっとあの人に口喧嘩で勝てる人は存在しないだろう。
「それにはまず志貴の選択を聞かなきゃいけない」
先生は文句があります。って顔で姉を見ながらそう言うと、
「さっき訊いた事あるでしょ?決まった?」
そう訊いてきた。
決まったもなにも、答えは最初から決まっている。
ただ、理由をみつけられないだけだ。
「ぼくは先生と一緒に行きたいです」
それを聞き、姉は笑い出した。
「なんだ?先生だと?くく…そう言わせてるのか?」
しかし先生が何故か反論しない。
さっきまでなら怒鳴り返していたのにどうしたんだろう?
「ほう。そんなにその小僧が大切か」
そうか。先生はぼくのために押し黙っていたのだ。
今姉の機嫌を損ねて、ぼくに良いことなんて一つもないから。
だから黙ってくれている。
「まぁいいだろう。それで、何を選択したんだ?」
そうぼくに訊いてきたので、先のいきさつを簡単に話した。
「なるほど。この小僧を『こちら側』に捲き込むつもりか」
何を考えているんだか。と額に手を当てながら呟く。
「志貴がそう望むなら捲き込むわ」
しかし先生はそう言い切ってくれた。
ならば心配する必要など無い。
今自分がすべき事をするだけだ。
「だがいいのか?
たしかに『直死の魔眼』はそれだけで絶対的な力を持つ。
しかしだ。如何に強大な力を持とうが、殺し合いに慣れている者でなければまったく役に立たんぞ?」
さすがと言うべきだろう。
この人は絶対的な力のみでは勝てないことを知っている。
「それなら大丈夫。志貴は七夜の一族だから」
そう先生が言うと、驚いたのか動きが止まる。
「はっ、出来すぎてるな。で、私に何をして欲しいんだ?」
そう問う声は驚きから一変し、喜色に溢れていた。
「調べて欲しいの。魔術回路の有無と、その本数。あと、聖別も」
「いいだろう。ついでにその魔眼殺しも見てやろう。
見たところ視界を封じるタイプのものだな。
それでは不便だろう。私なら使い勝手の良いものにしてやれるぞ?」
自信満万に言い放ち立ち上がった。
「そう言えば自己紹介がまだだったな。
私は蒼崎橙子。その馬鹿の姉だ」
最後の言葉が気に食わないが、その先生に礼儀と教えられたので、
「ぼくは七夜志貴。よろしくおねがいします。橙子さん」
先に自己紹介することにした。
「ん?あぁ…よろしく」
しかし橙子さんの、この反応で反論の機会を失ってしまった。
つくづく食えない人だ。
反論する間すら与えてくれないなんて。
「まず説明から入ることにしよう。
どうせ魔術がなんであるかも知らないのだろう?」
うなずく。
今のぼくはその言葉がなんであるかすらわからない素人だ。
「魔術とは人為的に神秘、奇跡を再現する行為のことだ。
術者の体内、もしくは外界に満ちた魔力を用い、定められた現象を再現する機構を指す」
やばい、いきなりわからない。
基盤に従い術者が命令を送り、あらかじめ作られていた機能が実行されることをそう呼ぶ。
単語の羅列にしか聞こえない。
「そして、魔力とは魔術を発動させるための要素。言うなればガソリンだな。
世界に満ちている大魔力(マナ)と、生命が持つ小魔力(オド)とに分類される。
この両者に質の違いは無い。ただ、絶対的にマナの方が多いだけだ」
「そして、魔術回路についてだが、今から説明するほうは『魔術師としての資格』の方についてだ。
生命力を魔力へ変換する路をそう呼ぶ。
魔力を電気とするなら、魔術回路は電気を造り出す炉心であり、電線でもある。
そして話は戻るが、マナを行使する際、その数で最大出力が決まる」
きっと、今の僕からは煙が出ている。
でもまぁ…この説明さえ頭に入れておけば、のちのちわかるようになるだろう。
「ぼくは何をすればいいんですか?」
説明された事は後からゆっくり理解していこうと思う。
今の僕には難しい言葉ばかりで、その単語の意味すらわからないのだから。
しかし先の説明には、今何をすればすれば良いのかが抜けていた。
「簡単だ。寝てろ」
橙子さんが指を鳴らす。
その途端意識が闇に呑み込まれ、その場に崩れ落ちた。
「まったく。ずいぶんと面倒な物を持ってきたな」
志貴が眠りについた事を確認した後、青子に振り返りながら悪態をつく。
「しょうがないでしょ。あのまま放っておいたら危険な存在になる気がしたんだから」
そう。初めてこの子を見た時、不覚にも畏怖してしまった。
最初近くに寄るまで死んでいるものだと思っていた。
しかし、近くに寄ると微かだが息遣いが聞こえてきた。
それに驚き足を止めると、それが異常なんだと一目でわかってしまった。
―この子は死んでいる
それが、ミスブルーが最初に抱いた志貴への思いだった。
その事に気付き、自分がこの小さな子供を怖がっていることに気付いた。
それが悔しくて、そして死を纏うその子を助けたくて声をかけたのだ。
「それはそうだろう。七夜志貴。たしか七夜黄理の息子だ。
それが選りにも選って直死の魔眼を持ったんだ。手がつけられる内につけておくことは間違いではない」
どうやら七夜は姉が詳しい情報を知ろうとするほど有名らしい。
自分は七夜黄理と多少の交友があったから知っていたのだが、姉はどうして知ろうとしたのだろう。
しかし今はそういう話をする場ではない。
それにしても、まさか志貴が黄理の息子だとは…
「あら。姉貴が私の意見に賛同するなんてどういう風の吹き回し?」
関係のない話は要らない。
今は姉が何故何も対価を求めないのかを探るべきだ。
「なに。最善を述べただけだ。貴様に賛同したわけではない」
しかし、さすがと言うかなんと言うか、相変わらず本質が見抜けない話し方をする。
「いちいち煩いわね。それで、やってくれるんでしょ?」
最悪、理由がわからなくても良い。
だが、本当にやってくれるのかは気分屋の姉のことだからわからない。
「無論だ。気が散るからどこかに消えていろ」
驚いたことに、姉はやってくれるらしい。
と言うより、むしろかなり乗り気だ。
「わかったわ。ありがと」
いくら姉とは言え、感謝ぐらいしてもいいだろう。
ま、今回だけだけどね。
「やけに素直だな。どうした?」
あからさまに、気が狂ったか。という顔をされてしまった。
しかし今は機嫌が良いので許してやろう。
「別にどうもしないわよ。今から色々やっておくこともあるだけ。
志貴の事が終わったらすぐ出発するんだから」
そう。これから大変だ。
明日までに何としても飛行機のチケットを取らなければならない。
よいしょ。と立ち上がる。
出口に向かい歩いて行くと、後ろから声がかかった。
「ほぉ…貴様が誰かのために動くか…本気で大切らしいな。この小僧が」
反論は出来ない。
何故だか知らないが、どうやら自分はこの子、志貴が大切なようだ。
「そうよ。後頼んだわ」
だから否定はしない。
己の本心を偽ることは如何なる時も最大の恥であるから。
しかし腹が立つし、恥ずかしい。
だから乱暴にドアを閉め、なるべく音を立てて階段を降りることにした。
「いつもあれぐらい素直なら飼ってやっても良いのにな」
妹の滑稽とも言える溺愛ぶりに笑いが込み上げる。
しかし今はやることがあるため雑念を追い払うことにした。
机の上に投げ捨ててあったケースから煙草を一本引き抜く。
ズボンのポケットを探すが、マッチがみつからない。
舌打ちしながら机の上にあったライターで火をつける。
紫煙を胸一杯吸い込み、息を止める。
毒が肺へ、肺から血へ、血から細胞へと全身を駆け巡る。
身体が毒を拒絶し、軽い眩暈に襲われた。
煙を吸い込んだ倍の時間を費やし、一欠けらも残さぬよう吐き出す。
毒と酸欠で今にも堕ちてしまいそうだ。
しかし慌てることなく空気を吸い込み、肺に酸素を取り入れる。
眩暈と吐き気で最悪な気分が一変し、思考がクリアになる。
「さて、始めるか」
「起きなさい」
容赦のないビンタで強制的に起こされる。
一度猛烈に覚醒した意識は、そのビンタのおかげでまた闇に沈もうとしている。
「ほら起きなさい」
再度ビンタをくらう。
先と同じで、覚醒し、また沈む。
その時…
バチィィィン
なんと返ってきた。
つ、燕返し!?
その恩恵で意識は完全に覚醒した。
だが、左右の頬が腫れて、とても痛い。
「ごめんめ。思ったよりヒットしちゃってさ」
知らず表情に出たのか、先生が弁解してくる。
テヘッという感じで笑っているが、とてもじゃないが笑えない。
理不尽な暴力とは、何故こんなにも言い返す言葉が見つからないのだろう…
「まぁたまにはいいでしょ?それじゃ真面目な話にするわよ」
勝手に自己完結して先に行こうとしている。
何て唯我独尊な人なんだ…
つーかたまにでも嫌です。
「志貴についてわかったわ。ついてきて」
しかし真剣になった先生は何を言っても譲ってくれないのだ。
それにこんな些細な事など気にならなくなるような言葉を聞いた。
はやる気持ちを落ち着けさせながら先生に続く。
「よく眠れたか?七夜」
この人は自分で強制睡眠をさせておいて少しも罪悪感がないみたいだ。
少し、いや、マジで警戒する必要があるかもしれない。
「何だ?その目は」
こっちが言いたいことなんてわかっているくせに一々訊いてくる。
挑発だとわかってはいるのだが、抑えるのがやっとだ。情けない…
「ふむ。存外に冷静だな。まぁいいだろう。そこに座れ長くなるぞ」
無造作に放ってある椅子を指差しながら、つまらなそうな声でそう言ってくる。
ぼくがもう少し歯向かってくる事を期待したのだろうが、思う通りに動いてやる義理はない。
ぼくが椅子に座ると、橙子さんがおもむろに話し始めた。
「さて、まずはお前の魔術師としての才能だが。
これが魔術師の家系でもないのに中途半端に多くてな。魔術回路は一七本ある」
魔術回路…たしか魔術師としての資質とか言っていた。
これの数によって扱える魔力の許容量や、能力が決まるらしい。
「簡単に言おう。お前は魔術行使が出来るというわけだよ」
おー…
「なんだ?喜ばんのか?」
ぼくの反応が意外だったのか、眉を寄せて訊いてくる。
橙子さんから見ればそうかもしれないが、ぼくとしては微妙な感じだ。
橙子さんは多いと言ったが、十七は少ないような気がする。
一般の魔術師がどのくらい魔術回路を持っているのかは知らないが、ぼくの保有量はきっと下の方だろう。
「嬉しいですけど、そんなに舞い上がることはできません」
そういう訳で素直に喜ぶことが出来ない。
もしこれが先生の合格ラインに達していなかったら絶望的だし。
「ふむ。なるほど」
橙子さんは何かに気付いたのか含み笑いをした。
「青子。小僧に言ってやれ」
―えっ…
なんだか悪い予感がする。
近づいてくる先生も沈んだ顔をしているし、もしかしたら駄目なのかもしれない。
「志貴…」
一度言葉を切り、ぼくの肩に手を置いてくる。
「合格よ。一緒に『時計塔』に行きましょう」
ぱっと顔を綻ばせながらそう笑った。
よかった。先生も喜んでくれている。
最初に会った時より楽しそうに笑っている。
…よかった。
これで先生の手伝いが出来る。
「よかったな。小僧」
橙子さんがニヤニヤしながらこっちを見ている。
絶対性格歪んでる。人の不幸を楽しむタイプだ…
「それで、志貴ってどんなタイプの魔術師なの?」
たしかにそれを知っていなければならない。
今後何をするかはそれによって決まるんだから。
「そう急くな。その前に実に面白い物を見つけた。それを話してやろう。
七夜。魔術師について話したな?魔術師とは魔術を行使する者。
そして、魔術とは人為的に神秘、奇跡を再現する行為のことだ」
それは昨日聞かされた。
「魔術行使には魔力を使う。そしてそれは有限だ。
マナは無限に近いが、取り入れるこちらに限界が有る以上それも有限の内に入る」
それも昨日話された。有限云々は聞かされてないが、内容は昨日となにも変わらない。
「しかしお前は変わっていてな。
何が原因か知らないが魔力切れが無い。正確には絶えず補給されている。
マナを無意識に絶えず取り入れているのか、内部で精製する速度が異常なのかわからんが、お前には限界が無い」
ぼくにはよくわからないが、横で聞いている先生があからさまに狼狽した。
「えっ。それって」
「そうだ。この小僧は世界と隔離されない限り魔力切れが無い。
まぁ残念なことに回路が少ないから最大出力は高が知れている。と言うより普通の魔術師以下だな。
しかし一工程の魔術なら永続的に行使し続けることすら可能だ」
どうやらぼくは普通の魔術師とはだいぶ違うみたいだ。
それだけわかれば十分。難しいことはこれから理解して行けば良い。
「それから、青子。お前の問いだが、この小僧は聖別も変わっている。
五大要素のどれにも属していない」
橙子さんはそこで一度何かを思案するように唇に指を当てる。
「まぁ敢えて言うならば『強化』だな。
おそらく違う何かからの派生だろうが、明確な属性はこれしか見つけられなかった」
「うそ。姉貴でも聖別できないの?」
先生は橙子さんがわからない事が余程意外なのか、揶揄することも忘れている。
「私だって一介の魔術師だ。そう過大評価されるのはあまり好ましくない」
それでも絶対の自信は持っていたのだがな。とぼくを見ている。
「何かからの派生ってことは『強化』は本筋じゃないのね?」
橙子さんはしばらく思案し、
「わからん。そればかりは一度試してみないと何とも言えん」
そう言いながら立ち上がった。
「少し待っていろ。今道具を持ってくる」
何かを考えながら歩いているのか、重い足取りでドアに向かって行き、そのまま下に降りて行った。
「それで志貴。
姉貴の話だと志貴が眠っている間に魔術回路を使えるようにしたみたいだけど、どう?」
どうと訊かれてもわからない。
でもさっきからの身体の火照りは間違いなくそれが原因だ。
「わかりません。でも身体が熱いから使えると思います」
それを聞いて満足したのか、先生は机から椅子を引っ張り出して腰掛けた。
「なら問題無いわね。姉貴が何とかしてくれるわ」
何だかんだ言っても、姉を何処かで認めているのか、そう言う顔はとても穏やかだった。
「さて、どれでもいい。この中のどれかに魔力を通してみろ」
帰ってきた橙子さんはランプやら、鉄の棒やら、何やらとごちゃごちゃと持ってきた。
そしていきなりこれだ。
「どうやって魔力を使うんですか?」
そう訊くと橙子さんは半眼で見てくる。
その目が、何言ってんだこいつ。と語っている。
当然の質問をしたはずなのに何故か自分が悪いことをした気になった。不思議だ。
「手本を見せてやる。一度だけだからよく見ておけ。それと、見る時はその布を外せ」
橙子さんはしぶしぶという感じでランプを手に取る。
実演してくれるのは嬉しいが、呪布を取れというのはいただけない…。
ん?呪布を取る?
「さっきから外してますよ?」
橙子さんもおかしなことを言う。
さっきから何かが頭に引っかかっていると思ったら、どうやらぼくは呪布を着けていないみたいだ。
「よく確認してみろ。と言うより気付け」
人を小馬鹿にした口調で窘められた。
何故か先生も笑っている。
「志貴。ちゃんと確認しなきゃ駄目よ」
先生も橙子さんと同じような事を言う。
いったい何を確認しろと言うのだろう。
顔を触ってみてもいつも通りだ。
「あれ?どうして呪布が捲いてあるんだ?」
そう。いつも通りぼくの目には呪布が捲いてある。
視界があるならあってはならない矛盾。
「やっと気がついたか」
橙子さんが煙草をくわえた口を皮肉気に歪ませながら笑っている。
しかし今はそれどころじゃない。
いったいどうしてこんな事になっているんだ?
「どうなってるんですか?」
そう言えば昨日橙子さんが改造してやる。と言っていた。
だから何かあったとしたらこの人が関わっているとしか思えない。
「なに。少しいじっただけだ。後で話してやるから今は外せ」
その理由も後で説明する。と橙子さんは付け加える。
どうやらちゃんとした理由があって呪布を外せと言っているみたいだ。
どんな理由にせよ、ここで駄々をこねたら先に進まない。
ぼくは覚悟を決めて結び目を解いた。
呪布が解かれて行く。その間も視界は変わらず、何とも不思議な気分になる。
目を覆う布が無くなった刹那、『線』が現れた。
途端、頭に軽い頭痛が走り、こめかみを抑えた。
視界が変わらないなんてとんでもない。『線』が有ると無いじゃ大違いだ。
頭痛を抑えながら橙子さんを見ると、満足気に笑っていた。
「よし。見ていろ。外させた理由も自ずと解る」
橙子さんがランプをぼくの目線まで持ち上げる。
自然、ランプが目に入り、『線』が見えてしまった。
「っ…」
気分が悪くなり、目を逸らす。
「目を逸らすな。それでは無意味だ」
橙子さんが叱咤する。
それを切っ掛けにランプを意識してみた。
頭痛は意識してしまった分痛みを増し、目を開けているのが辛い。
橙子さんは、それでいい。と笑った後、何か呟いた。
ランプに何か違うものの死が混ざり込んで行く。
おそらくはそれが魔力なのだろう。
魔力がランプを満たしたのか、激しかった『線』の流動が緩やかになった。
また橙子さんが何か呟き、魔力が消える、いや、ランプに染み込んで行く。
「どうだ?」
これが物に魔力を通し、強化するという事だ。そう言ってランプをぼくに投げてくる。
今ならどうして呪布を外させたのかわかる。
この眼は例外なく、モノの死を見ることが出来る。
それに加え、ぼくの浄眼は"本来見えないモノ"を見る為の物。
橙子さんがそれを知っているはずないが、前者の理由だけでも眼を開放するに足りる理由だ。
魔力を感覚的にではなく、視覚的に理解させたほうがはるかに定着する。
だからこそ橙子さんはこの眼で見ろと言ったのだ。
そして理解した。
「新しい物貰えますか?これは既に魔力を通せないものになってます」
理解した。魔力が何であるかも、その使い方も。
だから後はやるだけ。
「ほぉ。そこまで理解したか。青子の弟子にしておくにはもったいないな」
それを聞いて先生が食って掛かるが、橙子さんは先生を軽くいなし、ほれ。と鉄の棒を投げてくる。
それを右手で受け取り、眺める。
そんなに重くない鉄の質量が、何故か重い。
きっとこれがぼくの運命を決める重要な事の一端を担っているからだろう。
「簡単な補足だがお前は『強化』しか使えん。
魔力を通せば必然それしか効果を為さんから難しいことを考える必要は無いぞ」
なるほど…それは都合が良い。
さて、始めよう。
目を瞑り、息を整える。
精神を研ぎ澄まし、自己の奥深くまで潜っていく。
そして見つけた。
幾多にも幾多にも鎖で固められている何かを。
おそらくこれがぼくの魔術回路だ。
鎖に手をかけて渾身の力で引いた。重圧に耐えられなくなり手からは血が噴き出す。
―赫い雫が花畑に落ちた。
パキッ
血が溢れるのも気にせず、渾身の力で引き続けていたからか、鎖がついに耐えられなくなったのだ。
音を鳴らし鎖が千切れ、それに促される様に次々と鎖が崩れ落ちて行く。
終に中にあったモノを見ることが出来るほどに、強固な外装が剥がれ落ちた。
そうすることが自然であるかのように、ぼくはソレに手を伸ばす。
途端。身体中を何かが走るのを感じた。
間違いなくこれが魔術回路であり、魔力だ。
目を開ける。
体感していた時間はとてつもなく長かったが、実際は十秒も経っていなかった。
それなのに身体からは汗が吹き出ていて、一日中走り続けたように疲労している。
しかし身体に満ちている魔力が何とも言えず気分を昂揚させ、今なら何でも出来る気にさせてくれた。
そして、鉄を視界に入れた。
―ズキン
いくら魔力を手にしようとやはりこればかりは抑えられないのか、『線』が張り巡らされている。
むしろ『線』が明確になっているような気さえする。
しかし今は構わない。
意識を鉄と同調させ、一体化して行く。
先に橙子さんが呟いたものは呪文だろう。
しかしぼくは呪文なんて何も知らない。
でも、知らないからと言っていちいち訊く必要も無い。
何故なら橙子さんが呟いた言葉は己への投げかけだ。
自分が理解し、自分が同調さえ出来れば何も問題無い。
故にわからないなら、作れば良い。
「―開放、開始」
言葉通り自分の境界を開放し、鉄を自分の中に取り込む。
そして身体を魔力で満たす。
必然身体の一部となった鉄にも魔力が流れて行く。
調節など要らない。
己の身体を把握できないはずがないのだから。
「―収束、終了」
魔力が身体中に満ちたことを確認し、魔力を収束させる。
身体に魔力が染み込み一体となった。
ただ、それだけ。
「驚いた。まさか一度見ただけで魔力の扱いを理解するとは」
橙子さんが笑っている。
嬉しい訳ではなく、ただ飽きれているだけなんだろう。
小声で、こんなに簡単に行くとは…詰まらん。とか言っているし。
先生にいたっては敵を見るような目でぼくを見ている。
「なんでそんなに簡単に行くのよ」
先生も橙子さんと同じことを呟いている。
しかし志貴は知らない。
その言葉にどれだけの悔しさが混ざっているのかを。
青子の魔術師としての腕は最低ランクと言っても問題が無いぐらいに低い。
たしかに魔力の扱いには優れていると自負出来るだけの実力がある。
だが、そうなるまでにした努力は類を見ないほど凄まじい物だった。
だから例え己の愛弟子だとしても、そう簡単に追いつかれる兆しを見せられては素直に喜べない。
しかし青子は志貴が成長してくれることが己の事のように嬉しい。
故に憎悪することは出来ない。青子は志貴を憎む理由が無いから。
けど悔しがる。青子は志貴を恨む理由があるから。
まぁしょうがないだろう。
ぼくが強化した鉄を両手で転がしていた橙子さんがおもむろに口を開く。
「喜べ。見たところお前の『強化』は武器として十分に使える」
どうやら合格らしい。
橙子さんは詰まらなそうに説明しだした。
「お前の魔力行使はなんとも変わった方法だな。勝手が良いのか悪いのか判断できん」
橙子さん曰く、ぼくに許された魔術行使は『自分、つまり七夜志貴を強化する』ことのみらしい。
重ねて言うが、これは何かからの派生で、実際は違う魔術に特化した魔術回路を持っているのだそうだ。
しかしその魔術が特殊な為、橙子さんでも特性を判別することが出来なかった。
ぼくにとっては本来特化しているはずの魔術の代わりとして、『強化』があるという位置付けだ。
話を戻す。
しかしぼくは触れているモノを『自分と同じ存在』と認める事が出来る為、他のモノにも『強化』をかけられるらしい。
その結果、何かを強化しようとすると自動的に自分も強化する事になる。
幸いぼくは魔力を常に供給されているらしいから、
もっとも、どこから供給されているのかわからないから依存しすぎると痛い目を見てしまうが。
多少の無駄遣いなら問題無く、むしろ手間が省けて効率が良いのかもしれない。
ちなみに外部からの供給が無いのならぼくの魔力の保有量は驚くほど少ないらしい。
仮に供給が断たれたら、ほんの数回の魔力行使で限界が来て、倒れてしまうほどの貯蔵量だそうだ。
今後とも供給源には見放さないで欲しいものだ。
「わかりました」
だいたいだが、自分の魔術について理解できたと思う。
今日の朝、何も知らなかった自分がこれだけの知識を取り入れる事が出来ただけで良しとしなければならないと思う。
おっと。忘れていた。
大切な事を聞き逃すところだった。
「それで、この呪布に何したんですか?」
いくらなんでも得体の知れない物を身に着けていられるほど間抜けじゃない。
「視界を擬似的に造っただけだ。
呪が私の知らないものだったんでな。思いの外時間はかかったが、なかなか良いものに仕上がった」
得意げに語ってくる。放っておけば何時間でも自慢話を聞けそうだ。
さすがにそれは勘弁願いたい。
しかし、説明自体は実に簡単で安心できるものだった。
ちなみに、この呪布は『霊的なものを完全に遮断する』効果があるそうだ。
これもあって手本の時、外すように言ったそうだ。
そして、擬似的に作った視界にもそれが反映し、この呪布をつけている時の視界には"本来見えないモノ"は写らないらしい。
呪布を手早く捲きなおす。
信用できるものならこれほど良い物は無い。
これなら眼を封印しながらでも戦うことが可能だ。
「ありがとうございます。とても助かります」
思わぬ幸運に知らず声がはずんでしまった。
「礼はいらん」
相変わらずの無愛想だが、感謝されることは嬉しいのか笑っている。
いつもの皮肉気な笑い方だが、今回は目も笑っている。
だから本当に笑ってくれているのだろう。
だが、
「代は十年後貰う」
って金とるんか!?
心の中でつっこむ。
それだけ言うと、橙子さんが唐突に立ち上がった。
そしてぼくと先生がいないかのように、そのまま自分の机に向かって行く。
驚いた。
今のが別れの挨拶だったらしい。
少し遅れてしまったが、ぼくも立ち上がる。
後ろを振り向くと、先生が困ったような嬉しいような顔をして立っていた。
「それじゃ、いこっか」
先生は優しく微笑み、ドアに向け歩き出す。
「小僧」
ぼくは立ち止まらない。
きっと橙子さんもそれを望んでいる。
「何を求める」
「ただ在るべき姿を」
「何処に求める?」
「ただ在るべき日常に」
「何処を目指す?」
「ただ在るべき未来の果てを」
「それが叶わぬ夢だとしても?」
「その為の力です」
「そうか」
「お前の力は強大だ。強大な力はそれだけ他に影響を与える。何故力を使い、何を成すのかを忘れるな」
「…さよなら」
そうして小さな魔術師はここ伽藍の堂を去って行った。
殺すことに誰よりも長けていて、平凡なことに誰よりも憧れている。
そんな、魔術師の在り方として間違いだらけの小さな少年。
おそらく彼が平凡を求めた所で、それは叶わぬだろう。
あれだけ特異な存在なのだ。近いうちに、日常が死に溢れる事になる。
しかし彼は求めるのだ。平凡を愛し、日常を謳歌するため。
「青子。小僧はお前の背中を追っている。そのお前が道に迷えば、必然小僧も道に迷う」
―だから間違えるな。
窓の外を見遣る。
まだ昼になったばかりで日差しは強い。
魔術師の門出としては不相応な天気だ。
だが、あの小僧と馬鹿には似合いの青空が広がっている。
「せめて、お前の運命が途切れないよう願おう」
ビルの外に出る。
太陽は空高く、外でこうして立っているだけで元気になってしまうほど天気が良い。
橙子さんに誓った。
日常を守ると。
先生は日常の中で生きられないと言ったが、それは違う。
日常は変わるもの。同じ日常なんて二度とない。
形の無いものを守って行く。
それはとても大変だろう。
でも守る価値が十二分にあると思う。
先生がいて、ぼくがいる。これで何も起こらないはずがない。
楽しい日常。それこそぼくの求めるもの。
だからぼくはこの道を選んだ事を後悔なんてしない。
いつか後ろを振り返った時。
自分の人生が素晴らしいものだったと誇れるように、今を精一杯生きよう。