渾身の力を込め、ナイフを振う。

「何をする。人間」

しかしその奇襲をまるで何でも無いかのように避けられた。
先のロアでさえ避けきれなかった斬撃。
それをロアより近い位置から受け、意図も容易く躱すこの女は何者なのだろうか。

「フッ!」

驚愕に固まりそうな身体を無理矢理動かし、二撃目を放つ。
今度は袈裟斬りにナイフを走らせる。
が、これも簡単に避けられてしまう。
身体を瞬間的に一つ分ずらす。
という出鱈目な回避行動ではなく、ナイフの軌道を読み、無駄なくぎりぎりで躱す芸術のような回避だった。
それは鍛錬を積めば誰にでも出来そうな動き。
つまりこの女はロア以上の身体能力と、自分以上の身体捌きを兼ね備えているのだ。

――勝てない。

理性が瞬時に悟る。
しかし本能が耳元でドクドクと煩い。
そんなに喚かなくたって聞こえてるのに。

――■■■■

わかってる。いちいちうるさいんだよ。

――■せ

うるさい。うるさい。うるさい。

――■■

う る さ い





左手を呪布にかけ、力任せに下げた。
ズキンと頭が痛み、瞬間、『線』だけじゃなく『点』までが見える。
どうやら相当興奮しているらしい。
散々衝動に抵抗したからだろうか、心臓は飛び出してきそうなほどドクドク鳴いている。
身体中から汗が噴出し、喉は乾きすぎて裂傷を負っていた。
自身の状態は最悪。
だが、これから狩る相手は最高。
この悪条件で興奮しない方がおかしい。

「む…」

今までただ立っているだけだった女が、ここに来て初めて構えらしき物を取った。
右手を少し引いただけの棒立ち。
しかし気を引き締めたのか、隙らしいものが一切消え去った。
だが、関係無い。
どんなに強固な守りでも、自分には紙と大した違いが無いのだから。
躊躇いなど要らず、狂喜に身を任せたまま女に突っ込んだ。
一足で最速に達し、相手が息を紡ぐ間に絶対の距離に入る。
如何に強かろうと呼吸の合間を縫われては本来の力を出せない。
言うは易く行うは難し。それを具現したかのような妙技。
それを成功させた今、志貴にとって絶対の勝機であり、相手にとって絶命の危機である。

しかし相手はやはり規格外なのか、先に仕掛けられるはずの志貴より速く、右腕を薙いできた。

――最高だ

この状態で受けようものなら損傷は必至、ならば先に右腕を殺せば良い。
ぐつぐつと煮え滾る頭で瞬時に判断し、狙いを右腕に変更した。

だが、そこで止まってしまった。

「なっ…」

『線』が無い。
この『線』は万物全てにあるモノ。それが無いこの女は――

一瞬の思考。しかしコンマ単位で動く両者にとってそれは大きな隙以外の何物でもなかった。

志貴の眼前まで迫る鈍器と化した右腕。
力任せに斬りつけるが、強化したナイフが金属に当たったかのように甲高い音を立て、弾かれる。
ナイフを弾いた怪腕は威力を損なう事無く、志貴の身体にめり込んだ。

志貴はあまりの衝撃に声も出せずに吹き飛ぶ。
面白いほど吹き飛び、二度、三度跳ね、ピクリとも動かなくなった。
だと言うのに警戒をとかず、気を張り詰めたまま女は近づいて行く。
女が優雅な物腰でしゃがみ、志貴の肩に手を置いた瞬間、志貴は飛び起きて閃走・六兎を仕掛けた。
ナイフを振い、重心を傾かせた所を一気に蹴り上げる。

「やめろ」

しかし蹴り上げた右足を掴まれ、逆さ釣りにされてしまう。

そこで気付く。
頭が真っ白になって強化が切れていたのを忘れていた。
退魔衝動に身を任せ、暴走した結果がこれだというのだから笑うに笑えない。
殺される覚悟を決め、相打ちを狙おうとしたその時、

「まだやる気? 無いなら抵抗はやめなさい」

何故か開放された。
ボテ、と地面に頭から落とされ、目がちかちかする。
不意打ちと言って良いタイミングで放され、見事に頭から落ちた。
そのおかげかどうかわからないが、胸の高鳴りが嘘のように引き、目の前の女を殺せと煩かったナニカもどこぞへと消え去った。
だから武器を収め、敵意は無いと伝える事にした。

「ならいいわ。私に貴方と争う気は無いのだから、そう警戒しないで」

そうして初めてその女性を直視した。
目に付くのは砂金を流したように光り輝く金色の髪。
肩に少し掛かる程度の長さの髪は月の光を受け、煌き、瞳の朱と相俟って神秘を思わせる色彩を奏でている。
墨を引いたような柳眉、すらっとした鼻筋、薄い、でも確かな肉厚のある唇、それら全てが完璧な物を揃えたように美しい。
そして、中世のようにドレスを纏っているその姿も、何故か彼女には似合いすぎている。
悠然と佇むその姿は王族のそれ。
己との格の違いをさまざまと見せ付けられる。

言葉も出ない。
子供ながらにわかった。
世界中探したって、これほど完璧な美しさを持った者などいない。

その時、何かが切れる音がした。
そしてその女性の頬に薄い切り傷が浮き出る。

「ただの刃で私を越える――か」

その女性は手を頬に当て、己の血を口に運びながら目を細める。
朱い瞳に見つめられ、耐え切れず視線を逸らした。

「その眼はなに?」

最初、目を逸らした事を言われているのだと思った。
しかし見つめてくる目には警戒の色があからさまにでていて、自分の『眼』について訊かれているのだとわかった。
だが話すわけにはいかない。
これは他人に教えてはいけない事。それだけは必ず守れといつも言われている。

「言えないの?」

無言を貫く僕に痺れを切らしたのか目をさらに細め見つめてくる。
気のせいではない殺気と怒気を中てられ身体が動かない。
それらは質量を伴い、首と云わず全身を締め付けてくる。
呪縛から開放されたいと願い、口を開いた。

その時、いつになく真剣な声で先生が怒鳴った。

「志貴! 早く逃げなさい。それを相手にしないで」

その声は切羽詰った物で、それによって思い出した。
この目の前にいる美人は自分の奇襲を悉く躱したのだ。

逃げようとすると、肩を掴まれた。
後ろから抱き上げられ、抑えつけられる。
ピンチだと知りながらも、背中に当たる膨らみに精神を乱され、魔力行使が上手く行かない。
そんな呑気な状況じゃないのは当人である自分が一番良くわかるが、それすらも凌駕する破壊力がそれにはあった。

「ブルー、か。この子供がどうなろうと貴方には関わりの無い事でしょう?」

それを意図しているのか、口の端を軽く吊り上げ、妖艶に笑いながら腕の力を強めた。
必然、背中に感じる感触が一層艶めかしくなり、今だけは研ぎ澄まされた自分の五感が怨めしくなった。

「関係あるわよ。その子は私の弟子なの。私の怒りを買う前にさっさと志貴を放しなさい!」

青子から魔力溢れだし、その場を支配した。
これ以上テンションが上がると自分ごと消そうとするかもしれない怒り具合に、慌てる事しかできないこの状況が恨めしい。

二重の意味でこの状況はまずい。
かといって未だに煩悩に邪魔され、精神統一ができず、抜け出す事が出来ない。

「なに? ブルーが弟子を取るなんて正気?
 気に入ったわ。貴方に私の死徒と成ることを赦してあげる」

女はわざとらしく驚き、笑いながら志貴の頭を撫でる。
不本意ながら、志貴はこの女性に気に入られた事を喜んでしまった。
しかしだからと言って、吸血鬼にされるのは嬉しくない。
そして、どうやらこの女性は吸血鬼だったらしい。
改めて自分が如何に危ない状態なのかを感じ、必死に抗う。
煩悩を封じ込めない為に魔術行使を諦め、渾身の力で身を捩る。

「そんなに喜ばないでもいいのよ。後でゆっくり愛でてあげるから」

――犬か? 犬なのか?

身を捩る行為も、この女性の筋力の前では身体を摺り寄せているに過ぎない。
外から見れば、嬉しくて身を摺り寄せているように見えてもおかしくないのだろう。
心なしか先生の殺気が女だけではなく、自分にも向いたようだ。

「アルクェイド・ブリュンスタッド!
 勝手に話を進めるな。貴方の目的である蛇はもういないわ。志貴を置いてさっさと立ち去りなさい」

女、アルクェイドの発言に切れたのか、先生は髪が浮くほど魔力を放出している。
そして視認できるほど高純度の魔力が右手に集まりだし、今にもぶっ放しそうなテンションで吼える。
下手を打つと自分ごと消しかねない先生に、志貴の焦りが頂点に達した。

「貴方が私に勝てるとでも? 私も無事では済まないけれど、貴方は確実に死ぬ事になるわ」

にも関わらず先生を煽り立てるアルクェイド。
自分を小脇に抱えたまま、臨戦状態になる。

「やってみなくちゃわからないでしょ」

右手を突き出し、これまた殺る気満々の先生。

「あのー…僕死徒に成りたくないんですけど」

このままでは自分も殺されてしまう。
志貴は無け無しの勇気を振り絞って、口を挟んだ。
下手に刺激すると地上最強決定戦が始まりそうなこの空気の中で、発言するのにどれほどの勇気がいるのかは推して測るべし。

「そうよね、志貴。さぁ放しなさい。変態吸血鬼」

援護射撃は功を成し、今にも破裂しそうだった緊迫が和らいだ。
そして勝機と見た先生がここぞとばかりに追撃をかける。

「へぇ…私の誘いを断るか――うむ、決めた。志貴、貴方を私の騎士にする」

先生の発言など無かったかのように、志貴とだけ話すアルクェイド。
彼女ほど強いからこそできる荒技だ。
青子を無視するなんて恐ろしい事を他に誰ができようか。

「こら!志貴は私の弟子で、私は志貴の保護者よ。
 お姫様が介入する余地なんてどこにもないの。さっさと消えなさい。
 それに、なにちゃっかりと志貴の名前を呼んでるのよ!!」

緊張が解れ、争いになることはもう無さそうだが、それでも言葉の応酬は終わらないみたいだ。

「志貴、貴方は死徒になる事が嫌なだけで、私を嫌っているわけではないんでしょう?」

何故か自分に話が回ってきた。
突然に声をかけられた志貴は、慌てながらもアルクェイドを見やる。

「えっ、うん。吸血鬼にされたり、殺されたりしないんだったら別に」

それに何の理由もなく殺そうとしてしまった事を謝りたい。
結果として志貴が捕まり、吸血鬼にされかけたが、それは志貴とアルクェイドの力に顕著な差があったからだ。
結果はどうあれ、自分がアルクェイドを殺そうとした事には変わりない。
何より、アルクェイドは志貴がロアに殺されそうだった所を助けてくれた。
志貴はそれを恩と考えないような者ではない。

「そうでしょ? ほら、これで貴方と何も変わらないわ」

――そこで先生を煽らないでくれたら良かったのになぁ…

志貴はどうやっても馬が合いそうも無い二人を見て、溜息をついた。
先生はあまりの怒りに声も出ないのか、下を向き、身体を細かく痙攣させている。
きっとやり場の無い怒りをどう処理していいのかわからなくなっているのだろう。
しかし、上げた顔には不敵な笑みが浮かんでいた。

「だけど志貴は死徒になる事を拒否したわよ。それじゃあ貴方の騎士にはなれないわ」

己の会心の反撃に満足したのか、とても良い顔で先生が笑った。
しかしアルクェイドは少しも動揺する事無く、溜め息混じりに鼻で笑った。

「そんなもの問題でもなんでもない。人として私に仕えればいいだけのことだ。
 この戦闘力なら、あと数年で死徒と対等になれるだろう」

「なっ!」

そのあまりにも奇抜な意見に青子が固まる。
関係無いが志貴も固まる。

吸血鬼は徹底した主従関係を持つ。
そうしなければ子が強大になった時、自分を守るものがなくなるからだ。
それをこの吸血鬼は何でも無いかのように無視した。
あの実力ならば、配下の者に殺されるなんて心配なぞ無用なのかもしれないが、それでもこの常識を逸脱した考えには驚かされる。

「納得した? それに…むっ」

アルクェイドがさらに何か言おうとし、何かに気付いたように視線を月に向けた。
そこには真白の月が輝いていた。
だがその月の光に隠れるように一つの小さな点がある。

「あればぁ!?」

あれは?と口に出そうとした時、志貴を抱えたアルクェイドが跳んだ。
助走も無しに家々の屋根を越えるほどの高さまで跳躍する。
それは跳ぶと言うよりも飛んでいると言う方が当て嵌まる跳躍。
それに若干遅れて青子が続く。
腕にはアリエッタを抱え、余裕の無い表情をしている。

「首を固めろ。大きい」

その声と共に爆発が起こった。
今まで僕たちが言い争っていた場所を中心にして直径二十メートルはあろう粉塵が上がっている。

嫌でもわかった。
先の点だと思ったものはロンギヌスの槍で、それの威力がこれなのだと。

「ナルバレックは!?」

青子が切迫した声で叫ぶ。
目線は何故か槍が飛んできた方だけではなく、四方に忙しなく動いている。

「今ので終わりじゃないんですか?」

当然の疑問だ。
敵の最大出力を持った武器をやり過ごし、四人で警戒しているこの状況。
例え相手が戦闘狂でも、青子が、ましてやアルクェイドが警戒しているこの状態で攻めてくるとは思えない。

「志貴。相手はあれを乱発してくるのよ! 説明は後! これを切り抜けたら死ぬほど教えてあげる」

「加えて言うなら、あの女は身体能力に優れてる。故に来る方向が一方だけとは限らない」

射程、超長距離。
威力、直径二十メートルの範囲を粉砕。
そして弾数、無限。

ロンギヌスの槍。
先生が戦慄するその脅威を、今になって実感した。

「放してください。自分で走ります」

それならばアルクェイドと離れ、少しでも標的を多くしたほうが得策だろう。
あの範囲では無意味かもしれないが、やれる事をやっておいて後悔はしないはずだ。
そして何より、この人に抱えられていると安心してしまい気が緩む。
まず無いが、自分が油断したせいで全滅なんて事になったら嫌だ。

だから何も言わずに放してくれた事はありがたかった。
ひんやりとした柔らかさから引き離されたのは少し残念だが、状況が状況だからやむを得ないだろう。

「右後方! 来たわ!!」

弾数が無制限だからといって同時に複数放つのは無理なのか、先より速く、低い弾道の槍が一つ飛んできた。
志貴とアルクェイドが左、青子がアリエッタを抱えて右に動く。
鉛色に鈍く輝く槍は狙い澄ましたかのように、その間を寸分違わず貫いた。
レンガ造りの家を貫通し、余りあるその威力は周りの家をも崩壊させる。
先より破壊したものが多かったからか、尋常でない量の埃が舞い上がり、視界が格段に悪くなった。

「先生!」

狙ったのかどうかは定かでないが、分断されてしまった。
志貴が左に動いた勢いをそのままに走り出すと、アルクェイドがそれに続く。
このまま二人で先に逃げると判断し、それを伝えようと後ろを向くと空に鈍色の点があった。

「右後方から!! もう一度!」

その矛先は志貴たちではなく、青子とアリエッタに向いていた。
それを伝えようにも、埃が舞い上がっていてどこに二人がいるのかわからない。

「くそっ!」

埃の中に飛び込もうとした志貴を誰かが後ろから抱き上げた。

「志貴! もう間に合わない!」

そう叫びながらアルクェイドは後ろに飛び、槍の圏内から離脱する。
轟音と共に木の破片が飛び散り、粉塵を更に巻き上げる。
どかっと何かを蹴る音が響き、少し遅れて青子が何かを抱えながらよろけるように出てきた。

「まずいわ。アリエッタがやられた」

青子は咳き込みながらも危なげなく立ち上がり、抱えているモノを地面におろした。
抱えていた不恰好なモノはアリエッタだった。
腰に当たったのか、腰から下が引き千切られたように無い。

「私では治療なんて無理。だから急いで抜けましょう」

気休めにしかならない止血を済ませると、青子が駆け出した。
傷口からは血が止めど無く零れ落ち、石畳を赤黒く汚している。
その等間隔に付けられた道標を踏まないように後を追い、次弾に備え意識を後方に集中させる。
しかし、あれほど強烈に身体を蝕んでいた殺気が何故か霧散していて、追撃してくる気配がない。
志貴が横を見るとアルクェイドも同じように困惑しているのか、何度も後ろを見ている。
そして走る事数分、出口にまで何も邪魔が無かった。

しかし今ここに、男が一人立ち塞がっている。

「どきなさい。雑魚を構ってあげる余裕は無いの」

青子がいつか見せた殺気より更に恐ろしく冷たいそれを込めて男を睨んでいる。
なのに、その男はまるで微動だにせず、沈黙を守っている。

「どきなさいと言ってるでしょう!」

青子が怒気と共に魔弾を放とうとする。

「…」

にも関わらずその男は無言を通し、そこにただ直立している。
痺れを切らした青子は、魔弾を放つと男の生死も確認せずに駆け出した。

「先生!」

志貴の叫びも届かず、青子は躊躇せずに煙の中に入っていく。
それと共に青子が小さな声をあげた。
そして何かが肉を貫く音。

「このぉぉぉ!」

その音に逆上した志貴が、青子を追い、煙の中に入る。
身体を顔が地面に付くぐらいまで倒し、自分の出せる最高の速度で駆け抜けた。
煙を抜けると志貴に殺気が集まり、それが無理矢理押し込められた。
その殺気の源は先生で、志貴と気づいてから慌てて魔術を解除したようだ。

「志貴。アリエッタをとられたわ」

青子が志貴の方を見ず、唇を噛み締めながら唸る。
自分の失態が招いた状況を悔やんでいるのか、唇は噛み切られ、血が流れている。
そしてその言動が、青子の無事に安堵していた志貴に活を入れた。

「待ちなさい」

再び煙に入ろうとした志貴を青子が制止する。

「何でですか!? アリエッタさんを取り戻さないと!」

警戒を解かずに問い掛ける。
しかし志貴自身、先生が制止する理由がわかっていた。
青子から何かを奪い取るような実力者が待ち構えている所に闇雲に突っ込むのは自殺と同意である。

しかしアリエッタの傷は一秒毎に悪化していく。
故に危険でもやらなくてはならない。
それに今は止んでいるが、いつまたナルバレックの槍が飛んでくるかわからないのだ。
そんな状況で立ち止まっている余裕などあるはずがない。

「風よ」

誰かがそう呟くと立ち込めていた埃が風に流された。
そして埃の中心にアリエッタの頭を無造作に掴んだ男が人形のように立っていた。
アリエッタの胸には刺し傷が増えていて、そこから鮮血が流れ出ている。
しかしまだ生きていた。
絶望的だが、"生きて"さえいればなんとでも出来る。
一瞬も立ち止まらず、男に接近した。
そして躊躇うことなく男の胸を一閃。鮮血が舞う。
避けようともせずに受けたその傷は深く、とても人が生きていられるものではない。
しかし男は微動だにせず、ただ沈黙を守っている。

突然、何を考えたのかアリエッタを空中に投げ飛ばした。
志貴が思わず目で追ってしまう。

――しまった。

再度目線を戻した時、そこに男の姿は無くなっていた。
左右後方、全てに男の気配が無く、殺気も感じない。
そのまま落ちてきたアリエッタを受け止め、もう一度確認すると男は屋根の上でこっちを見ていた。

「行かないのですか?」

ここにきて男が始めて口を開いた。

「足止めに来たんじゃないのか?」

無意味とわかりながら問い返してしまう。
しかしこの男はアリエッタを奪い、時間を稼いだ。
なのにアリエッタを返し、行けと言う。
そこに裏が無いと思えるほど志貴は気楽な頭をしていない。

「そうです」

横に来た青子にアリエッタを渡し、志貴が再度臨戦体制を取る。
理由がどうあれ、返してくれると言うのなら喜んで返されよう。
命が関わっている今、体裁を取り繕う余裕など無い。
そして、先生が圏外に逃げるまで何としても足止めする。

「志貴。全力で足止めしなさい。私は先に離れるわ。それで…」

「私は志貴に付き合おう。行きなさいブルー。対価は勝手に貰っておく」

先生の許可も貰った。
そして己の信念の為の戦いだ。決して負けられない。

「後から来るナルバレックは私に任せろ。貴方はその男にだけ集中しなさい」

青子が立ち去り、このエリアにいるのは四人。
丁度二対二の図式になる。
アルクェイドが誰かに負けるなんて事はないだろうから、自分がこの男を止められればこちらの勝ち。

「何故留まり、戦うのです?」

志貴がどうしようにも戦う事を止めないとわかったからか、男が何か不思議な物を取り出しながら訊いてきた。
左右の手に三個ずつ用意したそれはナイフの柄を思わせる。
しかし肝心の刀身が無く、なんの為の道具かわからない。

「お前たちを足止めすれば彼女を助けられるからだ」

この男とナルバレックを足止めさえすれば後は先生がどうにでもしてくれるだろう。
そう思った矢先、男が僅かに顔を歪め、笑った。

「一つ、教えておきましょう。いえ、応えておきましょう。
 何故あの女を返したか。それは手遅れだからです。
 元より君を引き摺り出す為の餌。
 用が済めば死んでもらう。というのがナルバレックの考えであり、私はそれに従いました」

つまりこの男は死ぬまでの時間を稼ぐためだけにアリエッタを奪ったというわけだ。
それを聞いて、志貴の中で何かが切れた。

「志貴。退くぞ」

襲いかかろうとした志貴を片手に抱き、アルクェイドが走り出す。
怒りに身を任せ、もがいてみるが、がっしりと食い込んだ腕はピクリとも動かない。
薄笑いを浮かべて見送る男に動く気配などなく、逃げるのは容易だった。
そして十数秒後、あっという間に圏外に出たアルクェイドはここでやっと志貴を放した。

放された瞬間、戻ろうとしたが、肩を掴まれ動けない。

「なんで邪魔をする!?」

八つ当りだが、止め切れず憎悪を含んだ目でアルクェイドを睨んでしまう。

「自分の騎士を守っただけだ。あれも言ったでしょう? 教会の目的は貴方だったと。
 それにあの男の言葉が本当なら、今更何をやってもあの女は死ぬ。
 どうしようも無いのなら、無駄に戦うことも無い」

志貴の肩から手がどかされた。
しかしもう行くわけには行かない。
志貴は痛切な顔で頷き、刀を鞘に納めた。

「それでいい。今は逃げなさい。その後のことは冷静な判断が下せるようになった後に考えなさい」

それだけ言うとアルクェイドは歩き出した。
きっとこのまま帰るんだろう。

「対価を貰っていくんじゃないんですか?」

そう訊ねると振り向き、僕の目を見ながら微笑んだ。
その優しい表情がキレイで、息を呑んでしまう。

「まだ青すぎる。あと十年はブルーに揉まれなさい。
 そうしたら、約束通り・・・・私が貴方を貰ってあげるから」

それは再会の約束。
友情なのか愛情なのかはわからない。でも確かな親睦の証。

「はい。また会いましょう」

僕もそう誓った。

「それは契約だな? 今度会った時、私の騎士になるという」

しかと心得た。と満足そうに頷くアルクェイド。
それを否定しようとした時、彼女の身体が最初から無かったかのように掻き消えた。
一陣の風が吹き、彼女のいた場所を攫って行く。
そのまま吹き上がり、風は空高く昇って行った。

「月に帰る。か」

僕には彼女が月に帰ったように感じられた。
あれだけ神秘的な人だったんだ。月に住んでいてもおかしくない。

空に輝く月を見つめ、自分の立っている星を見つめる。
それから、僕はゆっくりと帰路についた。










「お疲れ様です」

男は目も合わせず口にした。
それでは労う意味が無いというのに、かけた方もかけられた方も気にした様子は無い。

「殲滅するつもりだった」

その声には微塵も悔いが無い。
浮かべる笑みも勝者の物。逃げられた事をまったく気にしていないように見える。

「それでは何故止めたのです?」

男はそう問う。
もっともな疑問だろう。
三位が負傷し、それを庇うが故にミス・ブルーは逃げに徹した。
ロンギヌスは超長距離狙撃を可能とする"追撃用兵器"だ。
その真価は逃走者を狙ってこそ発揮される。
だというのに、先のナルバレックは相手が逃げ始めると同時に投擲する事を止めた。

「なに。拾い物をしてな」

そう言い、指が歪に曲がった腕を放り投げる。
笑みは深まり、その唇も歪に釣り上がる。

「これはロアの腕ですね?」

何故このようなモノに価値を見出したのか。
それを訊ねたのだが、応えが返ってくる前にそれは氷解した。

「まだ、生きている」

男が呟く。
思わず洩れた言葉。この男にしては珍しい出来事。
その腕にはそれだけの価値があるのだ。

「そうだ。ロアの支配が無くなってさえ生きようとする醜さ。
 しかし神の恩恵は万物全てに分け隔てなく与えられるべきだろう?
 ならば神の仔である我らは"代行者"としてそれを助けてやるべきではないかな?」

慈悲を込め、そのゴミを見下す。
代行者。神の代行として悪魔を討ち滅ぼすモノ。
彼らが代行者であるならば、滅ぼす対象となるはずのそれを前にし、これほど醜い笑みを浮かべないだろう。
だのに、女は自らを代行者と嘲笑った。
その真意を理解してかそうでないのか、

「そうですね」

男は腕を拾い上げ、自らの外套で包んだ。
そしてそれをナルバレックに差し出すと少しのずれも無い歩調で歩き出した。

「まったく。あれを理解できないくせに、これは理解するんだな。 普通逆だろう」

男の背中を眺め、愉快そうに笑う。
そして彼が残した外套を見た。

「でもまぁ、それがお前だ。実に無意味で、だからこそ無駄が無い」










「志貴。今回は私たちの負けね」

アリエッタの処置が終わり、青子と志貴は先の一件の反省をしている。
結局アリエッタは死んでしまった。
正確には間に合わなかった。
あと数秒あれば躯を取り替え、生き長らえさせる事も可能だったのだが、その数秒をあの男に盗られた。
悔しがる志貴とは違い、青子は淡々と死を受け入れ、特に荒れる事も無く話を進める。
それが気に食わなくて、志貴はどうしてか訊いた。

「魔術師は死に憑かれるモノよ。貴方も魔術を扱うならそのぐらいの覚悟はしなさい」

その後、さすがに言いすぎたと思ったのか、

「死を悲しむのは悪い事では無いわ。実際私も悲しい。
 でもね、それを他人に見せる事は悪い事、醜い事よ。
 それを自覚し、強くなりなさい」

と青子なりの魔術師としての心構えを教えてくれた。

そしてその後、話の焦点は志貴が衝動に負け、アルクェイドに仕掛けた所に絞られている。
自分たちはロアの討伐に向かい、それについて話しているはずなのに論点がまるで違う。
だのにそれが重点に置かれているというのだから反省会と言うより、七夜志貴の粗探し会と言う方が的を得ているだろう。

「すいません。あそこまで強い衝動を受けたのは久々で」

でも、反省会とは今後に向けて行うものだから、どんな形をとっていようが関係無い。
要は本人が自分の欠点を見つけ、改善できればそれで良いのだ。
そう考えると、この粗探しは無駄の無い素晴らしいものだと言えよう。

「自分と相手の戦力差を直感で見て取れないようでは早死にするわよ。
 それに衝動に駆られ、魔術行使を忘れるようでは魔術師として、いえ、魔術師とは言えない」

しかし、いくら効率的とはいえ遠慮も無くボディブローを叩き込まれて喜ぶ者などいないだろう。
さり気なく魔術師失格とも言われてしまった志貴は打ちひしがれる他なかった。

「すみません。以後気をつけます」

ただ、平謝りしか出来ない自分が悔しい。
それらは甘えから来ている失敗なのかもしれないからだ。
もし自分がピンチでも先生なら何とかしてくれる。そう無意識に思ってしまっているのかもしれない。
それが悔しい。
自立していると考えながらも、保護者がいると甘えてしまう。
それが七夜志貴の最大の欠点。

「それはそうと、いつそんな強い魔とあったのよ?」

どうやら反省点は一つのようだ。
自分の欠点を心に刻み、思考を切り替える。

「何の事ですか?」

それにしてもいきなり話が飛んだような気がする。

「だから、強い衝動を受けたのは久々って言ったでしょ?志貴の衝動って退魔衝動の事だろうから」

――え?

「僕がそう言ったんですよね?」

そう問い直すと、先生の眉間に皺が寄っていく。

「そうよ?ボケた?」

頭はだいじょぶでちゅか〜?と先生が頭をポンポン叩いているが、志貴の頭は別の事で手一杯だった。
自分の記憶が欠落してから戦闘を行ったのはこれが初めてである。
つまりそれを感じたのは欠落より以前の事だ。
それなのに覚えてしまっているほどの魔と遭遇して、それからどうなったのか。

思い出せるのは…昏い月。

「志貴。どうしたの?」

先生が先とは打って変わった真面目な表情で尋ねてくる。
過去の記憶に拘った事の無い自分が、これほど悩むのだ。
何かがあったと見られてもしょうがないのだろう。

「昔の事を思い出せそうな気がして。それで少し頑張っちゃいました」

過去に執着してしまった自分が恥ずかしくて、少しおどけてそう言う。

「そんなに強くなくて良いのよ。そんなんじゃ私がいる意味が無いじゃない」

志貴の頭を優しく撫でながら先生が笑った。
そこで、先の自分の言葉は言葉が強がりだったのだと気付いた。

「自分自身を恐れてはいけないわ」

先生と初めてあった時、自分が何であったかを断片的に思いだし、それで志貴は記憶の有無をあまり気にしていなかった。
しかし最近、志貴は自分が何をしていたのかをまったく知らない事に気付いてしまった。
そう…僕は過去に執着していて、それと同時に恐れている。
いつか自分の過去を思い出した時、今の自分が崩れてしまうんじゃないかと。

「志貴。私が貴方を導くわ。だから後悔なんかするはずないじゃない」

そう言って笑う。
先の慈しむような穏やかなものではなく、先生らしい晴れやかで誇らしげな笑顔。
それに何度助けられたのか、きっと数えるのも罵迦らしくなってしまうほどだろう。

「僕の選んだ道は間違いじゃないですよね」

目に写る人を助けたい。
それが自分の願い。そして誓い。
その為に力を求め、今までがむしゃらにやってきた。

それは過去を思い出す暇を無くす為なんかじゃない。
自分が本当に望む、自分の心からの願いのはずだ。

「貴方は自分の目指したモノをどう思うの?」

青子は志貴の問いに答えず、どこか試すように薄く笑う。

「よくわかりません。でも、正しいと思います」

志貴の応えに満足したのか、青子は大きく頷いた。
そして志貴の前にしゃがみ、真っ直ぐ目を見詰めながら言葉を紡ぎ出した。

「その葛藤は間違いではないわ。今回みたいな事があったら尚更悩んでしまうでしょうね。
 それだけ貴方の掲げた目標は明確なモノじゃない。
 もしかしたらもう通り越しているかもしれないし、まだまだ見えないのかもしれない。
 "人を助ける"と一言で言っても色々あるわよね? だからゴールなんて無いのかもしれない。
 それでも貴方は目指すと言って、これまで頑張ってきた。
 それが良い事なのか、それとも間違った事なのか、私にはわからないわ。
 でも貴方がそれを正しいと思うなら、それは"正しい"の。
 貴方以外の全ての人がそれを否定してもね。
 だから貴方は自分が"正しい"と思う道を進みなさい。
 そして、もしそれが間違いで、災いとなってしまったら――その時は私が貴方を殺してあげる」

子を思う母のように優しく、殺してあげると唄う。
志貴の責任を自分が背負う。先生はそう言ったのだ。
それにどれだけの覚悟がいるのか青子以外にはわからないだろう。
自分は何て無力なのか。何一つ自分では出来ない虚弱な存在。
その分不相応な願いの責任を人に押し付け、身勝手にそれを目指す無知な子供。

「先生。僕、強くなれますか?」

自分の責任ぐらい自分で背負えるぐらいに。
願わくば人の命を背負える程に。

「まったく。貴方は何でも彼でも急ぎすぎよ。
 私は貴方の保護者なの。強くなれるまで私の庇護の元でピヨピヨ鳴いてなさい」

アルクェイドが同じ事を言っていたのを思い出す。
やはり自分はまだ未熟なのだろうか。
そして急ぎすぎているんだろうか。
ならば、二人が言う通りに、今は甘えてしまおう。
そして自分が強くなれた時、受けた恩を倍返しにしてやろう。

「先生。よろしくお願いします」

いつも一人で何とかしようとしていた僕が、始めて頼ることを明確に口にした。
それに驚いたのか先生はポカンと口を開け、驚いている。
しかし見る見る内に喜色に満ち溢れ、大きく頷いた。

「ええ、任せなさい。ちゃんと一人前にしてあげるから。
 でもね、志貴。
 聖人になれなんて言わないわ。
 貴方は貴方が正しいと思う大人になればいい。
 いけないっていう事を素直に受け止められて、ごめんなさいって言える貴方なら、きっと素敵な大人になれるから」










序章 完