重苦しい空気がその場を支配していた。
しっかりと閉ざされた窓越しにさえ、鳥のさえずりが聞こえるほどの静寂の中、その部屋にいる二人の人影は沈黙を守っている。
否、見える人影は一つ。
居るはずのもう一人は、自ら霊体となり、その存在を隠していた。

「リッカ…」

仕度を整えた六花の後ろから、不可視の女性、ライダーは彼女らしかぬ不安げな声を白磁の少女にかけた。
その声が切っ掛けとなったのか、六花が振り返り、ライダーの姿が浮き出てくる。
だが、現われたライダーの顔は声同様、後悔と懺悔に歪んでいた。
どうやらライダーは昨夜の失態を悔やみ、主と顔を合わせる事を拒んでいたらしい。

「大丈夫だよライダー。まだ望みが断たれたわけじゃないんだから」

ライダーを現界させた六花は陰りの無い笑みを浮かべ、心配性のパートナーを嗜めた。
それはまるで母が子をあやすような、そんな穏やかさを醸していた。

泪の跡が残る頬を柔和に緩め、六花は穏やかに笑う。
その心境は如何なる物なのか、おそらく当人である六花にすらわからないだろう。
その笑顔を向けられたライダーは口を噤む事しか許されず、そして目を合わせる事もできずに、俯く。
そんなパートナーの生真面目さに苦笑いを浮かべ、六花はライダーの顔に手を添えた。
そして、力無く項垂れているライダーの顔をゆっくりと労るように持ち上げた。
六花の目は優しさを湛え、傷ついたパートナーをまっすぐに見つめていた。

「そんなに自分を責めないで。志貴ちゃんならきっと生きてる。だって、あの地獄で生き延びたのだから」

優しい、どこまでも優しい声がライダーを暖める。
が、ライダーを言いようもない違和感に包まれた。
六花は先と変わらず、ライダーを前に静かに笑っている。
なのに、何故かライダーには六花が目の前から消えてしまったかのように思えるのだ。

―――ずれて、いる?

莫迦らしい直感としか言えないような言葉が脳裏を駆け巡り、ライダーに微かな恐怖を与える。
ただの勘としか思えないような考えを一笑できず、恐怖を感じているのはどうしてだろうか。
短い付き合いながらも、ライダーは六花の事を理解しているつもりだった。
だのに、六花が六花だと確信が持てない。

今ここにいるのは誰なのか。
間違い無く六花のはずなのに、どこかがずれている。
何も変わらないはずなのに、決定的に何かが違う。
英霊である自分の心が乱れるほどの悪寒に襲われ、ライダーは成す術無く身を震わせた。

「だから大丈夫」

そして、ライダーの眼前にいるのは、やはり六花だった。
ライダーの顎から離した両手を祈るように組み、まるで己に言い聞かせるように呟く少女だけ。
確かめようとしたその時には、既に異常は消えていた。

そうして六花は、閉じていた双眸を開ける。
その目に悲しみなど無かった。
否、負の感情などどこかに消え去り、あるのは希望。

「私たちにはやらなきゃいけない事があるでしょ。
 放課後、学校に来て。一緒に結界を解呪しよう」

その主の強い在り方に、ライダーは魅せられた。
意地を張り、強がるでもなければ、無様に忘れようとするでもなく、ただその可能性を信じ、変わらず過ごす。
その現実逃避と似て非なる在り方は、美しかった。

「はい、了解しました。マスター」

敬愛を込めたライダーの承諾は、六花に確りと届いた。
六花も微笑み、頷き返す。

「それじゃ、言ってくるね」

「はい。それでは後ほど」

見送るライダーを背に、六花はドアを閉めた。
そして、冷たい空気を目一杯吸い込み、頭を冷やす。

「よし」

明瞭になった視界に満足し、六花は歩き出した。

心と身体は違う。
よく言われるように、その差異は確かにある。
心が身体を支配しているからか、それとも心と身体は独立しているからか、どちらかに区切りがついたとて、もう片方にも同じように区切りがつくとは限らない。

具体的に言うならば、六花は心の整理はついた。
しかし、身体は―特に胸の辺りが―苦しくて堪らない。

その疼きにも似た苦痛に堪えるべく、六花は思考に意識を集中させた。

何故志貴が冬木にいるのか。
そして何故、昨夜あそこに志貴がいたのか。
それは巫淨六花としても、この戦いに参加する魔術師としても、考えなければならない事だった。

冬木を訪れた目的が何であるのか、六花は既に幾つかの予想を立てている。
その中でも有力な物は、一つしかない。

だが、と六花は思う。
もしかしたら、志貴は六花を探しに来てくれたのではないだろうか。
いつか師が示唆した通り、その可能性もゼロではない。

この町に来てからわかったことだが、この冬木という土地は色々な所で巫淨の森と似通う部分がある。
例えば、場所は郊外だが、この町には深い森があり、町全体が一つの霊脈になっている。
巫淨の森にもこの土地ほど立派なものではないが、六花の家を中心に霊脈が張り巡らされていた。
冬木と巫淨は、海の有無を除けばほぼ一致している。
そして、何より原因不明の大火災が同じ時期に起きた。
もっとも、巫淨のそれはどこかの混血の仕業らしいが、橙子はその混血の名前を六花に教えてくれていなかった。
曰く、知れば復讐したくなるから。らしい。

冬木の方が一ヶ月程度遅いが、それは微々たるものだろう。
この規模の火災は、公の記録にあるものだけに限定すると、その時期にはここ冬木でしか起こっていない事になっているのだから。

志貴に六花の師ほどの探索能力があれば、この土地を訪れる可能性は高い。
師の言葉の意味が、その事実を知った時、身に沁みた。

思考がだいぶ脇道に逸れた事に気づき、六花は志貴が自分を探しにここに来たかどうかの分析を再開した。
確かに、先の理屈は志貴が冬木に現われた説明としては上出来だろう。
しかし、それでは昨夜の志貴の行動を説明する事ができない。

仮に六花を探しに来たのなら、夜に出歩く可能性も薄く、本人に出会った時、いきなり襲ってくるだろうか。
そして何より、志貴は六花を認識していなかった。

胸に鈍い痛みが走り、何故覚えていていないのかという疑問が涌き出てくる。
首を振り、それを意識から追い出そうと試みるが、どうにもできない自分がいた。
疼く胸を押さえ、気持が落ち着くまで何も考えないようにと静かに目を瞑る。

しかし目を瞑り、暗幕となった瞼に映るのは昨夜の志貴の姿。
もはや人では有り得ない動きでライダーと渡り合い、しかし及ばずライダーに切り裂かれる。

否、及ばずというのは間違いだ。
おそらく、六花が止めていなければ、志貴はライダーを殺していただろう。
ただ、そうなれば志貴もライダーに殺されていただろう…。
つまりは、互角。
英雄となった者と互角だというのだから、志貴の強さは人として異常だ。

だが、それが何だというのだろうか。
死ねば全てが無になる事を知る六花にとって、その悲しすぎる結末を迎えずに済んだ事は、何より幸運に思えた。

だが、自分に出来たのはそれだけだった。
確かにライダーは無傷で済んだ。
しかし、その代わりに志貴が重傷を負ってしまった。
六花が咄嗟に取った行動は、結局大切な人を切り捨てたのだ。

蒼い微光を放つ眼をこちらに向け、膝を付いて荒い息を繰り返す彼が、六花の脳裏に浮かぶ。
その姿はまるで、初めて出会った時の志貴のようだった。
少しくしゃとした柔らかそうな髪も、ぞっとするような剣呑さを醸していた眼も、全てが十年前、志貴と初めて逢った時のまま。

だからなのかもしれない。
ライダーと志貴が対峙し、志貴が呪布を外す瞬間、胸が痛んだのは。

それは志貴を志貴だと確信した瞬間でもあったが、自分との約束を志貴が躊躇いも無く破った瞬間でもあったのだった。

彼に何があったのか、それを六花は何も知らない。
だが、六花の記憶にある志貴は人との約束を簡単に破る人ではなかった。

なにも、そのままでいて欲しいと思っていたわけではない。
十年も経てば、人はそれなりに変わるだろう事を常に覚悟していた。
しかし、これだけは変わって欲しくないと思っていた事が目の前で崩れた時、己の覚悟が如何に曖昧なものだったのかという事を六花は自覚させられた。

人を一途に信じる強さ。
それだけは変わって欲しくないと思っていた。

再度胸を襲った痛みに堪え切れなくなり、六花は思考を強引に切り替えた。
これ以上志貴のことを考えれば、一夜をかけ、やっと整理のついた心が、壊れてしまうだろう事を六花は感じ取っていた。

いつの間にか握っていた手に浮いた汗を制服に擦りつけ、六花は自分の頬を張った。
パチンと小気味の良い音を立て、当たり前に頬が痛む。
心の痛みを身体に置き換えた安直な代償行為でも、今の六花にはそれで十分だった。

少しのきっかけさえあれば、思考は簡単に切り換えられる。
それこそ、師に教えられた魔術師としての在り方。

そして考えるのはもう一つの可能性。
否、初めから答えとわかっていた事。
それを否定したくて、自分を探しに来てくれたのではと愚考し、自ら傷を抉る事になったのだから笑えない。

それは志貴が聖杯戦争に参加する為に、冬木を訪れたという事実。
だから夜に出歩いていた事も、サーヴァントを連れた六花に襲いかかってきた事も、全てが当たり前だった。

志貴は魔術師だ。
数年前、六花は師から、志貴が魔術師に連れられて日本を去った事を教えられていた。
その目的は、六花同様魔術師に成ること。
その"目的"が何であるのかを師に訪ねたら、師は意地悪く笑いながら、本人に直接聞けと言っていた。
だから、志貴が何を目指し魔術師になったのかを六花は知らない。
だが、今は大した問題にならないだろう。
魔術師なら、どんな理由であれ聖杯を求め、この地に来てもおかしくない。
むしろ、この時期に冬木にいる魔術師を他の用事で来たと見なす方が余程不自然だろう。

しかし、何故志貴が聖杯を求めるのか。
頭に浮かんだ当然の疑問を六花は瞬時に切り捨てた。

あらゆる望みを叶えるらしい聖杯。
それを求める理由を詮索するほど、六花は罵迦ではない。

だが、志貴がそんなものを求める事が悲しかった。
六花の知る志貴なら、そんなものを求める前に、自らの力でどうにかしようとするはずだ。
やはり、志貴は変わってしまったのだろうか。

自嘲を洩らし、空を見上げる。
雲が疎らに散らばる空。
晴れにもなれなく、雨も降らせられないその中途半端さが、まるで今の自分のように思えた。

志貴がこの戦争に参加しているという事を知った今、六花は自分がどうすれば良いのかを見失っていた。
戦えば志貴を傷つけ、戦わなければライダーを裏切る事になる。
どちらにしても大切な何かを失うかもしれない。
そう考えるだけで、六花の足は簡単に竦んだ。

何故自分がこんなにも残酷な選択を強いられるのか、六花は嘆く。
それが無意味な行為だとしても、六花は止めるわけにはいかなかった。

自惚れではなく、六花は自分の選択が二人の運命を左右させるだろう事を自覚している。
そして、その選択と向かい合えば、自分は躊躇いもなくどちらかを選ぶ。
自分がそういう人間であることを六花は自覚していた。
現に、昨夜六花は躊躇することなくライダーを助けた。
たまたま・・・・ライダーが志貴を仕留め損なっただけで、あの選択は志貴を生かす為のものではなかった。

だから、六花はその現実から逃げるしかなかった。
今度こそどちらかを失うという予感に、六花が抗えるはずがなかった。

「よっす」

突然肩に置かれた手に、六花は思考の渦から引き戻された。
慌てて振り返ると、驚いたように目を見開いた蒔寺と目が合った。

「どうしたんだ、そんなに慌てて?」

その声に促されるように、六花は自分の状況を確認した。
六花はいつの間に着いたのか、教室の自分の席に座っていた。
おそらく、何をするでもなく呆としていたのだろう。
そして、その姿を見つけた蒔寺がおもしろ半分に声を掛けてきたという所か。

「ううん。何でも無いよ」

いやに冷静な自分に驚きながら、六花は照れ隠しに笑った。
いつもの自分なら、突然後から声を掛けられた時、もう少し慌てふためいてもおかしくない。
なのに、今の自分はいやに冷静だった。

「どうした? 不調なのか、今日」

蒔寺もいつもと違う六花の反応を訝しんだのか、心配そうに眉を顰めた。

「元気だよ。でも、少し寝不足かも」

「なーんだ、いつもに増して反応が鈍いだけか」

反論したくなるような内容だが、蒔寺が自己完結してくれたのは、今の六花にとってありがたい。
自分の中に渦巻く、ドロドロの感情を抑えるのでやっとな六花に、蒔寺を納得させるような言い訳は思いつかなかった。

「そんな不満そうな目で見なさんな。私が悪者みたいじゃないか」

六花の無反応をどう取ったのか、蒔寺は陽気に笑い自分の席に戻って行った。
その蒔寺にしては不完全燃焼な弄りぶりに小首を傾げ、黒板の上に掛かっている時計を見ると、既にHRが始まる一分前になっていた。
改めて自分がどれだけの時間を呆然と過ごしていたのか理解し、気を落ち着かせる為に大きく呼吸を繰り返す。
繰り返す事、八。担任がドアから現れた時、六花の頭は何時になく魔術師然としていた。





◇◆◇◆

夕方、逢魔ヶ刻。
古より人と魔が交じり合うと云われる時刻、六花は一人窓から差し込む鮮やかな赤を眺めていた。
風の関係か、途切れるように耳に届く笑い声は、おそらく校庭で部活動に精を出す生徒の物だろう。
その声色を、目を閉じ、愛しむかのように楽しんでいた。

ふと、首筋を淡く撫でるように教室の空気が揺れる。
閉め切っているはずのそこに、いつの間にか一人の女性が立っていた。

「リッカ。お待たせしました」

如何な訓練を積もうと物理的に不可能な出現。
それを可能にするのは、彼女が人ならざるモノだからだろう。
赤が届かない暗がりに、ライダーは紫を纏い、悠然と立っていた。

「うん。じゃあ行こっか」

突然の声に驚く様子も無く、少女が窓際から立ち上がる。
赤を享けて、浮き彫りになる白い輪郭。
それは、まるで世界から拒絶されたようで、刹那に散り逝く花のようにも思えた。
その姿に何を感じたのか、ライダーは眼帯の奥で、その紫の瞳を揺らす。

「どうしたの?」

気付けば、六花は既に教室のドアを開け、微動だにしないライダーを心配そうに振り返っていた。

「いえ、何でもありません。それでは始めましょう」

「そうだねって言いたいけど、私には結界がどういう仕掛けかわからないから、ライダーに任せるよ」

そう言うと、六花は追いついたライダーに先を譲ろうと立ち止まる。
しかし、良くも悪くも忠実なライダーが主の先を歩こうとするはずもなく、六花の後で背後霊よろしく立ち止まった。

「…」

「…」

無言、そして目も合わせずに佇む二人。
端から見れば締まりの無い情けない光景だが、当の本人達は、意識下で壮絶な闘争を繰り広げていた。
六花は結界の構造をよく知るライダーに指示を仰ごうと、ライダーは主である六花の指示を仰ごうと、どちらも判断を間違えていない事が、一歩も進展しない膠着状態を生み出している。

「…」

「…」

固まること数分、これ以上の無言に堪えられなくなった六花が溜息と共に口を開く。

「はぁ…しょうがないな。で、どうすればいいの?」

「そうですね…この結界は幾つかの起点を置く事で安定させています。
 ですから、その起点を廻り、一つずつ解呪していくのが最も効率的な手段だと考えます」

まるで先までの水面下の論争が無かったかのように、ライダーは六花の問いに澱み無く答える。
六花は不満そうに目を細めるも、特に何をするでもなくライダーの説明に頷いた。

「ふーん。じゃあ早速やろう。初めは?」

「まだ一般人が残っていますので、校舎内にあるものから順に廻りましょう。まずは…」





◇◆◇◆

志貴はぼんやりと山の間に沈んでいく日を眺めていた。
そして思う。
昨夜出会った少女でもなく、眠り続ける少女でもなく、志貴の原始たる少女の事を。

赫い月と雪の花。
志貴の持つ唯一の思い出にして、禁忌としてきた記憶。
先生に道を教えられ、過去ではなく未来を見ることを知ったあの時以来、一度も考えたことの無かった黒と赤と白だけの世界。
なのに、今志貴の中には月花が鮮明に蘇っていた。

―――それは果たして、この夕焼けが真っ赤だからだろうか、それとも…

そして、昨夜の少女を思い浮かべる。
月の下、闇を飲み込まんばかりの白を纏った少女。
包帯を巻き、幾数にも隠した目を細め、志貴は微笑む。
こんな時に、志貴は自分にこんな感情が芽生えるとは思いもしなかった。

ただ、会いたい。
自分と関わりがあるのかを確かめる為でもなく、サーヴァントを奪う為でもなく、ただ、会いたい。
志貴は昨夜刻まれた十字の傷をなぞり、唇を噛んだ。

「何を莫迦な事を」

何が何でも勝たなければならない戦争の最中、感傷に浸る己の脆弱な心を戒める。
そう、自分は成し遂げなければならない事がある。
その為に、もう一度あの少女に会わなければならない。
それは己の欲を満たす為ではなく、己の罪を償う為に。
志貴は再度心にそれを刻み、落ちる夕日に是非を問う。

そして、魔を混じらせた赤は、一際強い輝きを残し、是と答えた。





◇◆◇◆

学園の敷地内において、最も解呪が困難な場所にある弓道場。
その理由は単純で、それが校門のすぐ脇にあるからだ。
だが、部活が終了し、部員が帰宅の路についてから一時間は優に経った今、人影どころか、その残滓さえ消え失せていた。
その暗闇の中を二つの人影が、片方はこそこそと、もう片方は優美に移動していた。

「ここでいいの?」

「はい」

二つの人影が林に面する壁の前で止まる。
外灯の届かない暗闇の中、ライダーが壁に手を当てると、そこに不思議な模様のような文字が浮き上がった。
魔方陣というよりも、何かの目を嫌悪を交えて描けばこうなるだろう模様だ。

「…」

ライダーが小声で何事か呟くと、毒々しく血に似た輝きを放っていたそれが、煙を立てて薄れて行く。

「ここは終わりました。あとは屋上にある起点で最後です」

「ふう。長かったね」

妨害も無くここまで来れた安堵に、六花が額の汗を拭うふりをする。
ライダーも心做しか嬉しそうに頬を緩めていた。

「はい。お疲れさまです」

「ううん。私は何もやってないよ。ライダーこそお疲れさま」

「いえ、リッカはしっかりと自分の仕事をしてくれました」

ライダーは笑みを浮かべたまま、六花の頬に触れる。
今が真面目な時で、ライダーにそういう気が無いとわかっていながら、六花はその艶やかな表情に赤面した。
まるで接吻をするかのように、ライダーは六花の顎を引き寄せる。

「貴方は私を赦してくれました。それは私には出来ず、してはならない事ですから」

そして、浮かべる笑みを一層深めた。
それに釣られるように六花もライダーの頬に手を添える。

「そっか。なら、嬉しいよ。ライダーの為に何かを出来たんだから」

六花はライダーの艶やかさとはまた違う、嬉しさをそのまま外に出したかのような晴れやかな笑顔で頷いた。

「では行きましょう」

六花に頷き返すと、ライダーは静かに六花の頬から手をすべり落とした。
そして、自分たちが今どういう格好で話していたかを自覚した六花が悶えているのを無視して、周囲に視線を奔らせる。
何の気配も無い事を確認して、ライダーは安堵の溜息を洩らした。

ライダーは六花と話している最中、不覚にも周囲への警戒を解いてしまっていた。
その原因は彼女自身にもわかっているが、だからこそ己を戒める。
六花を相手に無防備になりすぎる余り、周囲にまで無防備になってしまっては、自分がいる意味が無い。
六花といると、サーヴァントおのれはマスターを守る為にいるという事を忘れそうになる。
もう一度深く呼吸をして、ライダーは平静を取り戻した。

「えっと…いこっか?」

それとほぼ同時に、羞恥の泥沼から這い出てきた六花が、それでも赤面しながらか細い声をライダーにかけた。

ライダーは無言で頷き、六花の後を歩く。
こそこそと歩く六花だが、白銀に輝く髪は遠目からでも目立ち、仮に人が居たとしたら、既に見つかっているだろう。
それに気付かず、腰を屈めて歩く六花をライダーは微笑ましく見ていた。

「そう言えばさ…ライダーはどうして聖杯が欲しいの?」

校舎の中に入り、幾分か余裕が出来たのか、六花はライダーを振り返りながら呟いた。

ライダーは突然の質問に形の良い眉を顰める。
六花の質問の意図がわからないといった風だが、しばらくの硬直の後、ライダーは足を止めて考え込んだ。
ここまで解呪を進めた余裕からか、六花も急かすつもりは無いらしく、壁に身体を預け、呆と闇を眺めている。

「一昨夜説明した通り、聖杯戦争には聖杯を求める英霊がサーヴァントとして召還に応じます。
 ですが、そのプロセスに"触媒による召還"というものがある以上、必ずしも聖杯を求める英霊が召還されるわけではありません。
 私はその例外の一人です。
 加えて言うのなら、私は触媒も無しに召還されました。
 おそらくは、前マスターと波長があったからか、何らかの因果によるものでしょう。
 ですから、私には聖杯で成したい事も、この戦争で成したい事もありません」

その言葉の意味する所を正確に捉えた六花は、驚きに目を丸くした。
そして、壁から飛び跳ねるように離れると、ライダーの手を握り、目を輝かせながら問いかける。

「じゃあ、ライダーにはしたい事が無いってこと?」

「そうです」

戸惑いも無く頷くライダーを見て、六花はその言葉に嘘が無いと理解し、嬉しさに心が震えた。
ライダーが聖杯を求めないなら、六花は志貴もライダーも失わない選択肢を得る事ができる。
あまりの幸運に、顔がにやけるのを止められない。
聖杯を求めるはずのサーヴァントが、それを求めないと言うのだから想像だにしていなかった。
しかし、六花はその説明に引っかかるものを感じた。
それは矛盾と呼ぶにはあまりにも些細な違和感。
ライダー自身でさえ、見逃していそうなその些事が、何故か六花には気になった。

「でもさ、私と契約したいって言った時、ライダーはどうしてこっちに残る事を選んだの?」

ライダーの顔が驚愕で歪む。
その表情を見て、六花は触れてはいけない何かを自分は踏み付けてしまった事に気付いた。

「それは…」

ライダーは言うべきか、否か、判断できずに言葉が止まる。
ライダーにとって、六花は信頼に足るマスターだ。
それこそ、命に代えても惜しくないほどに好意を持っている。
ならば話すべきなのに、何故自分は戸惑うのか。
ライダーは己が話さない事よりも、迷う事が不思議だった。

「あ、あのね、さっきの質問はライダーが邪魔だっていうわけじゃないんだよ。私にとってライダーは大切な人だからね」

六花の慌てた声に、先の言葉を思い出す。
確かに文字面だけを見れば、六花がライダーを邪険しているようにも思える。
しかし、一重にライダーがそう思わなかったのは、六花がそう思うはずが無いという確かな信頼があった為だった。

「わかっていますよ」

知らず緩んだ口元から洩れた、己らしかぬ穏やかな言葉に、ライダーはそうかと頷いた。
迷うだの迷わないだの、検討違いの事を考えていた自分が情けない。
話したいから話す。
ライダーと六花の関係に、それ以上の理由が必要なのだろうか。

「守りたいものを守る為。
 それが、私がこちらに残る事を選んだ理由であり、リッカに助けを求めた理由です。
 リッカが許してくれるのなら、私は彼女を助ける為に戦いたい」

ライダーのいつにない熱の籠もった言葉に、六花は驚き喜んだ。
そして、迷うはずのない応えを返す。

「うん、私も協力するよ」

始めて本心を語ってくれたパートナーに、最高の笑みと共に手を差し伸べる。
その手を至宝を扱うがごとく慎重さで、ライダーが握り返した。

「はい」

互いに赤面し、どちらからという事もなく声を上げて笑い出す。
この時始めて、二人は本当のパートナーになった。

「ですが、今は結界の解呪を優先しましょう。
 月が出てきました。悪い予感がします」

ライダーは窓越しの空を眺め、そこに雲が消え、月が輝いているのを見つけた。
彼女の知る空よりも、現代の空は明るく、星も月もその輝きを幾分か失っていた。
なのに、今夜の月は猛禽の目のように、細くぎらついていた。

神代に生きたライダーにとって、月は不吉を映す鏡であり、死の顕現であった。
その月が異様に輝く様を見て、不安を覚えないはずがない。

「少し急ぎましょう」

変わらずのんびりと歩く六花を急き立て、ライダーは屋上へと続く階段を上る。
そうして、息を切らすことなく薄暗い闇に包まれたドアの前についた。
いつの間にかライダーは六花の前を歩いていたらしく、横にその姿は無かった。
振り返り後を見てみると、肩で息をする六花が一つ下の階に立っていた。

「ライダー速すぎ。二段飛ばしで私の一歩と同じ速さなんて、ずるい」

ようやく追いついた六花はライダーに軽口を叩き、ドアの取っ手を握った。

ギッと錆びたドアがゆっくりと開き、昏い空が視界を覆う。
その中で一つ、夜に溶け込むように、しかしはっきりとした輪郭を保つ黒が、屋上の真中に佇んでいた。

「良い夜だね」

果たして、それは誰に向けた言葉なのだろうか。
包帯に覆われ、見えるはずのない双眸を空に向け、ため息のように志貴は呟いた。

「そうだね、志貴ちゃん。出逢いにはピッタリな夜だよ」

微かに身体を落とすライダーを手で制し、六花は一歩前に、志貴と同じ空の下に進み出た。
六花の靴が砂を噛む音に応えるように、志貴は腰に差した刀を抜刀した。
鈴。と、鞘と刀身が響き合う。

「大丈夫だよ。敵意は無いし、あったとしても、この距離なら彼女の方が早い」

志貴は仰いでいた顔をゆっくりと戻し、ほんの数メートルを挟んで向き合う純白の少女に視線を移した。
その姿を視界に入れるだけで、志貴の脳髄は千切れてしまいそうなほど痛んだ。
まるで魔眼を開いた時のような、そんな感覚に志貴は呻いた。
そして、理由も無くこの少女に会いたいと願っていた自分が、どうしてそう感じていたのかを理解した。

それは人が故郷を想う気持となんら変わらない、郷愁の念。

その想いに、志貴の意志がぐらりと揺らぐ。
本当にこれしか道は無いのか、そういう、無駄な考えが頭に浮かぶ。
この少女を殺してまで、掴む何かに、果たして意味はあるのだろうか、と。

「俺は子供の頃、十歳ぐらいかな、それ以前の記憶を無くしてる」

そうして、堰を切った思考は、言葉として外に出ていた。

「そうなんだ。でも、だからって私の事まで忘れるなんて酷いよ」

突然の言葉。
だのに六花は、前から知っていたかのように、何でもないこと事かのように、柔和に微笑む。
その笑顔に何を見たのか、志貴は口元を歪めた。

「そうだね。俺もそう思う。けど、知らないものは知らないんだ」

「どうすれば思い出してくれる? 私にできることなら何だってするよ」

あまりにも無防備な言葉。
それを前に、志貴は歓喜し、苦悶した。
この少女の首を飛ばし、サーヴァントを奪おうとする狂気が嗤い。
無条件に己を信じる少女を自分は裏切るのかと嘆いた。

「本当に、いいのか?」

志貴自身ですら、己がどうすれば良いのかわからない。
何に許可を求めているのか、それすらもわからずに問いかけた。

「うん。本当にいいよ」

その問いに、戸惑うことなく少女は頷いた。
中味のない許可、それはつまり、何をしても許されるという事。
子供のような屁理屈に、自己嫌悪で心が軋む。
だが、それが記憶を取り戻すという名目の上で成り立つのなら、おそらく少女は犯されても抵抗をしないだろう。

―――そんな人を裏切るのか?

志貴は頭を振り、刀を鞘へと納めた。
そして二歩、六花に歩み寄る。

「リッカ」

「二人で話したいの。だから、ライダーは結界の処理をして来て」

六花は再度自分の前に出ようとしたライダーを制し、どこかへ行けと直に言う。
その有無を言わせない声に、ライダーは反論することさえ忘れ、呆然と立ち尽くす。

「お願い、ライダー」

強い、しかしどこか懇願するかのような主の呟きに抗えるはずもなく、ライダーは六花の側を離れた。

「マスターに何かするのなら、今度こそ必ず、私は貴方を殺します」

志貴の横を横切る際、ライダーは六花に聞こえぬよう注意を払い、脅しかけた。
こんな小手先が通じそうもない相手でも、それをせずにはいられなかったのだ。

そんなライダーの心情を見透かしたかのように、志貴は小さく笑い、大丈夫と呟いた。
そして、更に六花に歩み寄り、遂に手を伸ばせば触れられる距離にまで近づいた。

「正直、俺には君が誰だかわからない。
 けど、君を見ていると、懐かしいと思うんだ。
 これっぽっちも君の記憶が無いのに、それでも懐かしいと思えるんだ」

それだけが事実。
それ以上でも以下でもない想い。

「俺は君を殺して、サーヴァントを奪おうと考えていた。
 その為にここに来たのに、聖杯を得る為だけにここにいるのに。
 ―――ねぇ、君は、だれ?」

六花の肩が跳ねる。
知らないと、そう言われて尚、どこかで覚えてくれているのではと考えていた六花に、その言葉はあまりにも鋭利だった。
だが、それを耐え、零れそうになる泪を押し留め、六花は志貴の見えない目を見続けた。
だが、悲しみに揺れる身体を抱き締める姿に、か弱さなど微塵もなかった。
六花は悲しみに耐えるのではなく、それを押し潰す為に、己の身体を抱き、その肉に爪を立てていたのだ。
身体の震えが止まり、六花は目を瞑り、静かに、大きく息を吸い込む。
そして、覚悟と共に目を開き、志貴の胸の傷に手を触れた。

「私は巫淨六花。貴方、七夜志貴の許嫁です。
 それだけが私と貴方を繋ぐ絆。
 けど、私にとっては掛け替えのない大切な恩愛。
 貴方がわからないとしても、私には貴方がわかる。
 そして、貴方が私に何かを感じてくれるなら、それだけで私は貴方を迎え入れられる。
 貴方が聖杯を求めるのなら、私は全てを以って、貴方に尽くします。
 もし、貴方がこの言葉を信じられないと言うのなら、どうかこの場で殺して欲しい」

志貴の胸に当てた手に、もう片方、自分の胸に置いていた手を重ねる。
そして、瞑っていた時すら逸らさなかった双眸を落とし、祈るように頭を下げた。

その姿を目前にして、志貴は動揺を隠せず、足元がぐらついた。
自分が考えもしなかった、協力という選択肢。
信用できないなら殺されても構わないという言葉。
その真摯な想いを前に、足を引く事がどれほど罪深いかを悟った志貴は、必死の思いで踏ん張った。
混乱する頭で考えられる事は少なく、そして思考はいつにも増して遅い。
まるで他人の脳を借りて思考しているかのような不憫さに、志貴の混乱は肥大こそすれ、減少することは無かった。
加えて、女の身体に触れる事など戦闘の中―それも敵として対峙した相手―でしか無かった志貴は、胸に置かれた手にどぎまぎし、正常な判断力を失いつつある。
ほんの数瞬前、この少女を殺し、サーヴァントを手に入れようとしていた志貴は、既にそこにいなかった。
そこにいるのは、無知で、世間知らずな、魔術師という言葉で身を固めていない、ありのままの志貴だった。

「えっと、その、あの…」

志貴の洩らした声に反応し、六花はゆっくりと顔を上げた。
その目と見つめ合い、自分が何も考えていない事を思い出した志貴は、どう続けたら良いのかわからず、黙る。
それをどう取ったのか、六花は静かに頷き、再び目を閉じた。

「どうぞ、殺してください」

その言葉に迷いは無かった。
その光景を見て、ようやく志貴は目の前の少女の覚悟の深さを知る。
それを前に、色事で動揺し、ただ慌てふためいていた自分は、なんと幼いことか。
志貴は刀を抜き、刀を反転させる。
抜き身の刀身を手で掴むと、柄を六花の前に差し出した。

「ごめん、違うんだ。
 俺は馬鹿だった。君を殺せるはずがなかったんだ。だって、俺は君を信じられる。
 君の事は何一つわからないけど、それでもいいなら俺は君の力を借りたい。
 この言葉を信じられないなら、この刀で俺を殺してくれ」

顔を上げた六花の目前に、無骨な柄が差し出されていた。
その刀身を持つ志貴は、まっすぐに、包帯越しにすらわかるほど、愚直に六花を見つめ続けていた。
その姿は、六花の記憶にある志貴のまま。
彼は人を一途に信じる強さを失ってなどいなかったのだ。

「志貴ちゃんの言葉が嘘のはずなんて無いよ。
 昔から、志貴ちゃんは真面目に、一生懸命相手に気持を伝えようとしてたもんね。
 だから、私も貴方を信じられる。ありがとう、志貴ちゃん」

その柄を優しく押し返し、六花は志貴の頬に手を添えた。
志貴は六花の突然の行動に、押し返された刀を納めることさえ忘れ、呆然と六花の目を見つめている。
そして、六花は目を閉じ、志貴の唇を引き寄せる。

「ゴホン」

横からの空咳に、六花は飛ぶように退いた。
そして、甘い空気をぶち壊しにした犯人、ライダーをじとりと見つめる。
誰が見ても怨嗟を乗せているとわかる禍った視線にライダーは背を向け、志貴と六花の間に立つ。

「本当に宜しいのですか? この男が貴方を襲わないと断定できないのですよ」

静かな、最後の忠告。
ライダーは六花に、本当にその判断が正しいのか、六花自身に確かめる機会を与えた。
六花は真面目な顔つきに戻ると、ライダーの正面に立った。

「志貴ちゃんに聖杯が必要で、私たちには要らないから、それなら必要な人にその権利を上げてもいいんじゃないかな?
 私は志貴ちゃんもライダーも信じてる。そして志貴ちゃんは私を信じると言ってくれた。
 あとは、ライダーと志貴ちゃんが手を取り合ってくれれば、私たちは仲間になれるんだよ」

ライダーはその言葉に、六花の是を知ると、頬を緩め、ゆっくりと身体を反転させた。
視界に現われた志貴は何を思っているのか、六花とライダーを惚けたように眺めていた。

「サーヴァント、ライダー。
 マスターが貴方に力を貸すと言うのなら、私は貴方を仲間と認め、我が手綱を預けましょう」

ライダーが頭を下げ、それに志貴も応える。
顔を上げた両者の顔は、少なからず笑みを浮かべていた。

「俺は七夜志貴。これからよろしく」

志貴がライダーの前に手を差し伸べる。
承知とばかりに、ライダーはその手を取り、力強く握手を交わした。

「よし、これで私たちは仲間だね。
 これから三人でがんばって、絶対生き残ろうね」

その光景を嬉しそうに眺めていた六花が、二人の手を両手で包みこんだ。
六花の決意を表すかのように、三人を繋ぐ手が、固く握られる。
最後に、気合いを入れるように沈ませ、その手は解かれた。

「とりあえず俺の泊まってるホテルに行かないか? これからの方針は早めに決めた方がいいと思うんだ」

「そうですね。私も同意見です」

二人が六花の方を見ると、六花は苦笑いを浮かべ、顔の前で手をパタパタさせた。

「私そういうのわからないから、二人に任せるよ」

志貴は頷くと、周囲を見渡してから歩き出した。
その後に六花が続き、六花の背を守るようにライダーが付き添い歩く。
三人で階段を下りているはずなのに、響く足音は一つだけ。
志貴はどう歩いているのか、音はおろか、気配すら感じられず、ライダーに至っては姿が見えない。
そんな非常識な二人に囲まれ、六花は自分が劣っているという事実に気付いてしまった。
ライダーは役に立っていると言ってくれたが、今になって考えるとそれは気休めだったのではないだろうか。
自分はライダーに魔力を供給するだけで、戦闘に参加する事はできない。
そればかりか、仮に戦闘に巻き込まれた場合、間違いなく足を引っ張る存在だ。

―――だからといって、今更か…

自分の思考の矛盾に気付き、六花は思考を放棄した。
六花は問題点を分析するだけで、その解決法を模索しようとしていない。
何を考えようと気分を悪くするだけで、何の改善も無い思考に、時間を費やす価値など無いのだ。
それなら、自分がどれだけ劣っているかを正確に把握し、戦闘に巻き込まれないように注意する方が余程ましだ。

「志貴ちゃんって、今まで何をしてたの?」

思考を転換する為、六花は志貴に話をふった。
自分一人で思考を切り替えようとしても、結局は泥沼に嵌るだろうと思ったのだ。
それに、せっかく三人で歩いているのに、無言で過ごすのはもったいない気がする。

「ん? えっと、うーん…話さなきゃ駄目?」

だというのに、志貴は苦笑いを洩らし、その話題を回避しようとした。
それが気に食わなく、六花は無言で志貴の背中を睨み付けた。
その気配を察したのか、観念したように志貴はため息を付いた。

「ここ一、二年の話は勘弁してもらえないかな。それでいいなら話すよ」

「うん。今はそれで許してあげる。
 私も志貴ちゃんの幼い頃の話から聞きたかったからね」

態度を一変し、満面の笑みで六花は志貴の横に並んだ。
せっかく話をするのに、志貴の表情を伺えないのは、六花にとってとても勿体ない事だった。
さりげなく横を見ると、困ったような、笑うのを我慢しているような顔をした志貴が、ポリポリと頬をかいていた。

「でも、俺の小さい頃の話なんて面白くないものばかりだと思うけどな。
 先生に連れられてイギリスに行って、そこで魔術の修行してただけだからさ」

「先生? 師匠って事?」

「そう言われれば、先生ってそういう意味でもあったのかな。
 でも、その時は何となく偉そうだったから、あだ名みたいな感覚でそう呼ぶようにしたんだ」

志貴はその時を思い出したのか、頬を緩める。
そんな志貴を見ていた六花は、嬉しさと寂しさに挟まれ、何とも言い難い感情を胸に抱いた。
志貴がその先生という人に救われた事が嬉しく、その場に自分がいられなかった事が寂しい。
自分の知らない人をこんな穏やかな顔で思い出されて、素直に喜べるほど六花は大人ではない。
それでも、志貴の思い出を傷つけたくない思いから、六花は不満を口にせず、心に留めた。
自分の嫉妬染みた下らない言葉で、志貴の表情を曇らせる事などできるはずがなかった。

「その先生って人、いい人なんだ」

「うん。先生からは魔術以外にも大切な事をたくさん学んだ」

「いいなぁ。私の師匠なんて魔術すらまともに教えてくれなかったよ」

胸が痛むのを無視し、六花は笑う。
志貴にとって、先まで赤の他人だった自分と、人生の師であるその人、どちらが大切かは明らかだ。
だが、羨ましかった。
自分の知らない志貴を知り、志貴を導いてきたその人がどうしようもなく輝いて見える。
それはきっと偶像崇拝のように、自分によって誇大化されたイメージなのだろう。
そうとわかっていながら、それでも六花はそのイメージを振り払えなかった。

「六花も大変だったんだね。って呼び捨てでいいかな?」

志貴はそんな六花の葛藤に気付くはずもなく、六花が魔術を習っていたという事実に今更ながら驚いていた。
サーヴァントを連れている時点で気付いて当たり前のそれに、何故志貴は気づけなかったのか。
それはおそらく、六花があまりにも魔術師然としていなく、尚かつ魔力を全く感じなかったからだろう。
魔力を隠し通せるほど優秀なのか、高価な魔力殺しを付けているのか、どちらにしてもこの少女が魔術に染まっていない事が、志貴には何故か嬉しかった。

「うん。そう呼んでくれた方が嬉しいよ」

六花は複雑な心境のまま、志貴の言葉に頷いた。
名前で呼んでくれるのは素直に嬉しい。
だが、何故かそういう、女性の扱いに慣れているような雰囲気を感じる。
鬩ぎ合いの続いていた心中が、更に複雑化し、既に混沌と称しても不思議で無いほど把握できなくなった。
六花は把握と整理を早々に諦め、思考を打ち切る。
無駄なことを考えないようにと、志貴に話しかけたはずが、いつの間にか無駄だらけの思考に陥っていた。
どうやら六花には答えのでない問い―それも激しくマイナス方向―を考える癖があるらしい。

自分の後ろ向き加減に呆れつつ、それなら今を楽しもうと志貴の方を見る。
志貴は上機嫌な様子で、歩いていた。
その理由がなんであれ、自分といて笑っていてくれる事が、やはり六花にはとても嬉しかった。
そう、自分は志貴といれるだけで満足なのだ。
だから、それ以上の思考は要らない。

「なら、よかった。
 でも、六花の師匠って、俺の先生に似ている気がする。
 俺の先生も魔術をまともに教えてくれなかったしさ」

「じゃあ志貴ちゃんも魔術師もどきなの?」

「魔術師もどき?」

「うん。私は師匠にそう呼ばれてた。
 才能が無いくせに、中途半端に魔術が使えるかららしいよ」

「えっと、それは…馬鹿にされてたんじゃないの?
 俺は魔術にはオンリーワンの方が大事だから気を落とすなって言われてた」

「…それも馬鹿にされてたんじゃないかな?」

「…」

「…ごめん。男の子だもんね。プライドあるもんね」

志貴が無言で肩を落とすのを見て、六花はどうしようもなく自分が浮かれてしまうのを感じていた。
いつかこうして志貴と馬鹿な話で盛り上がれたら、とこの十年常に思っていた。
それが今、ようやく叶ったのだ。
嬉しさに堪え切れなくなり、志貴の腕に飛びついた。

「わっ! どうしたんだ?」

ぶら下がるように抱きついている為、六花には志貴の表情を確認することはできなかった。
だが、それでも狼狽え、どうしたらいいのかわからず、志貴が左右に忙しなく目を動かしているのがわかった。

「リッカ、もうそろそろ新都に着きます。目立つ行動は避けてください」

現界したライダーが、この状況にまったく動じる事無く、淡々と六花に声をかけた。
良い所をまたもや邪魔され、六花はライダーを睨む。
しかし、十分に楽しんだのか、それ以上は反発しようとせず、おとなしく志貴の腕から離れた。
腕を解放された志貴はまだ赤い顔をそっぽに向け、我関せずとばかりに歩いている。
唯一積極的に話そうとする六花が黙り、再び三人の中に沈黙が生まれる。
そうすると自然、六花はまるで一人で歩いているような錯覚に陥り、志貴とライダーが本当に一緒にいるのかを何度も確認しながら橋を渡った。
橋を渡り終えた時、遂に堪えられなくなったのか、六花はライダーに心中で謝りつつ、志貴に話しかけた。

「志貴ちゃんのホテルってどこなの?」

「えっと、駅前の一番大きなビルの横のやつなんだけど、名前は忘れた」

「…あ、あれね。えっと、名前は何ていったかなぁ」

六花が指さす先に、まるで黒い影が立ち上がったようなビルの群の中、一つだけぽつぽつとだが、明かりを灯すビルがある。
どうやらそれが志貴の泊まるホテルらしい。
志貴は六花の指すホテルを見て頷き、確かビジネスホテルだったと付け足した。
ホテルに着き、簡素な造りのロビーを抜けると、三人はエレベーターで八階に上った。

「ふー。疲れたー」

志貴の部屋に入ると、六花はベットに寝転がった。
志貴はそれに笑いながら、冷蔵庫から飲料水のペットボトルを三つ取り出す。
どうやら買い置きをしていたらしく、冷蔵庫にはその他にも食料で溢れかえっている。

「お疲れさま、六花。ライダーも飲むだろ?」

六花にペットボトルを放り、姿の見えないライダーに向け、ペットボトルを差し出す。
嫌がらせなのか、最初からそこにいたのか、志貴が差し出した方向とは正反対の場所に、ライダーは現界した。
志貴は慌てて身体を反転させ、ライダーにペットボトルを差し出す。

「いえ、結構です。
 サーヴァントである私は、水分を補給する必要がありません」

ライダーはペットボトルを手の平で押し戻し、頭を下げる。
志貴は拗ねたようにライダーを見たが、強要することでもないと思ったのか、冷蔵庫にペットボトルを戻した。

「欲しかったら勝手に飲んでいいからな。
 さてと、じゃあ早速これからどうするかを決めよう。
 と言うよりも、俺がさっき考えた案を聞いてくれ」

志貴はそう言うと、ペットボトルの水を飲み、椅子に座った。
ベットに寝ていた六花が身体を起こし、それを待っていたかのように志貴が再び口を開いた。

「かなり大雑把なんだけど、俺がライダーのマスターになって動くのが一番いいと思うんだ」

「どういう事?」

「今、六花とライダーは契約してるだろ?
 でも、いざ戦闘になった時、六花がどれぐらい動けるかわからないけど、俺の方が動けると思う。
 だったら、見せかけ・・・・のマスターを俺にした方が、俺たちにとって有利に事が運べるんじゃないかな」

「なるほど、つまりは私とリッカの契約はそのままに、私と貴方でこの戦争に参加しようという事ですね。
 たしかに、それならリッカの安全も保障できます」

「私もその案でいいよ思うよ。留守番は寂しいけど、しょうがないもんね」

「よかった。ならそれで決まりだ。
 それと、いくら見せかけをそうしても、キャスターのサーヴァントなら見破るかもしれない。
 だから、なるべく拠点は一つに絞りたいんだ。
 俺が六花の家にお世話になる事ってできるかな?」

「うん。それは大丈夫だよ。
 私一人暮らしだし、家も三人で住むには十分だから」

「じゃあ、早い内に行こう。
 この時間帯ならまだ人がいるし、接触でもしない限り他の組に見つかる可能性も低いはずだ」

志貴はペットボトルを傾け、中を一気に空にした。
そして、部屋の隅にあるバックを手に取ると、冷蔵庫の中味をその中に入れ始めた。
その間、よくよく考えれば志貴と同棲する事になったと気付いた六花は、あられもない妄想で心を満たし、頬を緩み切らせていた。

「俺の準備は出来たけど、まだ疲れてる?
 疲れてるなら、もう少し休憩してから行くけど」

支度を終えた志貴は、ベットから降りようとしない六花の顔を覗き込みながら話しかけた。

「っ大丈夫。元気だよ」

近すぎる志貴の顔に赤面し、六花は跳ね起きた。
勢い良く上げられた六花の頭を難なく躱し、志貴は部屋の点検を始めた。
そして、点検が終わり、志貴は置いてあったバックを担ぎ、立ち上がった六花に頬をかきながら振り返った。

「お世話になります」

「うん」





◇◆◇◆

薄暗い地下室。
照明器具が皆無であり、光を取り込む窓すら無いこの部屋は、その存在同様闇に埋もれることが正しい在り方だ。
だが、その部屋は薄暗かった。
つまりそれは、その部屋同様、何者かが闇から引きずり出されたという事だ。

クチュリ

卑猥な音が部屋を満たす。
教育という名の調教。調教という名の蹂躙。
それを受ける少女が、美しい裸体を惜しげもなく晒し、部屋の中央に横たわる。
否、美しいと呼ぶには少女は艶やかに過ぎる。
身体を這う虫を受け入れ、少女は快楽に溺れる雌と化しているのだから。
荒い息づかいも、苦痛を耐えろものではなく、快楽に喘ぐもの。
少女は救いようもなく、快楽に溺れきっていた。

「―――」

一際高い叫びを上げ、少女は身体を震わせる。
それを濁った二つの目が冷ややかに見ていた。
しかし、その口元は酷く歪んでいる。

「これは予想以上じゃの」

しわがれた声が呟くように洩れる。
その色は歓喜。想像だにしていなかった出来事に、翁は笑いを止められずにいた。

「難儀じゃな。手駒を早々に失ったというのに」

響く絶叫。
少女が痛みに喘ぐ。
裡から身を食い破られる感触に、気を狂わせる事さえできず、叫ぶ。

「これの出来は最高じゃ」

翁は嗄れた声で笑い、杖を地面に叩き付けた。
それを合図に、少女にまとわり付いていた虫が波が引くように消えていく。
それを見届けた翁は、少女の事など見えていないかのように階段を上っていった。

「―――」

残された少女は荒い呼吸を続けながら、掠れた声で小さく呟いた。
せんぱい、と。










あとがき
ども、Dのちゃぶ台です。
早く更新すると言っておきながら、結構時間が経ってしまいました。すみません。
言い訳としては、パソコンのハードが壊れ、修復不可能になってしまいました。
今は、とっておいたノーパソ君を使っています。
お陰で、今までの努力の結晶が消え、三話を書き直す事になり、インターネットに繋げないという状態です。
この更新も兄弟のパソコンを借り、やっとこさしています。

これからも、しばらくはこういう状態なので、いままで以上に更新が遅れてしまうと思います。
ですが、頑張って更新しようと思っているので、どうかよろしくお願いします。

感想下さい。それだけで頑張れる気がするので。
質問とかもしていただけると助かります。
こういう長編書いていると、作者の自己完結って結構多くなってしまうので。