「ん…」
冬と言うには少し暖かい朝。
それでも身を刺すような冷気が漂い、起きたばかりだというのに意識はスッキリしている。
今は多分七時ぐらい。
ここ、冬木に移り住んでから一度も遅れた事の無い起床時間。
身を捩る度、ギシッと鳴るベットから這い出し、机に置いてある目覚まし時計を確認する。
時計の針は七時四分を指していた。
誰に聞かせるでもない挨拶を口にして、洗面所に向かう。
蛇口を捻ると、今が冬だと実感させられる冷たい水が勢い良く流れ出す。
数瞬迷った後、その流れに手を入れた。
そしてお湯を出そうとする自分を断腸の思いで追い出し、極寒の冷水で顔を洗う。
スッキリとしていた意識が、あまりの冷たさに朦朧としてしまうのは愛嬌だろう。
本来なら意識を爽快にするはずの冷水も、行き過ぎれば意識を奪う凶器になりかねない。
カチカチと鳴る歯を抑えつつ、制服に着替える為にパジャマを脱ぎ捨てた。
ひんやりとした空気が肌を刺し、身体がぶるりと大きく震える。
下着姿のまま鏡の前に立つと、当たり前だが身を震わせる自分の姿が写っていた。
膝辺りまで伸ばしている白髪―友人が言うには銀髪らしい―が発光しているように思えた。
きっとカーテンの割れ目から洩れてくる日光を反射しているせいだろう。
色素が足りないのか、私は全体的に色が白い。
そのせいで腹部にあるただでさえ大きな傷跡が余計に目立ってしまう。
幼少の頃に負った傷跡は今尚私の心から離れない。
それを誇張するように、日の光を受け、赤い傷跡は爛々と輝いていた。
テレビの電源をつけると、こんな早い時間からピシッとしたスーツに身を包んだキャスターが原稿を読んでいた。
―――昨夜未明、○○県冬木市深山町のオフィス街でガス洩れが発生しました。
そんな出だしから始まったニュースはこんな内容だった。
昨夜新都のビルでガス洩れが起こったらしい。
原因は不明だが、急ピッチで進められた建設によるガス管の欠陥工事のせいというのが主論らしい。
フロアにいた全員が酸欠になり、意識不明の重体となる大惨事に、他の階にいた人間がまったく気付かなかった事を大きく疑問視しているみたいだ。
専門家の意見だと、この規模のガス洩れならばビルの構造上、上下の階にも安全値を遥かに越えたガスが流れ込み、気付かない訳がないとの事だ。
しかし実際は誰一人気付かず、後もう少しで手遅れになってしまいそうな所で発見された。
そう言い括ると、キャスターは次のニュースを読み始めた。
こんなに朝早くからきちんと身嗜みを整えている女性キャスターに較べ、私は未だ下着一枚。
なんとなく情けなくなり、急いで制服に袖を通した。
肌に触れる布地は柔らかく、少し暖かい。
しかし先のニュースは他人事ではない。
自分も新都でバイトをしている身であるから、少しは気を付けよう。
櫛で髪を梳かし、身嗜みを整えた後、カーテンを開けた。
晴天と言うに相応しい青空が広がっている。
このアパートからでもギリギリ見える川面が日光を反射し、眩いばかりに輝いていた。
窓を開け放ち、新鮮な空気を取り入れた。
ここは都会とも田舎とも言えない中途半端な土地だが、空気が澄んでいてキレイだ。
それが私にとってありがたかった。
前にいた所は廃墟みたいだった上に、工場の排気で空気が汚れていた。
幼少の頃を田舎で過ごした私には、その空気が合わずに苦労したものだ。
私の部屋はアパートメントの二階。月四万で2Kという驚きの部屋だったりする。
特に怪しいモノも居ないし、家主さんが意地悪というわけでもない。
むしろ家主さんはとても良い人だ。
なのにこれだけ安いという事は、ここが田舎という証拠なのかもしれない。
…
まぁそれはどうでも良い事だ。
冷蔵庫を開け、愛用のコップに牛乳を注いだ。
それを片手にパンをトースターにかけ、昨日作っておいたお弁当のおかずを確認する。
料理があまり得意じゃない私がお弁当を作ると、から揚げや卵焼きなどの簡単なおかずしか作れない。
そしてバリエーションも少ない為、お弁当を作るのは一週間に二回だけ。
女としてどうかと思うが、友達が少ない私はそういうずぼらな所を人に見られないで済んでいる。
それはそれで悲しいが、しょうがない事だと思う。
誰が好き好んで白髪の女と仲良くしようと考えるだろうか。
当人である私でさえそう考えるのだから、他の人がどう考えるかなんて解りきった事だ。
白髪が問題なんだから染めれば良い。と言ってくれた友人もいるが、それに私は頷けなかった。
私の髪が黒くなってしまったら、『あの人』が私を見つける事が出来ない。
あの事件で『あの人』が生きていてくれていたなら、きっと私を探してくれる。
そんな妄想染みた想いに囚われ、黒く染める所か、より目立つようにと髪を伸ばしている始末だから笑えない。
ここに来たのも十年前に大火災があった場所を育て親に教えてもらい、冬木の大火災が公の記録に残っている事を知ったからだ。
そして『あの人』があの出来事を覚えているなら、大火災があった場所から探し始めるだろうという助言に乗せられ、ここに住む許可を貰った。
それから二年。
もしかしたらここに移った時にはもう調べ終わった後かもしれないし、今この時点ではまだ調べ始めていないのかもしれない。
でも、ただの一般人でしかない私が人を探す事なんて出来ない。
だから結局、『あの人』が私を見つけてくれる事を毎日祈る事しか私には出来ないのだ。
そうして私はいつも通り、こうして学校に向かっている。
私の家は学校まで歩いて二十分、近くも無ければ遠くも無い実に微妙な距離にある。
一つ角を曲がると、りっぱな階段が見えてきた。
私の中では地獄階段と名付けられているこの階段は、柳洞寺に続く恐ろしいほど長い階段だ。
地獄に行くのに登ったり、神聖な神社の階段を地獄と称したりと、多大な問題が多々あるが、それは気にしない。
神聖な物として崇められる対象なのだからこのぐらい入り辛くても良いのかもしれないが、やはり長すぎだろう。
修行僧が沢山いるという話を聞くぐらい伝統のあるお寺なのにお参りに行く人がいないのも、一重にこの階段の所為だと思う。
しばらく歩いていると、十字路に出た。
深山町はここを境に和風な町並みと洋風な町並みに分かれる、変わった造りをしている。
そしてこの坂を下って行くと新都に、登って行くと学校に着く。
多くの生徒が和気藹々と歩く流れに、私も入り込んだ。
私はこの空気が好きだ。
この時間だけは避けられる事も無く、同じ空気の中に居れる。
例え一人で歩いているとしても、この空間に皆で居る事には変わり無いのだからそれで十分。
友人に言ったら笑われたけど、これは私の本心だ。
『いいか、魔術師とはその存在を秘匿する者たちだ。故に他者との必要以上の関わりを避け、孤独に身を置け』
私の育て親が私を拾った後、毎日のように繰り返した言葉。
私は魔術師じゃないと反論したら、他から見ればそうなるのだから注意しておけと睨まれたのを覚えている。
そして冬木に引っ越すと決めた時も、自分の用事を後回しにして幾つかの忠告を長々と話してくれた。
しかし親不孝と言うべきか、私はその忠告の大部分を呆としながら聞いていたので、内容がかなりあやふやだ。
冬木に『あの人』が来るかもしれないと考えていたせいで、全てが上の空だったことが失敗だった。
冬木のような霊脈には、その土地を管理する魔術師がいる事。
そして、その管理者にばれないようにする為、魔力殺しだけは常に身につけておく事。
最低限覚えておけと言われたこの二つの事だけは覚えているが、あとは怪しいものだ。
この町についても色々と教えてくれたのだが、全て記憶から抜けてしまっている。
坂を登り切ると、学校の正門に着いた。
おはよーと誰かと誰かが挨拶する中を校舎まで歩く。
自分の教室のドアを開けると、いつもと変わらない挨拶が私を迎えた。
「おはようございます。巫淨さん」
キレイな黒髪を左右に束ね、きりっとした目尻が印象的な女の子、遠坂凛さんが私に頭を下げてきた。
彼女がここ冬木の管理者、遠坂家の当主だ。
本来なら関わるべきでは無いとわかっているが、私は魔術師然としている彼女に憧れてしまった。
そして何度も声をかけている内に世間話程度ならする関係にまでなった。
「おはよ、遠坂さん」
この人を見ると自然と笑顔になれるから不思議だ。
遠坂さんは魔術師としての自覚を人一倍持っているのに、どこか少女のような愛らしさも兼ね揃えている。
管理者ともぐり魔術師という関係でなかったら、この人とはきっと良い友達になれた事だろう。
まぁ今でも私は友達だと信じているけど。
「あ、巫淨さん」
もうそろそろチャイムが鳴るこの時間、話をする余裕は無いはずなのに声をかけられた。
振り返ると今まで見たどんな彼女より魔術師の目をした彼女がいた。
「なに?」
自分が魔術師であるとばれたのかもしれないとドギマギしながら訊くと、
「夜、危なくなりそうだから気をつけて」
そう言われた。
◇◆◇◆
放課後、掃除を終えると既に日が暮れていた。
―――危なくなりそうだから
遠坂さんの言った事に何故か胸騒ぎがして、早足で家に帰る事にした。
彼女は悪戯に人をからかったり、ましてや恐がらせたりするような人じゃない。
そして必要のない警告を他者にするような無責任な人でもない。
だから魔術師としての言葉でも、それは私を気遣ってくれた言葉。
以前、私が夜遅くまでバイトをしていると言っていたのを覚えていてくれたんだろう。
それが嬉しくて、同時に彼女の身が心配になった。
危なくなる。つまり何かが起こる。
それが何なのかわからないけど、夜に起こる物。
―――例えば吸血鬼が現れたとか?
もしそうであるなら私では手に負えない。
師には、お前から連絡は入れるなと言われているが、もし強力な死徒だったら約束を破っても許されるだろうか?
家に着いた私はすぐさま電話を手に取り、そして下ろした。
今はまだそうと決まったわけではない。
早とちりして誤報なんてしたら、それこそ身の危険だ。
悩んでも始まらないと割り切り、手早く家事を済ませ、寝る事にした。
◇◆◇◆
いつも通り目を覚まし、いつも通り学校に行く。
そしていつも通り教室のドアを開けた時、何かがおかしかった。
いつも挨拶を交わす遠坂さんが――いない。
自分の顔から血の気が引くのがわかった。
―――夜、危なくなるから
昨日、彼女は確かにそう言った。
そして今日来ていない。
優等生である彼女が理由も無しに欠席、あるいは遅刻するはずがない。
本当に吸血鬼が現れ、殺されてしまったのか。
彼女を倒すほどの死徒となると私では太刀打ちできない。
しかしそれだけの魔が現れ、私が気付かないはずが無い。
どうゆう事なのだろうか。
授業中も色々な仮説を立ててみたが、納得のいく物は一つも出なかった。
結局、放課後まで考えてもわからず、掃除を終えた時は昨日より少し遅くなっていた。
「よし!」
私の無い頭では、何を考えようと意味が無い。
だから彼女の家に行って、事の真偽を確かめてみる事にした。
もしいないのなら、これからどうするかを考えなければいけないし、いるならそれで安心できる。
夜は危ないと忠告されているが、私にも人通りの多い所まで逃げるぐらいの実力はあるだろう。
その程度のリスクで安否が確認できるなら安いものだ。
前に遠坂さんから聞いた建物の外見に合う家を見つけるまで、一時間もかかってしまった。
家の外見を聞いただけで、道順を聞いたわけではない事に気付かなかった自分が情けなくなる。
古く、立派な洋館が私の眼前に悠然と立っていた。
呼び出しベルを押すと、ピンポンと洋館の外見に合わない音が響く。
しばらく待ってみるが、中で動く気配はしなかった。
焦る気持ちを抑えてもう一度押すが、結果は変わらない。
冬木で何かが起きている。
それを確信してしまうと、もう一つ気付かされるものがあった。
―――夜、危なくなるから
今は夜。
そしてここから人通りの多い道まで歩いて五分。
今鏡を覗けば、きっと真っ青な顔が覗き返す事だろう。
後ろに何かの気配を感じたような気がして、勢いよく振りかえった。
だが、当然そこには何もいない。
今度は横に気配を感じ、再び跳ねる様に振り向く。
あるのは暗闇だけで、やはり何もいなかった。
先から感じている気配が気のせいである事はわかっている。
もし本当にソレがいたなら、私はとっくに死んでいるのだから。
自身に何度も言い聞かせ、私は歩き出した。
しかし、その歩みは少しも続かず、すぐに駆け足になった。
◇◆◇◆
コツ
駅から一人の男が出てきた。
身長は百七十程度、ほっそりとしているが痩躯ではなく、刀の切先を思わせるしなやかさがある。
別段変わっているわけでもないのに、皆がその男を見ている理由。
それはおそらくその双眸を覆う包帯のせいだろう。
盲目は珍しくもなんともないが、その者が目を何かで覆っているとなると話は別だ。
駅周辺に居たサラリーマン、OL、学生、全ての人間がちらちらとその男を見ていた。
それを気にした風も無く、男は首を巡らせる。
まるで、周囲を見渡すかのようなその行動が、さらに奇怪さを強めた。
「うーん。俺にはわからないなぁ」
外見の奇抜さからは想像もつかないような穏やかな声。
誰に向けられたわけでもない独り言にすら、その男の本質が滲み出ていた。
適当な方向に当りをつけると、男は迷いも無く歩き出す。
駅周辺では外灯に照らされ、目立っていた黒装束。
しかし、暗闇に歩み寄ればどうなるか。
男は、闇に融けるようにその場を後にした。