「ん…」

目覚めはいつも通り。
六花は肌寒い空気が頬を撫でる感触で目を覚ました。
冷たい水で顔を洗い、パジャマを脱ぎ捨てる。
六花が部屋にある数少ない備品の一つ鏡台の前に立つと、やはり髪が白く、傷が赤く光っていた。
昨夜なかなか寝つけなかったせいか、目が少し腫れぼったくなっている。
しかし六花は気にした様子も無く、自嘲気味にため息をついた。

昨夜、混乱する頭を整理することで手一杯だった六花は、知恵熱でダウンした。
だから情けない話だが、一晩たって尚、六花は状況を把握できていなかった。
かといって、何かをする気力も無い六花は、惰性に任せ、いつもの通りに登校準備をしている。

遠坂凛が何かに巻き込まれたかもしれないというのは自分の想像であって、確証がない。
一晩経ち、幾分か冷静さを取り戻した六花は、全ては自分の想像であって、何一つ確証が無い事に気付いた。
恥ずかしくて顔が赤らむ。
彼女の悪癖に、自分の不安をすぐに死と繋げて考えてしまうという物がある。
だから、考えれば考えるだけ、どうしていいのかますますわからなくなった。

ふらふらと急な坂を登っていると、遠目にも目立つ、赤色のコートを着込んだ少女が校門の前に立っていた。
その遠坂凛にそっくりな少女は、何をするでもなく校舎を見つめ、否、睨んでいた。

「あれっ?」

六花は目を擦り、再度確認する。
目を擦ったからか少しぼやける視界に、間違うはずが無い遠坂凛の姿が確認できた。
門の前で一人ブツブツと何かを呟く姿は注目を集めているが、それも彼女が現実にいるという証だった。

「遠坂さん!」

横からの突然の大声に驚いたのか、凛は珍しく顔を引き攣らせる。

「おはようございます、巫淨さん。でも、どうしたんですか? そんなに大きな声で」

しかし声をかけたのが六花だとわかると、すぐ微笑み、軽く会釈をかえした。
それはいつもと同じ遠坂凛の姿。
操られている気配も無ければ、魔に堕ちた気配も無い。
どうやら自分の不安は杞憂で終わったらしい。
六花は安堵すると同時に、また早とちりで人を死なせてしまっていた事に、罪悪感が胸の中で疼くのを感じた。

「何でも無いよ。遠坂さん。
 昨日学校休んでたから、どうしたのかなって」

「心配してくださってありがとうございます。
 昨日は体調が優れなかったので休ませていただいただけです。一日家でじっとしていたので、今日は元気一杯ですよ」

何に驚いたのか凛は目を見開くが、すぐに丁寧に頭を下げ、優雅に礼を口にした。
だが、六花はその返答に違和感を覚えた。

『一日中家でじっとしていた』

何故か、そんな言葉が頭の片隅に浮かぶ。
それが何を意味しているのか、六花にはわからなかった。
ただ、どうして自分が訪ねた時、家に誰もいなかった・・・・・・・のだろうかと、漠然と思っただけだ。

その答えに気付けないまま・・・・・・・、六花は首筋がざわつくのを感じ、顔を上げた。
すると、何故か凛は、何か信じられない物を見たかのように、険しい目で六花を見ていた。

「そうなんだ。でも病み上がりは気をつけてね」

「はい。無理をしないつもりですから、時々休むかもしれません。
 だから私が休んでも、そんなに心配しないでくださいね」

感情を映さない無機質な眼で六花を見つめると、凛は何食わぬ顔で、微笑んだ。
その笑顔に、六花は心臓が絞られるような、堪え難い恐怖を感じた。

「うん。私先に行くね」

魔術師の眼で見つめられる事に堪えられなくなった六花は、逃げるように校舎へと走り出した。





◇◆◇◆

「凛」

パタパタと白銀の髪をなびかせて走る少女の背中を見ている凛に、背後から声がかけられた。

「なに?」

「あの娘。一般人ではないな」

凛は背後からの呟きにも、少しも驚いた様子が無かった。
それも当然。その姿無き声は彼女の従者であるのだから。

「あの子は巫淨という退魔の一族よ。
 貴方は知らないでしょうけど、巫淨は有名なのよ。
 おそらく彼女も私がここの管理者オーナーであることぐらい知っているでしょうね。
 一般人では無いけど、魔術師でもない。注意する必要は無いと思うけど?」

「なるほど。確かに魔力も一般人並といった所だ。
 何故凛の不在にあれほど過剰な反応をしていたかは気になるが」

姿無き声は自分の違和感をそのまま口にした。
彼にしては珍しく、その内容はまとまりの無いものだった。
姿さえあれば、おそらく首を傾げていただろう。
しかし、前方を歩く少女、凛は詰まらなさそうに鼻を鳴らした。

「それは彼女が今の冬木に異常を感じているからでしょ?
 退魔というぐらいだから、常で無いものに人一倍早く気付いても不自然じゃないわ。
 あの様子だと、私が嘘をついた事にも気付いたみたいだし」

自分の虚偽を見破られたというのに、彼女には微塵の動揺も無い。
そんな主のらしい返答に呆れたらしく、姿無き声は溜息をついた。

「凛。問題ないのか? 一般人と大した違いがないとは言え、特殊な家系なのだろう」

「問題無いわ。彼女は知ったとしても、無闇に首を突っ込んでくるような愚か者じゃないもの。
 たしかに先の彼女は鋭すぎたけど、普段の彼女は本当に普通の人間よ」

姿無き弓兵は主が虚偽を入れた事に納得いかないのか、押し黙る。
主はその雰囲気を感じ取り、溜息をついた。

「わかってるわよ、アーチャー。
 先の彼女は少し異常すぎた。それだけは認めるわ。
 でも、それが何だって言うの? 彼女は魔術師の争いには無縁の人間よ」

「―――ふむ。凛がそういうならば従おう」

やれやれと首を振る姿無き弓兵。
その不遜な態度が彼女の癇に障ったらしく、主は声を荒げた。

「あぁもう。気になる事があるならしっかり言いなさいよ」





「いやなに、仮に彼女が聖杯に選ばれたら、さぞかし脅威だろうと思ってね」





突如、口調を真剣な物にし、弓兵が警告を呟いた。
しかし、彼女は鼻で笑うと、一方的に念話を切った。

「有り得ないわ。仮に選ばれたとしても、彼女には魔力が無い。
 そんな相手に、この私が遅れを取るとでも思ってるの?」

不敵に笑うと、凛は静かに歩き出した。





◇ ◆◇◆

「ふぅ」

六花は自分の席につき、静かに息をついた。
自分が昨夜考えていたような最悪な事態になっていなかった事に安堵したからか、身体から力が抜けてしまったのだ。

しかし、気が抜けた瞬間、身体にへばり付くような"何か"を感じ、身体を跳ね起こす。
首を巡らせ、辺りを見渡してみるがどこにもおかしな物は無い。
しかしこの感覚が自分の気のせいで終わらせられるような物ではない事を六花は知っていた。

―――結界

魔術師ではない六花が、何故結界を感知し、それ自体を知っているのかは、今は関係無い。
問題はこの結界が尋常ではない邪気で編まれている事。
正確には魔力でだが、魔術を知識でしか知らない六花は"自分の識っている感覚"で表す方が理解しやすかった。

「まいったなぁ…私で浄化できるかな」

「なーに辛気臭い顔してんの?」

六花がポツリともらした時、数少ない友人の一人である蒔寺楓が横から声をかけてきた。
思わぬ事態に驚いた六花は、文字通り飛び上がり、椅子からずり落ちてしまった。
それを見た蒔寺は呆れ顔になり、六花を引っ張って元の位置に戻した。
そしてポンと六花の頭に手を置き、くしゃくしゃと髪を混ぜた。

「あのなぁ六花、お前びびりすぎだ。これじゃあ私がいじめてるみたいじゃんか」

「あはは。ぼーっとしてたみたい」

すぐそばまで来られても気付けなかった事が恥ずかしく、六花は照れ隠しに笑いながら頬をかいた。
蒔寺は手櫛で髪を直す六花の手を押え、頭を再度かき混ぜた。
直す事が不可能なまでにぐちゃぐちゃになった髪を押え、涙目で見上げる六花を見、苦笑いを洩らしながら隣に座った。

「まぁお前は呆けてる方がいいよ。
 変に気を張られて遠坂みたいになられちゃ堪ったもんじゃないからな」

「あら? 私がどうかしましたか、蒔寺さん」

蒔寺の身体が猫のようにビクンと硬直し、ぎこちなく振り返る。
そこには令嬢のような爽やかな笑顔を浮かべた凛が立っていた。
その笑顔は清々しいはずなのに、何故かとてつもない重圧を辺りに振り撒いている。

「い、いやー遠坂さん。何でもないですよ?」

先の六花のような慌てぶりで、はははと乾いた笑い声を上げる蒔寺は、お世辞にも嘘が上手いと言えなかった。
遠坂凛が、そんな拙い誤魔化しが利く相手のはずもなく、無慈悲な一撃が蒔寺を襲う。

「あら。巫淨さんが私のようになられては困るんでしょう?
 でしたら何が問題なのかをこの場ではっきりさせた方が宜しいかと」

「ぐうっ」

元来がまっすぐな性格をしている蒔寺が、凛を相手に嘘を突き通せる訳も無く、瞬時に撃墜された。

「…なにを言ってるんだか。遠坂に問題なんてあるはずないじゃんかよ」

余裕の笑みを浮かべる凛に対し、蒔寺はキョロキョロと落ち着きが無い。
既に勝負は決まっているようなものだが、それでも諦めないのが体育会系の素晴らしさ、愚かさなのだろう。

「まぁ貴方が何を言っていたのかはわかるからいいんですけどね。
 でも、次に不穏な事を言ったら考えないといけませんね」

最後に極上とも言える笑みを浮かべると、凛は席に着いた。

「相変わらずこえー。なんだよー。普段誉めてやってんだからこのぐらいいいだろー」

懲りずにしつこく愚痴を言う蒔寺も蒔寺だが、この小声の愚痴にも反応し、微笑みかけている凛も凛だ。
付き合いが悪いようで、実は愉快な人なのではないだろうか、と六花が思う所以は、凛のこういう言動にある。

「あら、蒔寺さん。
 貴方の言う誉め言葉とは、氷女や蛇女の事を指しているのですか?」

「そうだよ? 格好良いじゃん」

悪びれた風も無くさらっと言う蒔寺はある意味大物なのだろう。
それも本気で格好良いと思っている所が憎めない。

「はぁ。もういいです。貴方に構った私が馬鹿でした」

凛はそのあっけらかんとした対応に毒気を抜かれたのか、溜息をついた。

「どうしたんだろうな」

その様子を見ていた蒔寺が、小さな声で六花話しかけた。
その顔には先までの脳天気さが無く、真剣な目をしている。

「遠坂さん? 特に変わった風には見えないけど」

「あいつが私の小言に言い返さないなんておかしいじゃんか」

まるで、そうなる事が当たり前かのように蒔寺は真面目に唸っている。

「ただ、蒔寺を構うのが面倒になったんじゃないかな?」

そんな迷惑な当たり前を至極当然のように考えている友人に呆れつつ、六花は凛を横目で見た。
いつも通り背筋をピンと伸ばして座り、次の授業の予習をしている。
これといって変わった所は無いが、どこが変わっていないかと訊かれると応えられない姿。
普段から優等生としての、つまり個が無い姿しか見せない彼女にはこれと言った特徴がない。
だから、何を基準に変わっているとすればいいのかを、蒔寺もそして六花も知らなかった。

「うーん。まぁ今日は調子がわるいんだろうな――おっと先生だ。じゃな」

葛木教諭が音も無く扉を開けて教室に入ってくる。

「日直。号令」

静かな、しかし教室の隅々まで届く声で、この一年間変わる事のなかった言葉と共に入ってきた。
葛木教諭は倫理と現代社会を担当し、生徒会顧問でもある真面目な先生だ。
誰に対しても平等で、生徒からは藤村教諭と同じぐらい人気がある。

だが、六花はこの先生がどうしても好きになれないでいた。
理由は実に小さい物で、この人の目が六花にはとても恐い物に見える。
前に一度、六花は蒔寺にその事を言ってみた事がある。
そうしたら、お前が人の容姿で苦手意識を持つ事もあるんだな、と笑われた。
六花は自分の容姿が人とかけ離れている為なのか、他人の容姿に苦手意識を持ったことが無い。
それを知っていた蒔寺は、やっと人並みになったかと笑っていた。
彼女曰く、人に苦手意識を持っている方が人間らしくていいらしい。

だが、六花は昔から直感が優れていた。
そして六花は自分の勘を疑った事が今まで無い。
まぁ件の悪癖の所為で、だいたいを死に繋げて考えてしまうのだが。
しかしそれを差し置いて、六花の直感は異常を敏感に感知する。

だから葛木教諭にしても、自分の苦手意識ではなく、何か異常を抱えているのだと六花は確信している。
何故六花がそれを感じる事ができるのか、彼女自身、未だにわからない。
理由がわからない事が苦手意識に拍車をかけ、今では顔も見られない。
しかし、当の本人は、気付いているのか、いないのか、六花にも平等に接している。

「ではHRを終了する」

やはりお馴染みの科白で葛木教諭は教室を出て行き、入れ替わるように一時間目の担当が入ってきた。

「はぁ…」

勉強というものをどうしても好きになれず、友達も少ない六花は正直、学校が嫌いだ。
これから約六時間。また苦痛に耐えなければならないと思うと眩暈を起こしそうになってしまう。
しかし、今日は昨日まで無かった結界が学校に張られているのだから、気が気でなくて失神する事さえできない。

「はぁ…」

もう一度大きく溜息をつき、一時間目の教材をかばんの中から取り出した。





◇◆◇◆

「ではHRを終了する。日直は日誌と戸締りの確認を。部活動のない生徒は速やかに帰宅するように」

葛木教諭が教室を出ると、生徒も一斉に立ちあがり、教室を出て行く。
友達と新都に遊びに行く予定を楽しそうに話したり、部活の事を話し合ったりしながら、皆が教室を後にする中、六花は自分の席で呆としていた。
どうやら、学校に張ってある結界が気になり、調べる為に残るつもりらしい。
しかし、その姿は抜けていて、今から超常に立ち向かおうとしている者にはとても見えない。

周りが楽しそうにはしゃいでいるのを、ただぼんやりと眺めている事が主な原因だった。
友人の少ない六花には、その光景はあまりにも眩しく、物凄い勢いでやる気を削いで行く。

盛大な溜息をついた六花が教室を見渡すと、自席で静かに座る凛と目が合った。
人が疎らになった教室で六花と凛だけがぼんやりと椅子に座っている。
自分と違って忙しそうな凛がまだ学校に残っている事に違和感を覚えたが、すぐに理由を思い当たった。
彼女はこの土地の管理者なのだから、この結界を放っておくはずがないのだ。

そして終に教室には二人だけになり、気まずい沈黙が訪れた。

「巫淨さんは帰らないのですか?」

凛は重苦しい沈黙に堪えられなかったかのように、会話を切り出してきた。
しかしその内容は間に合わせになどではなく、本題の問い掛け。
駆け引きの時間がもったいないとばかりの強い意志が乗せられた言葉に、六花は感嘆の溜息がでた。
相手が何であれ、凛に様子見という言葉は無いらしい。

「うん。バイトの時間までここで時間を潰すつもりだから。
 遠坂さんは帰らないの?」

六花の開き直った態度が意外だったのか、凛は微かに顔を歪めた。
事実として、一人暮しで仕送りなど期待できない六花はバイトを余儀なくされている。
今日もスーパーのレジのシフトがあり、学校に残っていられる時間は三十分程度しかない。
だから凛がこのまま粘るなら、六花は調べる事が出来ずに帰る事になってしまう。

「私も少し用事がありまして。家に帰るには中途半端な時間なんですよ」

凛は用事という部分を強調した。
どうやら、相手の事情が何であれ、凛に譲る気は無いらしい。
実際、凛は六花が退魔として異変を調べようとしているのだと察していた。
だが、協力という文字は端から頭になかった。
互いに知らないふりをしているのだから、今関係を抉らせる事はない、というのが凛の正直な感想だ。

「そうなんだ。私はやっぱりもう行くね。
 少し早く行って多めに働けば、お給料も多くなるかもしれないし」

このまま粘れば互いに時間の浪費だと考えたのか、六花は立ちあがった。
そして、冗談めかして作り笑いを浮かべると、凛の返事を待たずに走り出す。
だから、その背中に凛が頭を下げた事を六花は知らなかった。

「さよなら。帰り道は気を付けてね」

「うん、ありがとう。じゃあまた明日」

六花は凛の視線を背中に感じながら、教室を出た。
いつの間にか握っていた掌は汗で濡れていて、そこで初めて六花は自分が緊張していた事に気が付いた。

六花が早足に廊下を歩いていると、赤髪の男とすれ違った。
名前はたしか、衛宮士郎。
友達ではないが、一度だけ話した事がある。
どういった事を話したかも忘れてしまったが、六花を容姿で差別しなかった数少ない男の人なので印象に残っていた。

下駄箱で靴に履き替え、校舎から出ると、既に日は暮れかけていた。
冬は夜が長いから不吉だ。
不吉の象徴とも言うべき月が、もう既に空高く輝いている。
茜色の空に、ぽつんとある銀。
ざわざわと背筋を擽るくすぐ風は、やはり肌寒い。

何となく嫌な気分になり、早足に坂を駆け下りた。

冬木大橋まで辿り着いた頃には空は赤から灰色に変わっていた。
川から吹く強い横風が髪を弄び、歩道一杯に髪が広がる。
端から見たら随分と気味の悪い光景なのではないだろうか。
急いで頭を押えるが、やはり大した効果など望めずに髪は好き勝手遊ばれる。
四苦八苦しながら渡り終えた六花の髪は、人様に見せられないぐらいぐちゃぐちゃになってしまった。
髪が長いのはいろいろ不便だ、と六花は思う。
洗うのだって時間が掛かるし、乾かすのはその倍の時間が必要になる。
風が強い日には特に最悪。
髪が風を受けて、身体が飛ばされそうになり、それを堪えてもぐちゃぐちゃになってしまうのだから救われない。

頭の中で自分の髪に愚痴を言いつつ、歩いていると、スーパーの前に着いていた。
その頃には髪の方も手櫛で何とか元に戻せていた。

「こんにちは」

自動ドアを抜けて、店長に挨拶する。
店長は中背中肉で、少し白髪が混じった穏やかな人だ。
こんな容姿の自分を雇ってくれたという事が余程嬉しかったのか、六花はこの人を全面的に信頼していた。
今日もよろしくねと人の良さそうな笑顔でそう応えると、店長はダンボールを持ち上げた。

ロッカールームで着替えを済ませ、いざレジ打ちだと気合を入れた時、店長が手招きしているのが視界の片隅に入った。

「どうしたんですか?」

「いやね。倉庫の整理を今日中に終わらせたいんだけど、九時から十一時もやってくれるかな?」

店長はすまなそうに切り出してきたが、六花としては願ったりだ。
身体の丈夫でない六花では自給の高い肉体労働ができない為、毎月ぎりぎりの中で生きている。
だから働ける時に少しでも多く働く事が六花の習慣になってしまっていた。
何か忘れているとも思ったが、忘れているのだからそれは些細な事なのだろう。

「いいですよ」

そう応えると、店長の顔がぱっと明るくなった。

「いやーすまないね。君がいてくれると助かるよ」

先にある程度終わらせておくつもりなのか、店長はそのまま倉庫に入っていった。
頭の中でやはり何かが引っかかっているが、どうしても思い出せない。
しかしレジに入り、忙しくなると、六花は悩んだことすら忘れていた。





interlude

それは一瞬の出来事だった。

彼女には主を庇うだけの余裕がなかった。
その中で主を庇ったのだから、己の身が切り裂かれたのは当然の結果だろう。
しかし主には傷一つつけさせなかった。
それを誉められこそすれ、貶される事は無いはずだ。

「―――」

しかし彼女の主は罵倒した。
何故倒れるのかと。何故立ち上がらないのかと。

仮染めの命令権が彼女を縛る。
四肢が己の意思とは無関係に動き、立ちあがろうとする。
だが身体は既に壊れていた。
それでも立ちあがろうと四肢は勝手に動く。

グシャ

だが相手は待ってくれなかった。
敵に背中を向け、己のサーヴァントを罵倒するような無能に用は無いのか、小さな白い少女は潰せと唄った。
主は鈍器に潰され、もはや人の形を保っていない。
言うなれば箱。
あらぬ方向に折れ曲がった手足がまるで測ったかのように四角を模っていた。

「―――」

白い少女は哀れみ、笑う。
主に恵まれなかった彼女に、ほんの僅かな時間を与えると残し、その場を去った。
サーヴァントであろうとも致命的なダメージを受け、彼女が生き残れるはずがないと慢心して。
それに彼女は笑う。
己には主がいるのだと。
だがその数瞬後、彼女は驚愕に声を上げた。

主との繋がりが途切れている。
仮とはいえ、契約をしていた主が消えたからなのか、その理由は彼女にわからない。
しかしこのままでは消えてしまう事が、彼女にもわかった。
己が消えてしまえば、主を守る者がいなくなる。
それだけは避けなければならない。

その時、

「まだ、生きてるよね?」

先の少女より尚白い、白銀の少女が戦場に降り立った。





interlude out

「助かったよ。でも本当に送らなくていいのかい?」

シャッターを閉め、戸締りを確認した店長が心配そうに眉を顰めた。

「大丈夫ですよ。私これでも合気道一段ですから。痴漢なんて一蹴です」

「ははは。でも気をつけて帰ってね」

それでも心配そうにしている店長はやはり良い人だ。

―――夜、危なくなりそうだから

不意にそんな言葉が頭の中を過る。
そして、顔から血の気が引くのがわかった。
残業を頼まれた時に引っかかっていたのはこの事だったのだ。
しかし時間を巻き戻すなんて事、それこそ魔法でも使えない限りできない。

「大丈夫かい?」

暗がりでもわかるほど青ざめてしまったのか、店長が顔を覗き込んでくる。

「大丈夫ですって。それじゃあ月曜日にまた」

店長が後ろから何か言うのを無視し、六花はそのまま駆け足で走り去る。
角を幾つか曲がり、橋まで来た所で一息つき、歩き出した。

風は夕方の激しさが嘘のように、緩やかになっていた。
橋を渡っている間も、髪が少し浮くぐらいで済み、髪を直す必要がなかったほどだ。
緩やかな風が頬を撫でる。
冬でもそれほど寒くない冬木の風は、上気した身体を程よく冷まし、心地よい。

思わず頬が綻んだ時、懐かしい匂いがした。
意志とは関係無く、身体が反射的に駆け出してしまう。
冷静な部分が関わるなと連呼するが、それでも身体は前に進む。
階段を二段飛ばしに駆け下り、橋の下の公園に出ると、一層強い匂いが充満していた。
風が吹いているのに、未だにこれだけの匂いが残っている。
それが、この匂いの元が出来てから少ししか経っていない事を示している。
つまり、その元凶がまだ近くにいるという事だ。

引き帰せ。と冷静な部分が怒鳴る。
しかし、少ししか経っていないなら救えるかもしれない。
そう思う気持が勝り、再度駆け出した。

そして、ここに辿り着いた。

綺麗。
私はそれを見て、不謹慎にもそう思ってしまった。
紫の髪は血に濡れ、艶やかな彼女をより一層艶やかに魅せていた。
臓物をごっそりと抉り取られたその肢体はそれでも呼吸を止めないのか、膨よかな胸がゆっくりと上下している。

「まだ、生きてるよね?」

「ええ」

誰に問うでもない、自分への確認のつもりだった言葉に、返事が返ってきた。
その事に驚き、六花は身を竦ませてしまう。

「失礼。しかし時間が無いのです。私と契約してくれませんか」

この状況下、自分の命が瀕死だというのに、この女性は冷静過ぎる。
やはり彼女は此方側の存在らしい。
契約と言う所から見て、使い魔なのかもしれないが、六花の知識には人型の使い魔などなかった。
単に自分の知識が乏しいだけかもしれないと思う反面、六花はこの女性に危険を感じた。

「契約したらどうなるの?
 私一応だけど魔術の知識あるから、説明は手短でいいよ」

「それは助かります。
 私と契約すれば、聖杯戦争に巻き込まれる事になります。
 ですが、ご安心を。私が貴方を守ります」

異常過ぎる。
彼女の説明を聞き、六花の中で警鐘が鳴った。
それに、この女性は聖杯戦争という物が当たり前であるかのように話している。
しかし六花はそんなものを知らない。
話振りから、そのままの意味で戦争なのだろうと推測し、そもそも戦争というものが何であるかを知らない事に気付いた。
どうやら此方側の事でも、取り分け危険な事に自分は首を突っ込んでしまったようだ。
六花は自分の不運さを呪いたくなった。

だからと言って、このまま立ち去る事も六花の選択肢にはなかった。
なまじ相手が人型なだけに、こうして苦しんでいる姿がより切実に伝わってくる。
終に―と言っても数秒だが―六花は放って置けなくなり、自分の不運さを呪いながら彼女の横に膝をついた。

「はぁ…ほんとついてないなぁ」

親指の先を噛み切り、女性の口元に差し出す。

「私は少し変わった事ができるの。
 血を媒介にして、人に生命力を分け与える事が。
 確か魔力って、生命力から作り出すんでしょ?
 だから舐めて。契約するにしても、まずはあなたを助けないと」

差し出された指に顔を向け、女性は信じられないような表情でそれを見ている。

「いいのですか?」

自分で頼んだくせに、今更何を言うのだろうか。
あまりの低姿勢ぶりに笑ってしまった。

「いいよ。関わった責任ぐらい果たさないと」

女性が静かに指を咥え、血を舐め取る。
瞬時にラインを繋げ、最高出力で生命力を渡す。

「凄いですね。あともう少しで立てそうです」

六花の感応能力は師により徹底的に鍛えられた為、通常の巫淨の物とは色が違う。
普通、感応能力は過剰分の生命力を相手に送るものなのだが、六花のそれは己の意思一つで出力を調整できる。

ちなみに訓練されたからといって、六花は純潔のまま。
契約者がいない状態でどのようにして訓練したかは、六花の苦い思い出なので説明は割愛する。
師が言う、備えあれば憂いなし、が今役に立ったと言えよう。

「もう大丈夫です。ここを離れましょう」

立ちあがった女性のお腹には血の跡こそあるものの、ぽっかりと開いていた穴は無くなっていた。
音も無く立ち上がった彼女は、先まで倒れていた事が嘘のように、確りと立っている。
あれほどの怪我をこの短期間で治せてしまう彼女は、明らかに人ではなかった。

正体は最上位の使い魔。
かといって魔でないのだから、六花にその正体がわかるはずがない。

六花は想像していたよりも女性の身長が高いことに、少しの喜悦を覚えた。
女として長身の六花は、少なからずそれを気にしている。
だから、自分より頭一つ高い女性に、六花が親近感を抱くのは道理である。

「あれ?」

六花は足を前に出し、身体を支えきれずに崩れるように倒れる。
どうやら生命力を渡しすぎたらしく、その状態で動こうとした事により、軽い眩暈に襲われたのだ。
が、身体が傾いた瞬間、女性が瞬時に横に現れ、六花の身体を支えた。

「失礼」

そして、そのまま六花を抱えると、女性は飛ぶように走り始める。
いったいどういう身体の作りをしているのか、重傷の身で人一人抱えているのに、その疾走には澱みが無い。
家々を跳躍だけで飛び越え、さながら流星のように走り続けて行く。

「ありがとう」

「いえ。こちらこそ礼を言いたい」

口数は少ないようだが、悪い人ではなさそうだ。
浮かべる笑顔は、同姓である六花ですら見惚れてしまうほど、澄んでいた。

「そっか。――あっ、あそこの白い建物に向かって」

「了解しました」

と言うより、真面目そうな人だ。
二、三度地面を蹴ったかと思うと、女性がスッと音も無く立ち止まり、遅れて髪が身体を追い越した。

「ここですか?」

貧血にも似た身体の気怠るさに億劫になりながら顔を上げると、霞む視界の中に見慣れたアパートが写り込んだ。

「うん。ここの二階の一番奥」

女性は六花を下ろす事など最初から考慮に入れていないのか、脇に抱えたまま階段を登り始めた。
そして六花の部屋の前まで着くと、割れ物を扱うかのように、丁寧に身体を下ろした。
その一つ一つの動作にはどこか気品があり、もしかしたらどこぞのお嬢様なのかもしれないと漠然と思ったほどだ。

ガチャと安っぽい音を立てて扉が開き、スイッチ一つでワンルームの部屋は十分に明るくなった。

「それで、ちゃんとした説明をしてもらえるんでしょ?」

ベットに倒れ込むと、今にも寝てしまえそうなほど身体は怠さを訴えた。
しかし何であるかわからない人を前にして寝てしまえるほど、六花の神経は図太くない。
六花は気力を振り絞り、身体を起こした。

「はい。今この町では聖杯戦争が起こっています。
 私のクラスはライダー。真名はメデゥーサです」

彼女の確りとした対応に申し訳ないが、六花が理解するには情報が少なすぎる。
バツの悪い気持で、ポリポリと頭をかき、六花は拝むように両手を合わせた。

「ごめん。聖杯戦争の事から説明してもらえるかな?」

「は? ですが先に魔術の知識はあると…」

紫の女性、メデゥーサは端整な唇をへの字に曲げ、少し訝しげな顔をした。

「えっとね、私まともな魔術の知識は無いの。
 だから聖杯戦争がどういう物なのかって事も知らなかったりするんです」

あははと乾いた笑い声を上げる六花を、眼帯越しにメデゥーサが驚いたように見ている。

「では、貴方は聖杯戦争が何であるかを知らずに私を助けてくれたのですか?」

「うーん。あの状況で怪我人を放っておけるほど私には度胸が無かっただけだよ」

「度胸?」

六花の言葉の意味がわからなかったらしく、メデゥーサが微かに首を傾げる。
その動作がこの人には不思議と似合っていて、六花は思わず笑ってしまった。

「そ。悪い事するには度胸が必要でしょ?」

自分の価値観を崩すにはそれなりの度胸が必要になる。
あの時、メデゥーサを助けずにあの場を去れば、六花は日常の産湯につかっていれた事だろう。
しかしその為には、必然この女性を見殺す"勇気"が必要になる。
そしてそんな勇気の無い六花は、此方側に見事巻き込まれてしまったのだ。

「なるほど。どうやら私もそれ程運が悪いわけではないみたいですね」

その真意を六花の表情から悟ったのか、メデゥーサは軽く頷くと、六花の手を取った。

「私は良いマスターに拾われました。マスター、名前を教えてくれませんか?」

そして華のような笑顔を浮かべた。
完璧な美を前にして、六花はしばし言葉を失ってしまった。
惜しいのは、彼女が眼帯で顔の半分を隠してしまっている事だ。
あの眼帯を外し、その瞳を解き放てば、今以上に綺麗な彼女がおがめるだろうに。

それだけの美しさを意識せずに四方に飛ばしているこの女性は、かなりのやり手だ。
もう少しで百合に目覚める所だった六花は、頭を振り、雑念を追い出した。

「私は六花。よろしくメデゥーサさん」

「はい。よろしくお願いします、リッカ。それと、私の事はライダーと呼んでください」

六花が手を握り返すと、ライダーも微かに力を強めた。
出会ったばっかりで、まったくの他人のはずなのに、何故か六花は彼女を信頼できた。
そして、ライダーも同様らしく、力強く握られた手は喜びに溢れていた。

「あれ? そういえば何で私をマスターって呼んだの?」

私が首を傾げると、ライダーも同じように首を傾げた。
端から見たその姿は、実に滑稽なものだった。

「何を言うのですか、マスター。
 あなたは私のマスターなのですから、マスターと呼ぶのは当然の事でしょう」

マスターとは、その意味の通り主人だと考えて良いのだろうか。
混乱する意識の中で、六花はその意味に血の気が引いた。
そうすると、自分とライダーはいつの間にか契約をしていた事になる。
六花の知識では、使い魔との契約は霊的な儀式もしくは体液の交換で行う事になっている。

――あ゛…

「ねぇ。もしかして私の血を飲んだ時に契約したの?」

思い当たる節が一つある六花は、おそるおそる訊いた。

「? それを意図して血をくれたのではないのですか?」

しかしライダーはそれがさも当然であるかのように首を傾げる。
たしかに魔術的な視点で見れば、血を媒介にする事は契約以外ないのだろう。
それを失念していた六花も六花だが、血を飲ませる前に自分の特異性について六花は説明していた。
それを無視して契約してしまったライダーもおっちょこちょいな気もするが、やってしまった事はしょうがない。
だとすると、先に感じた身体の気だるさは自分の操作ミスなのではなく、契約で一気に生命力―この場合魔力の方が適切だが―を吸い取られた結果なのだろう。
自分の不運がここまで連続で重なり、ここまで来ると自分は幸運なのではないか、と六花は肩を落とした。

「はぁ―――聖杯戦争の事話してくれるかな?
 確実に聞いておかないとまずい状況になっちゃったみたいだし」

望んでいないとしても、巻き込まれてしまったら対処しなくてはいけない。
こういう諦めの良さが、自分の利点だと思う。





◇◆◇◆

ギリ…

町が暗いわけではない。
ここにもちゃんと電灯があり、四方を白く照らしている。

ただ、あまりにも深い闇に、光が飲み込まれてしまっているだけ。

その暗がりの中に、天を仰ぐ青年がいた。
彼が見上げるのは黒い壁。
昼間数百の人間で溢れかえるここは、夜に影の王国となる。
その中で尚昏い匂いに青年は顔を歪める。
先の軋みはどうやら彼から洩れたものらしい。

「これは、酷い」

彼はこの地で起きる戦争が何であるかを知っていた。
だからといってコレは許せない。
魔術に詳しいわけではない彼にはコレがどのような効果を持つのかわからない。

「あまりにも魔的だ」

でも、彼にはコレが起こす結果が理解できた。
本能の感じ取る"匂い"がコレの全てを物語っている。

己の中に沸沸と湧き上がる"衝動"を抑え、青年は思案しだした。
即ち、コレを破壊するか、コレの元凶を破壊するか。
前者の場合、その脅威はこの場からすぐに拭い去られる。
しかし元凶が生きている限り、同じ事が起こる事もゼロではない。
後者の場合、同じ事が再び起こる事は無くなる。
しかし警戒されない為にも、コレをこの場に放置する事になる。

数分の沈黙が流れ、大気が静かに震えた。
どうやら青年が動き出したらしい。
音も無く動く足は、壁から遠ざかっていた。
どうやら多少のリスクを背負おうとも、元凶を壊す事を選んだらしい。

青年が突然立ち止まり、ある一点を凝視した。
彼の非凡な聴覚が、微かな爆発音を捉えたのだ。
数瞬の躊躇を経て、彼は静かに首を振った。
間違いなく先の爆発音は聖杯戦争に関連している。
乗り遅れた自分にはサーヴァントがいない以上、慎重に行動する他無い。
彼は自分の好奇心をそう戒め、再び流れるように歩き出した。