広い荒野。
そこには当然の事ながら、何も無い。
あるとすれば空に昇る黒く濁った煙と、地に転がる干乾びた炭だけ。
他には何も無く、時折吹く風だけが、世界が動いていることを教えてくれた。
静寂と言えば聞こえは良いが、単に、ここは死んでしまっただけなのだろう。

ジャリ

突然、靴音が響く。
この場には酷く不釣合いな、軽快な音。

太陽は空高く。
だのに子供の遊ぶ声は聞こえない。
木々さえも鳴りをひそめ、この世界だけが違う空間に切り離されたようだった。

虫も、動物も、自然までもが停滞した世界。
その中を怯えるでもなく一つの影が動いていた。
全てが動かない中、その影だけが決められた歩調を崩す事なく進んでいる。
それは、出来の悪い映画を思わせる光景だった。

ひたすらの無音。
歩く人影と、それが立てる音を除けば、ここは閉じられた世界。

なれば、ここは終わりの無い夜なのだろう。
ではそれを壊すこの人影は何者なのか。
天使か悪魔か、それともただの人間か。

そんなことはどうでもいいとばかりに、一陣の風が吹いた。
なのに、耳が痛くなるほどの無音。
だから、余計に煩い。
風が奏でる木々の音も、虫の声も、全てがこの森から消え去り、沈み、黙っている。
だから、余計に煩かった。
鼻につく腐臭も、目に写る血痕も、全てが作り物めいていて、嫌気が差す。

自分以外、動く事のない世界で、彼女はただ歩く。
目に写るものはナニカの残骸。
それが人であったり、家であったり、木であったり、動物であったり。
少しの違いはあったが、果たしてその違いに意味などあったのだろうか。

皮肉気に口元を吊り上げ、彼女は笑う。
始めから応えのわかっている問いになど、何の意味も無い。
そう、この地に足を踏み入れた瞬間から己のしている事は意味を成さないと分かっていた。
自分でも気付かない内に歯軋りしていたのか、煙草は半分に千切れ、口に苦い味が広がった。
軽く舌打ちをすると、彼女は咥えていた煙草を徐に投げ捨てた。

枯れた大地に落ちた煙草は、変わらず燻っている。
そのまま歩いていた彼女は、何を思ったのか踵を返し、その煙草を踏みつけた。
彼女が足をどけると、潰れ拉げた煙草が埋まっていた。
当然、火は消えている。
彼女にはそれが、そこら中に転がっているソレと同じに見えた。

短く響く嘲笑。
ハスキーなこの場にそぐわない声で彩られたそれは、誰に咎められるわけもなく消えていく。

ふと、彼女の目に建物が見えた。
彼女がこの世界に入ってから初めて見た、骸と化していないモノ。
全てが壊れたこの世界で、きちんとした姿を保っているそれは明らかに異質だった。

自然と足はそこに向かう。
彼女もそれと同じ異質なモノ。
なればその行動は必然と呼んで良いのかもしれない。
少しの迷いもなく、彼女はその中に入っていった。

そこは奇しくも二日前、彼女の妹が入り込んだ場所だった。





◇◆◇◆

暗い室内に一筋の光が差し込んだ。

密閉されていた空気はうんざりだとばかりに外に逃げ出して行く。
替わりに入ってきた新しい空気のお陰で、死んでいたその空間が命を吹き返した。

木目を照らしていた光が一瞬途切れる。
ギシッと床が軋み、誰かがここに入ってきた事を物語っていた。

「なるほど。これが巫淨か」

入ってきたのは二十代半ばの女性。
室内に入る光があまりにも微弱な為、その容姿は伺えないが、耳に飾られた橙色のピアスが異様に光っている。

「建物自体を結界とし、"襲撃者"には見えないようにしていたわけか。となると…」

何を思ったのか、女性は辺りを物色し始めた。
そもそも、彼女は何をしに来たのだろうか。
巫淨の血縁でもない彼女が用もなくこの場に現れる事など有り得ないだろう。
仮に血縁者だとしたら、あの光景を見て微塵も動揺しないということはありえない。
だとしたら彼女はやはり部外者なのだろう。
しかし、巫淨に関わりが無い人間が、襲撃されたという事実を知っているはずがない。
なのに、この女性は襲撃された事も、そしてこの里の位置も知っていた。

「お。やはりいたか」

壁と壁の間に巧妙に隠された空間。
その中に幼い少女の姿を見つけて女性は口元を吊り上げた。
仮にその少女が起きていれば、恐怖で失神したであろう表情を浮かべながら、彼女は少女を抱えた。

「恐怖で気を失ったか、疲れで寝てしまったか、どちらにしても運が良い」

もし、少しでも音を立てていればせっかくの結界も意味を成さなかっただろうから。
少女の幸運を称えるかのように、女性は喉を鳴らした。
しばらくの思案の後、彼女は少女を抱えたままその建物を出た。

暗がりから日向に出たせいで目がちらつく。
その鬱陶しささえ女性には清々しいものに思えた。
この地獄を生き延びた白磁の少女。
それを照らす光をどうして倦厭できようか。

柄にもない思考に彼女は自嘲気味な笑いをこぼした。
だがそれは仕方が無い事。
この魔的なまでに美しい少女を前にして己を見失わない者など、例え魔術師でもいないだろう。

女性は現れた時と同様、いつの間にか消えていた。
後に残るのはそこら中に転がっている、燻った残骸。
それと、役目を終え、今し方崩れた小さな小さな小屋の亡骸。





◇◆◇◆

彼女は布の擦れる音に、顔を上げた。
そこには、来もしない来客用に唯一事務所に置いてあるソファーの上で、呆としている少女がいた。
キョロキョロと周囲を見渡し、彼女を見つけると、どのように判断したのか、少女は跳ねる様にソファーを飛び出し、一目散にドアへと駆け出した。

その光景を見て、彼女は頬を緩ませる。
少女はその年齢にしては確りしているのだろう。
自分に起きている事態を把握し、瞬時に行動するだけの判断力をあの年で持っているというのだから驚嘆に値する。
しかし、彼女が入っていったのは事務所で台所代わりに使っている部屋だ。
当然、袋小路になっている。
仮に自分が少女の敵であったならこの時点でゲームオーバーである。
まぁ、出入り口の方から出たとしても、魔術を知らない少女が一階に辿り着けるはずはないのだが。

彼女はどこか抜けている少女の行動が可笑しくて、笑いながら眼鏡を外した。

「出てこい。私はお前の敵じゃない」

彼女が呼びかけ、おそらく一分は経っただろうか。
静かにドアが開かれ、その隙間から少女が顔を覗かせた。
目は恐怖で揺れている。
それもそうだろう、知らない場所で、知らない人物に追い詰められてしまったのだ。
襲撃された直後という事を考えれば、恐怖でおかしくなってしまっても不思議ではない。
だが、それでも泣かないようにと、少女は強く唇を噛んでいる。
その強い在り方が、彼女の興味を一遍に惹いた。

「安心しろ。危害を加えるつもりはない。むしろ、これからの面倒を見てやろうと思ってしまったぐらいだ」

少女はジッと食い入るように彼女を見つめる。
あまりにも澄んだ目の光に、彼女は自分が気圧されるのを感じた。
あまりの嬉しさに引き攣りそうになる口元を隠し、少女の目を睨み返す。
きっと無意識に呪を孕んだ視線を送っていただろう。
しかし少女はさらに強い意志を目に滾らせ、睨み返してきた。

「じゃあ、誰なの?」

彼女の言葉に嘘はないと見抜いたのか、少女はドアの影から身体を出し、静かにドアを閉めた。

「蒼崎橙子。人形師だ」

「人形?」

核心から少しずれた応えが少女の興味を惹いたのか、少女は橙子に近づいていく。
橙子は意外そうに目を軽く見開き、しかしすぐに薄く笑った。

「そう、お前の知っている人形とは少し違うが、大した違いではないよ。お前は?」

「わたしは巫淨六花。退魔の一族です」

六花がそう名乗ると、橙子は窓の外を可笑しそうに眺めた。

「まったく、七夜の次は巫淨か。
 蒼崎には退魔と関わる運命でもあるのかね。
 いや、気に入った。決めたぞ、お前は私が引き取ってやろう」

「今、七夜って言いました?」

自分の運が幸であれ不幸であれ、特殊なことに一人感心していた橙子は、突然目の前に現れた六花の顔に面食らった。
そんな橙子の事はお構い無しに、六花はさらに近づいてくる。

「言いましたよね? 七夜って七つの夜の七夜ですよね?」

六花の激変ぶりを訝しんでいた橙子だが、すぐにある事に気付き、遠慮も無く口元を吊り上げた。

「あぁ。お前の言っている七夜に数日前会ったぞ」

そう、橙子は六花が七夜志貴の関係者である事に気付いたのだ。
そしてこの世界の狭さに笑わずにはいられなかった。
ただでさえ稀少な存在である退魔とこの短期間に二度も関わる事になり、その退魔同士が実は知り合いだったときたら、笑うしかない。

「本当ですか? 志貴ちゃんは生きてるんですね?」

「落ち着け、六花。とりあえずそこのソファーに座れ」

接吻をせんばかりの勢いで机に乗り上げてくる六花を鬱陶しそうに押し戻し、橙子は溜息をついた。
自分が取り乱していたことに気付いた六花は、バツが悪そうにソファーに座った。

その様子を見ながら、橙子はどうしたものかと思考を走らせていた。
どうやら自分の予想通り、六花は志貴と知り合いらしい。
それも、この様子からすると友人以上の関係―七夜と巫淨の関係を考えると許婚―である可能性も有り得るだろう。
そんな人物の安否なのだから過敏になってしまったとしても、それをどうこう言うつもりも無い。
しかし、青子の話だと七夜志貴は記憶を無くしていた。
それに加えあの罵迦二人組は今、地球の裏側に魔術の修業なんぞをしにいっている。
果たしてその事実を伝えるべきなのか。
幼い頃から魔術師として育ち、自分というものを確固として持っていた橙子にはわからない問題である。

――まったく。自分の不始末ぐらい片をつけていけ

おそらく今、飛行機の中にいるであろう志貴に悪態をつき、橙子は口を開いた。

「安心しろ。お前の想い人は五体満足で生きている。
 ただ、会うとなると少しばかり難しいかもな」

どこまで教えるかはともかくとして、とりあえず生きているという事だけは、この少女に教えてやらなければならない気がした。
それだけで満足すれば良し、満足しなければさらに教えてやるまでだ。
複雑な事情に嫌気が差し、橙子は何故自分がここまでしてやらなければならない、という一応筋の通った憤りを感じ、やる気が無くなっていた。

その結果、六花が全てを知る事になったとしても、それは彼女の責任だ。
事情や年齢がどうであれ、自分で知る事を選択したならば、その責任は当人が背負うものなのだから。

ひどく恣意的な考えに橙子は自分でも可笑しくなった。
結局、自分も妹と変わらず、誰かを此方側に引き込む事になるのだ。

「どうしてですか?」

急に笑い出した橙子を不気味そうに見据えながら、六花は"扉"に手をかけ、

「その前に訊いておく事がある。お前は全てを知りたいか?」

本能で感じたのだろう。
反射ではなく、数瞬の思考の後に頷き、

「それはな――」

その"扉"を開けた。





◇◆◇◆

「橙子さん。朝食できましたよ」

ガチャとドアが開き、制服に身を包んだ少女がトレーを手に部屋に入っていた。
年のころ十五、六。端整な顔立ちも然る事ながら、腰の辺りまで伸ばされた白髪が綺麗な少女だ。

「あぁ。もうそんな時間か」

部屋の主、蒼崎橙子は眼鏡を外すと、真赤になった目を軽く押えた。
どうやら徹夜で、何か作業をやっていたらしく、机の上にはブレスレットのような物が置かれている。

「また徹夜したんですか? いい加減にしないと身体壊しますよ」

部屋に入ってきた少女は接待用の机にトレーを置き、無骨な窓をガラガラと開けた。
朝七時、都会では目が回ってしまうぐらいの人が溢れかえるこの時間、ここだけは静寂を保っていた。
この建物以外には、建設途中で放棄された廃墟しかないこの区域では―もっとも、この建物も廃墟なのだが―視界を遮る物は当然無い。
眩しいぐらいに照りつける太陽と、廃墟が作る影の、明と暗そして灰色だけで彩られた寂しい風景。

自分がここに引き取られてからもうすぐ八年が経とうというのに、六花は未だにこの風景が好きだった。

「よく飽きもせずに外ばかり眺めていられるな。
 巫淨は"世界"を見ようとすると聞くが、もともと俯瞰するのが好きな家系なのか?」

湯気の立つカップを手に取り、橙子が椅子ごと振りかえった。
六花は少し拗ねたような顔をすると、窓を静かに閉めた。

「いいんです。好きで眺めているだけなんですから。
 それに、そういう嗜好は人それぞれで、それを家系のせいにされてしまうのは少し寂しい気がします」

「違いない。失言だった、謝ろう」

クッと喉を鳴らし、軽く頭を下げる橙子を見て、六花の目が丸くなる。
おそらく喋る犬を見ても、これほど驚かないだろう。
それほどに蒼崎橙子が謝る姿は奇怪な物なのだ。

「どうしたんですか? 橙子さんが謝るなんて…」

驚きに固まっている六花を横目に、橙子は食事を再開した。

「別に何があったというわけではないよ。今日は別のことに頭が行っていてね。
 そのせいで返答がおかしくなってしまったんじゃないかな」

いつもの生返事とはどことなく色が違っていたような気もしたが、六花はこれ以上の詮索をしなかった。
橙子は必要とあらば当人にとって信じがたいことでも教え、必要でなければ当人が知りたがっていることでも教えない。
橙子が話さないというのなら、それは現時点では自分が知る必要の無いことなのだろう。
六花は溜息をつき、応接用のソファーに腰を下ろした。

自分の分の朝食をトレーから下ろし、再度橙子を見ると、何故か六花をじっと見ていた。
まるで、死に逝く者が今生の別れを惜しむかのように。

「そう言えば今日はお前の誕生日だったな」

普段、六花のことに干渉した事がない橙子が、よりにもよってこの瞬間に口を挟んだ。
六花が感じていた橙子のどことない違和感が、ここにきて確信に変わった。
背中が粟立つのを感じ、六花は立ち上がる。

「橙子さん。本当にどうしたんですか? 今日の貴方は、橙子さんじゃないみたいです」

恐怖に叫びたい衝動を必死に抑えながら、六花は橙子の前に歩み出た。
机を挟んで僅か数十センチ。
手を伸ばせばどこにだって触れられる距離が、気の遠くなるほど遠い。
いつもの皮肉気ではない、愛しむかのような笑みを浮かべる橙子を前にして、六花はそう感じた。
その途端、抑えていた恐怖が像となって外に溢れ出す。

「――独りにしないでください」

搾り出すように洩れた叫びはこの狭い空間すら震わせる事無く消えていく。

「何を言うんだ? 六花、何でも死に繋げて考えるのは止めろ」

その叫びに返された応えは、呆れるぐらい普通のものだった。
跳ねる様に顔を上げた六花は、どこも変わらないいつも通りの橙子を見て、首を傾げた。

「ほれ見ろ。お前の場合、それはトラウマに近いのだから仕方が無いが、いい加減矯正した方が良いのかもな」

くく、と笑う橙子の笑顔は、やはり皮肉気なもので、どうして先に不吉だと感じたのか、六花はわからなくなった。

「――そうですね。気をつけます。
 もう学校なんで、行きますね。お皿は流しに浸けておいてください」

誤魔化すように慌しく仕度を終え、六花は橙子が声をかける間を与えずに出て行った。

応接用の机に残されたのは、一口かじられただけのトーストと綺麗に盛付されているサラダ、そして空のコップ。
それを見やり、橙子は深い溜息をついた。

「まったく。勘が鋭いのは結構だが、それを取り違えるのは勘弁してもらいたいものだ」

橙子はコーヒーを啜り、机の端にどけてあった作品を手繰り寄せた。

「師から弟子への祝いだ。どうするかはお前に任せるよ、六花」

口元に笑みを浮かべ、橙子は作業を開始した。





◇◆◇◆

大きい手さげ袋を前後に振りながら、六花は廃墟の中を早足に歩いていた。
普段通らないような細道を通り、崩れかけた建物の塀の上を歩く。
いつもは危ないからと、使った事の無い近道を通り、急いで帰るにはそれなりの理由があった。

彼女の師である蒼崎橙子は非情な人間だ。
人を蔑むことはあれ、人を思い遣ることはない。
それは身内である自分にも例外ではなく、六花は蔑まれる事によって成長した。
しかし、今日に限って橙子はそれこそ異常な優しさを見せた。
それが彼女を不安にさせた。

別にどんな人間であれ、機嫌が良ければ優しくなるだろう。
しかし、そう言い切れないナニカを六花は感じてしまったのだ。
たしかに自分には違和感を直ぐに死と繋げて考える癖がある。
だがやはり、言葉では言い表せない何かが、今日の橙子は違っていた。

階段を駆け上がり、事務所のドアを開けた。
そこには、まるで六花を待っていたかのように橙子が静かに座っていた。
いや、その実待っていたのだろう。
六花を見据えるその目には何か"覚悟"が垣間見える。

頭のどこかでこうなるだろう事を予想していた六花だが、いざその場に身を置いた今、情けなく身体が小刻みに震えだした。

「六花。お前に話がある」

かけていた眼鏡を外し、橙子がゆっくりと口を開いた。
逃げ出したい衝動に駆られながらも、六花は前に足を踏み出した。
そうすると自然に身体が前に進み、いつの間にか自分の指定席になっていた来客用のソファーに座っていた。
きっと、この話を聞くに相応しい場所がここなのだと、身体が告げたのだろう。

「七年前、お前の故郷で起きた惨事を覚えているか?」

「はい」

忘れられるはずがなかった。
六花はその出来事を実際は見ていない。
だが、それがどうしたというのだろうか。
始まりと終わりを知る六花は、その"経過"を何度も夢に見た。
ある時は両親が殺され、ある時は仲の良かった双子の姉妹が殺され、ある時は"あの人"が殺された。
それは夢であり現実。
実際に起こった事には変わりないトラウマがどう記録されようが関係無いだろう。
例え"あの人"が殺されていないとしても、やはりそれは現実。
彼女の中では自分以外の全てが、あの場で殺された。

「そうか。では、もう一つ訊くが、七夜志貴はあれを覚えていると思うか?」

「どういう意味ですか?」

「どうもなにもない。あの出来事を忘れる事ができるかどうかを問うただけだ」

橙子はいつに無い真摯な表情で六花を見つめていた。
その態度が、この唐突な質問が何かの冗談でない事を六花に感じさせた。
だが、訊いている内容は六花の夢に関連していて、今まで橙子が意図的に避けてくれていた節があるものだ。
その真意がどうであれ、六花にとってこの質問は不快な物でしかない。

「忘れられるはずがありません。例え、何があっても・・・・・・

不快感をそのままに、六花は吐き捨てるように呟いた。
それを聞いて、何を思ったのか橙子は笑った。
嘲笑うでもなく、ただ笑ったのだ。

「そうか。何があっても・・・・・・覚えているんだな?」

口元に笑みを浮かべたまま、橙子は何度も頷く。
何かに納得し、そして決意するように最後に目を閉じた。

「今から七年前、巫淨で起きたような惨事が、他の場所でも起きている。
 そこは冬木という場所でな。原因こそ違えど、殺し合いによって大火事が起きた事に変わりはない。
 お前が言ったように、七夜志貴があの惨事を忘れていないのなら、"七年前に大惨事が起きた場所"から生き残りを捜すだろう。
 当然これは憶測で、何の根拠も無い。
 だが、ここで待つよりは、遥かに七夜志貴と再会できる可能性がある」

不快感に歪んでいた六花の顔が、呆けたものになった。
おそらく橙子の話があまりにも飛びすぎた為、頭が追いつかなかったのだろう。
だが、六花はただ理解できなかっただけで、聞こえなかったわけではない。
橙子の言葉を反芻する内に、その意味を理解したのか、おずおずと口を開いた。

「つまり、志貴ちゃんがその冬木という所を訪れるかもしれないって事ですか?」

「あくまで可能性の話だがな。お前が会いたいと言うのなら行けば良い。
 私は止めない。それどころか厄介払いが出来て嬉しい限りだ。どうする?」

橙子はそう問うと同時に、心の中で自嘲した。
最初から応えのわかっている問いになど何の意味も無い。
この少女に逢った時から、自分はそれを理解していたはずだった。

「行きます。ゼロじゃないなら、それだけで頑張る価値があるんだと私は思ってますし」

満面の笑みとともにソファーから立ちあがった六花を見て、橙子はそうかと納得してしまった。
六花が冬木に行くのなら、必然橙子と六花は別れることになる。
手塩にかけたわけではないが、それなりに育てたこの少女に、どうやら橙子は愛着をもってしまっていたらしい。
だから伝えるだけなら何のリスクも無い事に、わざわざ意味を求めた。
もし、六花が七夜志貴があの惨事を思い出す可能性が無いと応えたなら、果たして橙子はどうしただろうか。
なんて無様。
自嘲、否、自己嫌悪で顔が歪み、歯が不快な音を立てる。

「どうしたんですか?」

「いや、何でもない。それよりも…ほれ、お前のものだ」

訝しむ六花の視線を振り払うように首をふると、橙子は机の上に置いてあった物を投げた。
六花は危なっかしい手付きでそれを取ると、蛍光灯にかざすようにそれを眺めた。

「綺麗――ブレスレット、ですか?」

「そうだ。冬木に行くのなら、最低でもそれは持って行け。
 一級品の魔力殺しをわざわざブレスレットに加工してやったんだ」

「? どうして魔力殺しが必要なんですか?」

六花は首を傾げ、質問しながらも、既にその腕に魔力殺しを巻いている。
おそらくは橙子から何か物を貰った事が嬉しかったのだろうが、人を安易に信用しすぎだろう。
魔力殺しなどという胡散臭いものを、説明を求めるでもなく着用する弟子の無警戒ぶりに橙子は軽い眩暈を覚えた。

「それはだな、その土地が魔術師によって管理されているからだ。
 冬木は遠坂という家が魔術協会から管理を任された土地だ。
 だからといって他の魔術師が入れないわけではないのだが、その為には魔術品を遠坂に贈る必要があってな。
 生憎とこっちにそんな金は無い。
 それに蒼崎の関係者だと知られたら、まず身体を差し出せと言われて終いだ。
 だからお前は魔術師と知られずに冬木に行くしかない。
 そうなると、魔力殺しを付けておく必要があるわけだ。
 相手は名門だからな。
 お前の滓みたいな魔力でも、おそらく余裕で感知するだろう。
 まぁ保険みたいなものだと考えておけ」

魔術師としての教育を受けたことがなかった六花には、半分程度しか理解できない内容だった。
だが、とりあえずブレスレットを四六時中着けておけば何の問題も無いという極論だけは理解したようで、六花はその腕につけたアクセサリーを繁々と眺めている。

「でも、そんなに凄い物を私なんかが貰っちゃっていいんですか?」

そんな、弟子の謙虚と言うにはあまりにも的外れで抜けた言葉に、橙子は再び眩暈を感じた。
どうやら六花は、橙子がそれを渡すに値する状況に自分が入り込もうとしているという自覚がないらしい。
たしかに、この少女を魔術師として育てなかった自分にも責任があると橙子は思う。
だが、この大切な所を取り違える性格は、おそらく元来のものだろう。

「先の話を聞いていなかったのか、六花。
 お前が行く所には、魔術師がいるんだ。
 お前のような似非魔術師がそれから身を守る為には、これでもまだ足りないぐらいなんだぞ」

それでもまだ首を傾げる弟子を目にして、橙子は頭痛までも感じ始めた。
同時に、ふと疑問が頭の中を掠めた。
六花は普段から、決して理解力に欠けているわけではない。
なのに何故か、この事にだけは決して理解を示そうとしない。
そして六花が真面目な話をしている最中にふざけるような性格ではないことは橙子が一番よく知っている。
だから六花は、普段なら既に理解しているはずの簡単な説明を本気で把握できていない事になる。

「どうしたんだ、六花。お前らしくもない。何がそんなにひっかかるんだ?」

「だって、どうして橙子さんがそんなに気をつかってくれるのかなって」

師が深刻に考えてしまった問いに返ってきた応えは、どうしようもないぐらい下らないものだった。
橙子が多分に不快感を味わいながらも、思わず納得してしまったほどだ。
たしかに師弟愛というものとは無縁だった―それどころか六花が幼子の頃にも放っておいた―橙子が突然自分に気を回しているのだから、六花がそれを訝しんでしまっても、仕方が無い事だろう。

「なるほど。たしかに不思議だ。私でもわからんよ。
 そうだな、いまさらになって師弟愛に目覚めたという事では駄目か?」

苦笑いを浮かべながら、茶化すように言葉を濁した橙子を六花は食い入るように見つめていた。
その目を見返してしまった橙子は、その瞬間凍りついた。

「そうですか。なら、そうなのでしょうね」

唄うように言葉を紡ぎ、やわらかに微笑む六花は、数瞬前の彼女とはまるで違う。
その変化を目の当たりにした橙子が、背筋に冷たいものをかんじてしまうほどに。

――知らない

その悪寒は、紛れも無い恐怖であった。
識らないもの前にして、生物が感じる本能的な危険信号。
だのに身体が震え、動こうにも動けない狂おしいほどの矛盾。
そんなものがまだ自分に残っていたのかと、橙子は嗤った。

「どうしたんですか? 急に笑い出して」

先に浮かべていた妖艶な笑みが何かの間違えであったかのように、首を傾げた六花の顔はただの少女のものだった。

「無自覚か」

「何がですか?」

橙子は六花が■■■■■■だと知っていた。
だからこの少女を魔術師として育て上げ、こうして手元に置いていた。
この七年間、橙子は常に六花を監視し、その結果、外に出しても問題無いという結論に達した。
だから七夜志貴について六花に話したつもりだ。
だが、先のは何だったのだろうか。
もしや、と自分の中に最悪の可能性が涌き出てくるのを感じる。

――もしや自分は、彼女が■■■■■■たる所以を勘違いしていたのではないか。

それは一秒と経たない内に、確信に変わった。
では、六花をここに留めるのかと自問し、笑いがもれそうになった。

応えのわかっている問いになど意味がない。
六花は何をおいても冬木に行く。
それがわかっていて、何故自分はここまで傲慢になれるのだろう。

それに、七年間監視した自分が初めて見るものが、そう簡単に表に出るとは思えない。
誰かの命を運ぶような出過ぎた真似を橙子はするつもりもなかった。

「いや、なんでもない。
 それよりも冬木に行くなら、もう一つ言わなければならないことがあった。それはな――」

こうして、一人の巫女が戦場に舞い降りた。
その翌年、穂群原学園の入学式に白髪の少女がいた事は必然だったのかもしれない。












それから数年後、物語は動き出す――