◇◆◇◆

空の青さが眩しい朝、とあるアパートにその清々しさを呪うように空を見上げる少女がいた。
名前を六花。白銀の長髪を湛える巫女の一族の末裔である。

その少女の呪いだというのに、青く晴れ渡った冬空には、ちっとも雲が差す気配が無い。
六花は、人が落ち込んでいる時に、と恨み言を心の中で呟き、再度恨めしい視線を青空に投げかけた。
かといって、今天気が崩れたら、それはそれで人が落ち込んでいる時に更に落ち込ませる気か、と恨み言を言うのだろうな、と六花は自嘲した。

そして、彼女が天気に恨みをぶつける原因となったそれに視線を移し、ため息をついた。

「はぁ…」

六花は自分がつくづく乙女では無いと思い知らされた。
昨夜、就寝時に布団が一組しか無いことに気付き、悩んだ末、今日は一緒の布団で寝ようという事になった。
提案したのは六花だが、志貴もそんな事で風邪を引くのも莫迦らしいと同意し、どぎまぎしながら一緒に布団に入った。
当然、互いにそういう年頃であり、否応にも男女という事を意識させられ、自分は眠れるのかとすら思っていたのだ。

それが、結果として熟睡。
いつもに増して爽やかな朝を迎えてしまった。
目が覚め、自分が何をしてしまったのか気付いた六花は、自分の身体に何か異変が無いかを事細かに捜索した。
もちろん、寝ている内に何かされたのではと期待してのことだが、それも当然の如く、皆無だった。
就寝時に身につけていた寝間着は寝相による乱れだけで、誰かがいじった跡など、どんなに探しても見つけられなかった。

それは志貴が知り合ったばかりの女性に簡単に手を出す節操無しでない事を意味するのだが、六花としては複雑だった。
手を出して欲しかったわけではないのだが、それでも自分には魅力が無いのかと落胆してしまう。
矛盾した願望だが、それでも六花はため息を止めることはできなかった。

「はぁ…」

加えて、志貴の寝相の良さに女性としての威厳が崩れそうになる。
一見すると死んでいるかのように見えるほど、志貴は微動だにせずに眠り続けている。
目覚めたばかりで、思考が回らなかった六花は本当に死んでいるのではと慌てふためきもした。
今も六花の目の前で、耳を澄まさなければ聞こえない静かな寝息を立て、寝ている。
学校に行かなければならない六花としては、これ以上寝ていられると困るのだが、起こすのがもったいなく、かれこれ二十分はこうして志貴を放置している。

そして、気付けば既に今すぐ着替えなくては学校に間に合わない時間になっていた。
六花は志貴を起こすのを断念し、急ぎ寝間着を脱ぎ捨て、制服に身を包む。
再度時計を確認すると、いつもの出発時刻に二分ほど余裕があった。

朝食を用意すると間に合わず、そのまま出ると時間を持て余す。
そんな中途半端な時間に悪態を吐きつつ、六花は冷蔵庫から牛乳を取り出した。

前に一度、朝食を抜いて登校し、授業中にお腹を何度も鳴らしてしまい、それをネタに二ヶ月半蒔寺にからかわれた。
それ以来、六花は少しでも朝食を食べて行くことにしている。
あの時、人の噂を七十五日も持続させた蒔寺はうざいを通り越し、恐ろしかった。
それが結果として、毎朝朝食を抜かないという良い習慣の要因となったのだから、人生何があるのか本当にわからない。

トースターで焼かずに、食パンをそのまま牛乳で喉に流し込む。
実に女らしくなく、尚かつ気持ち悪いが、仕方ない。
胸焼け気味の胸を軽く叩き、六花は壁に立て掛けてあった鞄を手に取った。

「志貴ちゃんが起きたら、家にあるものは何でも使っていいって言っておいてね」

僅か一分半で朝食を終えた六花は、志貴への伝言をそこにいるであろうライダーに伝える。
その声に応じ、ライダーが姿を現した。

「了解しました。リッカ。それでは気を付けて」

ライダーは頷きつつ、玄関まで六花を見送りにきた。

「うん。じゃあ行って来ます」

ライダーが何気なく行うその行為が六花には嬉しく、六花は笑顔でドアを開け、ライダーに手を振りながらアパートを出た。
自分が浮かれている事に気付きながら、しかし六花は仕方が無いと割り切っている。

なにせ、冬木に来てから今まで、六花には家族というものが無かった。
前の所でも似たようなものだったが、それでも師は常に傍にいてくれた。
だからと言うわけでもないが、六花はここでの一人暮らしに寂しさを感じていた。
それが突然、ライダーと志貴の三人家族になったのだ。
嬉しくて浮かれてしまったとしても、六花は自分にそれぐらいは許してあげようと思う。
それに、この幸せはいつまで続くのかわからないのだ。
ならば、それを一日でも長く甘受する事が自分に出来る最善の手だと思っている。

幸せな思考というものは時を早く進めるのか、もう学校が見えてきた。
もともと学校が好きでなかった六花は、結界がある間、本気で学校を休んでしまおうかとも考えた。
しかし結界という杞憂もなくなり、今は慣習として学校に来ている。
だから、学校に行くのは嫌かと訊かれたら、六花は間違いなく嫌じゃないと応えるはずだ。

それなのに、今、六花は急速に学校から離れたいと感じている。
それが何故なのか、六花には勘としか言えない。
目に映るのは何も変わらず、いつも通りの何もない校門。
そこから瘴気が出ているという訳でもなく、本当にいつも通りの日常に埋もれているような当たり前の景色。

ただ一つ、異なる点があるとすれば、そこに遠坂凛が立っている事ぐらいだろう。
学園のアイドルと呼ばれる彼女はそのイメージに違わず、普段は教室で読書か授業の予習をしている。
おそらく、例え著名な芸能人が校門に現われたとしても、それは変わらないだろう。
それぐらい模範的であり、他者の異常こそが彼女の日常だと言える。
だから、そこに遠坂凛がいること自体が異常だと言えば異常だ。

現に、生徒たちは彼女の存在を無意識に異常と察知しているのか、彼女の周りには空間ができていた。
その光景を呆然と見ていると、鬱陶しげに周囲を見渡した凛と目が合い、六花は直感的にやばいと悟った。
六花が逃げ出そうとするより早く、凛は微笑み、ずんずんと六花の所に歩いてきた。

「おはよう、巫淨さん」

明らかに作られた笑顔で、凛は六花に笑いかける。
相手を威圧する為の作り笑顔より、その事実を凛が隠そうとしない事が、六花には恐ろしかった。
六花が竦んだ事を見取ったのか、凛は笑みを消し、感情の映らない無機質な目で六花を見つめる。

その目は、六花の良く知る目だった。
それは己を消し、ただ事実だけを正確に読み取る為だけの機構、魔術師の目。
まるで六花の細部から、六花の思考を読み取ろうとするかのようなその行為に、六花は後に下がった。
しかし、凛はその下がった分だけ六花に近寄り、六花との距離を離そうとしない。

凛が何をしているのかまるでわからず、六花は背に伝う冷たい汗を感じながら、されるがままに、直立した。
凛は何かを確信したかのように頷き、一度時計に視線を移し、六花を“視る”事を止めた。

「少しお話があるんですけど、もう時間が無いですね。よろしかったら、お昼をご一緒しませんか?」

有無を言わせない笑顔に、六花は反射で頷いた。
凛は満足そうに頷くと、一緒に行きましょうと六花の横に並んだ。

作り笑顔を浮かべる凛と教室に向かう途中、六花は表情を崩さないように注意しながら、凛の奇行を分析していた。
何が凛にこういう態度を取らせるのかを予測し、六花の頭に浮かんできたのはライダーの事だった。
昨夜志貴と三人であれだけの距離をそれも表通りを歩いていたのだ。
師が優秀だと褒めていた遠坂凛ならば、それを見逃すはずがない。
それに、サーヴァントには姿を消しているサーヴァントの姿も感知できるらしい。
ならば、まず間違いなく凛は昨夜六花たちがサーヴァントを連れていたということを掴んでいる。

侮っていたつもりはないが、無警戒だったことが悔やまれる。
しかし、その事実を知って尚、六花は冷静だった。
凛は確かに優秀だ。
相手の隙を見逃さず、これという証拠と確信を得ている。

だが、ここに来て六花に思考する時間を四時間も与えてしまった。
これだけの時間があれば、どんな事実だって虚実を入り混ぜて誤魔化せてしまう。
世間体を気にせず、校門で一気に仕掛けてしまえば、間違いなく六花に言い逃れる事はできなかった。
その機会を逃したことは、単に凛の甘さ故だろう。

加えて、六花にはある確信があった。
先の行動は六花に揺さぶりをかけたのだろうが、それが逆に六花に教えてくれたのだ。
凛が六花をマスターだと断定していたのなら、わざわざ揺さぶったりはしない。
先に自分が考えついたように、一気に勝負を決めてくるだろう。
なら、何故そうしなかったのか。
それは凛が六花と志貴のどちらがマスターか・・・・・・・・・判断できなかったからではないだろうか。
奇しくも、昨夜志貴が懸念し、用心した事がそのまま役に立った。

ならば、六花にも逃げ道はある。
後は六花の度胸と話の矛盾を無くす事が出来れば問題ない。

「それじゃあ、また後で」

凛は勝ち誇ったような笑みで六花の傍から離れると、自らの席に座った。
それを上の空で聞き流し、六花は自分の考えに矛盾が無いかを洗い始めた。





◇◆◇◆

遠野志貴の朝は遅い。
子供の時はそうでもなかったが、年々起きる時間が遅くなっている。
先生もこればかりは矯正の仕様がないと思ったのか、志貴の寝坊癖は直るどころか、磨きがかかっていた。
最近になって、その間接的な理由が判明したが、改めてどうしようもないという事実がわかっただけだった。
ただ一つ変わったことは、先生が志貴を放っておく理由が、呆れから諦めに変わった事ぐらいだろう。

「ごめんなさい。明日からは迷惑かけませんから」

「私に言われても困ります。そういう事はリッカに直接言ってください」

午前十時、六花が凛との決闘の準備に神経を磨り減らしている頃に志貴は起床した。
今はライダーから二時間前に残された六花の言づてを聞き、自分の行動を反省している真っ最中だ。
志貴がライダーに謝るも、ライダーはそのお門違いの謝罪に呆れ、寝室から出ていく。
その後ろ姿を眺めながら、志貴はライダーから受けた指摘を思い返し、なるほどと頷いていた。
そして、志貴は六花が帰ってきたら謝ろうと決め、立ち上がった。

台所に移動しながら、これからどうするか冬木の地形を思いだしながら考えていると、視界の端にライダーを捉え、ある考えが浮かんだ。

「ライダー。少し提案があるんだけど、いいか」

「はい。なんでしょうか」

「今日、一昨日この町を回った時に行けなかった所を見て回りたいんだけど、どうかな?」

「ええ。構いませんが、具体的にはどこに行くのですか?」

「こっちの寺と橋の向こうの公園かな。
 他にも何カ所か避けた所があるけど、この二つが特に気になるからさ」

「了解しました。それならば、柳洞寺に行きましょう。
 ここはあまりにも柳洞寺に近すぎる。リッカを守る為にも、安全を確認しておきたい」

柳洞寺。
志貴はその名を聞き、自分が一番慎重に撤退した場所だったことを思い出した。
観光客を装うにはあまりにも異質過ぎる階段と、それを囲む木々を見ただけで志貴は逃げ出したのだった。
自分の頭に作っていた地図に六花の家を入れると、なるほど、確かに目と鼻の先に柳洞寺がある。
確かに、ここを拠点とするには柳洞寺が安全かどうかを確認しておかなければならないだろう。

―――甘い、な

己の思考の甘さを自覚し、志貴は頭を振った。
あれだけの魔力を感じたあの場所に、よもやサーヴァントがいないとでも思えるのだろうか。
これから志貴とライダーは柳洞寺が安全かを確認しに行くのではなく、安全を確保しに行く・・・・・・・・・のだ。

「多分戦闘になるだろうから、ライダーもそのつもりでいてくれ」

「了解しました」

志貴は寝具を片付け、部屋の端に置いてあったバックを開いた。
中は黒一色で、窓から差し込む光だけではそこに何が入っているのか判別がつかない。
しかし、志貴は慣れた手付きで中から色々と取り出すと、それを自分の横に並べた。

黒で統一された服飾は、明らかに日の下を歩くための物では無い。
衣擦れを最小限に抑えられるように設計されている服に、照り返しを消してある鞘と刀身。
それらが、志貴は魔術師ではなく、暗殺者なのだと語っていた。

ライダーは一昨夜の志貴の動きを思い返しつつ、納得の行く事実だと床に並んだものを見ていた。
すると、ライダーはそれらにある共通点があることに気付いた。

「シキ。何故貴方の装備には魔術品がないのですか?
 いくら貴方が強いとはいえ、聖杯戦争に参加する事を前提とした装備にしては軽装すぎるかと」

刀身を手入れしていた志貴はライダーの質問に振り返ると、自分の横に並んでいるものに視線を走らせ、自嘲気味に笑った。

「俺の魔術って魔術品と相性が悪いんだ。
 この呪布は魔術を覚えた時から付けているから大丈夫なんだけど、それ以外のものとなると違和感が先行して、魔術自体が使えなくなっちゃうんだよね」

答えているようで、どこか論点がずれている志貴の言葉にライダーは首を傾げた。
しかし、ライダーにはどこがどのようにずれているのかわからない。
ライダーの困惑が志貴にも伝わったのか、志貴は苦笑いで気にしないでと呟いた。

「…理解し難い説明ですね」

「はは。よく言われるよ」

恨み言とも取れるライダーの呟きを軽くいなし、志貴は小太刀の刀身を鞘に納めた。
そして、七夜と彫られた短刀を手に取り、握りしめるように柄を握った。
パチンという音を立て、無骨な柄から刀身が飛び出す。
どうやら飛び出しナイフのようで、ナイフにしてはしっかりとした造りの刃文をしている。

「こういう説明をすると、皆俺がどんな魔術を使うのかって期待するんだけど、俺は強化しか使えないからね」

未だ食い入るように志貴を見つめるライダーに、志貴は再び苦笑いを洩らした。

「それにどんな不都合があるのですか?」

ライダーの意外な返答に、志貴は顔を上げてライダーを見る。
そして首を傾げ、自分がそう思っていた理由が何であったかを思い出した。

「そういえばそうだね。
 不都合なんて無いのに、皆と違っているってだけで不便だと思ってた」

志貴は笑みを浮かべ、何かを確認するように何度も頷いた。
ライダーには、志貴が何をやっているのかわからないのか、その様子を怪訝な顔で見ていた。

「よくわかりませんが、魔術とは各個人で違って当たり前なのではないのですか?」

「うん。それが大原則だけど、でも全体の傾向ってものはあるだろ?
 それから大きく外れてる奴は、やっぱり異常と見なされるんだよ」

「そうですか。いつの時代も変わらないものなのですね」

ライダーが懐かしむように口にすると、志貴は作業している手を止め、ライダーに視線を移した。
しかし、躊躇うように口をもごもごと動かしただけで、再び刀に視線を戻す。
それを見て、ライダーは何かを理解したのか、微かに表情を和らげた。

「構わないですよ」

「いや。やっぱりそういう話は自分の意志で話さないといけないよ。
 それに、聞き返されたら俺は答えられない。それって不公平だろ?」

「そういうものなのですか?」

「ああ」

志貴は頷くと立ち上がり、黒装束を身に纏った。
それはまるで夜が具現したかのような出で立ちであり、心做しか気配が薄れている。
それはほんの数瞬前までライダーと話していた志貴ではなかった。
その姿を見て、ライダーはつい今し方まで続いていた会話の終わりを悟った。

志貴はライダーを気に掛ける様子もなく、装備に不備がないかを確認している。
思考一つでこうも違うのかと、魔術師というものの認識が甘かった事をライダーは自覚した。

「俺は大丈夫だ。ライダーはどう?」

「問題ありません。いつでも行けます」

志貴は頷き、バックからマントのような外套を取り出すと、それを羽織った。
どうやらそれは凶器を隠すものらしく、どういう仕組みなのか、外套に浮き出る身体のラインに不自然な所は無い。
これなら確かに帯刀しているとは思われないだろう。

魔術師とは魔術を操る者。
真っ先に接近戦を仕掛けようとする者など極少数だ。
故に、この姿は完全な奇襲用なのだろう。

魔術師であることは隠さず、武器を持っている事だけを隠す。
情報もなく対峙すれば、魔術師以外には見れない。
だが、実際は暗殺者。
接近戦を得意とし、尚かつその土俵で脅威的な実力を誇る。
それを相手にして、果たして生き残れる魔術師などいるのだろうか。

ライダーと戦った時は、そんな小手先でどうにかなる相手でないと思ったのだろう。
敢えて外套を使わず、自分の手札を残しておいたのだ。

ライダーは改めて志貴の脅威を知り、敵にならずにすんだ事に安堵した。

「じゃあ、行こう」

志貴が外に出て、ライダーがそれに続く。
外は昼間だというのに閑散としていて、人の生気を感じない。
おそらくは霊脈に飽和した魔力が洩れだし、町を覆っているからだろうか。
抵抗の無い人間が浸かるには、あまりにも魔力が濃い。

お陰で怪しまれずに行動できることに感謝しつつ、志貴は早足で柳洞寺に向かう。
といっても、六花のアパートと、目と鼻の先にある柳洞寺に行くのにそれほど時間を要するはずもなく、ほんの数分で階段の下に着いた。

「本当に近いな」

「ええ。ですから、ここの安全を確保しなければ六花の安全を保障できません」

「そうだな…。前衛は任せる。背中は任せてくれ」

「はい。任せます」

目を瞑り、志貴は心臓に絡まる鎖を瞑想する。
幾多にも絡まるそれは、初めて魔術を覚えた時よりも更に頑強に、多重になっていた。
それが何を意味するのか、当人である志貴でさえ未だにわかっていない。

だが、それがどんなに頑強になろうとも、己の心を写している事に違いはない。
自身を空想し、心臓を覆う鎖を剥がす。

そして、詠唱を開始する。

「開放、収束」

言葉と共に魔力が身体を駆け巡り、満ち溢れる。
それは身につける物も例外でなく、志貴が身に纏う全てのものが強化されていた。
たった一度の、それも一小節にも満たない“起動”だけの魔術行使。
それにしては出来すぎた効果。
それだけしか出来ないが故の結果。
しかし、純粋な力は全てを凌駕する。

素人目に見ても見事な魔術行使に、ライダーは感嘆の念を以ってため息をついた。
静かに目を開けた志貴は自信に満ち溢れていた。

「行こうか」

「了解しました」

確認は一瞬。
視認できようもない速度で二人は階段を駆け上がり始めた。
弾丸など生温く、一つ踏み込むごとに石造りの階段が抉られる。
だが、驚くべきはそこではない。
その速度の中にいて、二人は左右に広がる闇を抱く林への警戒を少しも疎かにしていなかった。
仮にサーヴァントが林から飛び出したとしても、二人は容易に対応するだろう。
この光景を魔術師が見たとしても、おそらく二体のサーヴァントが柳洞寺に攻め入っているとしか思わない。
それほどまでに志貴の姿は人間を凌駕し、その上の存在である英霊にすら届きそうだった。

「シキ。止まりなさい」

山門付近まで駆け上がった時、ライダーの鋭い声が制止をかけた。
志貴はライダーの指示に従い、ライダーの背後を守るように立ち止まる。
一切無駄のない動作。
まるで予め決められていたかのように、二人は互いの死角を埋める完璧な位置取りで立ち止まった。

醜悪な魔力以外、何も感じる事はなかった志貴だが、その顔に疑問は無い。
人間である自分の感覚よりも、英霊であるライダーの感覚を信ずることが生き残る為に必要な判断だと確信しているが故だろう。
視線を巡らせるライダーが何を調べているかも気にせず、志貴はひたすら周囲の警戒を続けた。

「血、ではないのですが、サーヴァントの残滓のようなものを感じました」

自分の感じた“何か”に納得が行かないのか、ライダーは戸惑うような口調で志貴に話しかけた。

「それはここでサーヴァントが倒れたって考えていいのか?」

「そう考えて良いと判断します。
 ですが、それが柳洞寺にいるサーヴァントのものか、柳洞寺に攻め込んだサーヴァントのものかはわかりません」

「それだけで十分だ。ここが無関係でないとわかったんだから。
 それに残滓が残っているなら、ここで戦闘があったって事だろ。
 もし柳洞寺にサーヴァントがいても、今なら叩けるかもしれない」

志貴の的確な読みに、ライダーは頷くことで同意する。
そして、次の言葉を待たずして、ライダーは再び走り出した。
当然、志貴は少しも遅れることなく追従し、山門をその勢いのまま駆け抜ける。

門を抜けると予想以上に広い前庭が視界に入った。
日本の建築物に詳しくない志貴だが、それでも立派だとわかる本殿が視界いっぱいに広がる。
本殿までのびる石畳は幅五メートルあろうかという立派なもので、左右に砂利が敷かれている。
その上を本殿に向け直進する二人は、まるで神に挑む愚かな騎士のようであった。
サーヴァントがここを本拠地にしているのなら、この瞬間、相手は志貴たちの姿を視認していることだろう。

否、ここが外れのはずがない。
霊脈の上に立てられた清らかであるはずの寺。
そこが、今は濃厚な魔力が漂い、明らかな異界へと変貌しているのだから。

―――ここにサーヴァントがいた事は間違いない。問題は、まだいるかどうかだ。

戸惑うことなく駆け抜けるライダーの背には、志貴への信頼が見て取れた。
それを目にし、志貴は一瞬頭を過ぎった思考を振り払った。
例えここに何がいようとも、ライダーが負けるはずがない。
何故か、志貴にはそんな根拠のない確信があった。

微かに頷き、志貴は視線を前に戻した。
既に本殿は目前で、無駄な事に意識を費やすことは命取りになる。
何がいるのか、武者震いだと信じたい震えが志貴の身体を駆けずり、それは呼吸となって外に出た。

「ライダー。ここからは慎重に行こう」

「はい」

本殿の前で立ち止まり、二人は蠢くような闇を湛えた本殿への入り口に目を向けた。
それは不吉だと思考が理解するより先に、生理的な嫌悪感で志貴を包み込んだ。
その直感に従い、志貴は退路を決めておこうとライダーに向き直った。
その時、志貴の背中に悪寒が走り、志貴は咄嗟に真横へと飛んだ。

「はっ。やるじゃねぇか」

先まで志貴がいた場所には血で染め上げたかのような真紅の槍が刺さっていた。
その細い柄に乗り、志貴を見下ろす青い男。
まるで戦う為だけに生まれてきたかのように、その目は闘志を燃やし、赤に輝いている。
男の視線は、志貴と逆方向に距離を取ったライダーにではなく、人を殺すには過剰の威力を秘めた一撃を人の身で躱した志貴に向いていた。
皮肉げに吊り上がった口元は、隠せない笑みを浮かべている。
猛禽が獲物を前にした時のような、この男からはそんな乱雑な、それでいて静かな殺気が放たれていた。
ふと、今頃存在に気付いたかのように男の視線がライダーに移る。
そして、鎖を具現し、構えるライダーを小馬鹿にしたように鼻で笑い、男は地面に降り立った。

「ねぇちゃんはどのクラスだ?
 気配を消すのは下手そうだし、魔術師って見るには服装が機動性を重視しすぎだ。
 まぁ回りくどそうだし、ライダーだな」

槍を地面から引き抜き、男は飄々とした態度でライダーのクラスを言い当てた。
それが如何なる手段で導き出されたものなのかは判断できない。
だが、それは勘と言うにはあまりにも明確な読みだった。

志貴の額を一筋の汗が流れる。
目の前の男は、勘でなく、己の知識を以ってこちらの手札を明かした。
そしてその知識とは、男がこの数日間に集めたサーヴァントの情報。

だが、それを簡単に集められるはずがない。
サーヴァントのクラスは知られない方が有利に動く。
故に、この戦争に参加する者たちは、自分がどのサーヴァントを保持し、どんな能力を持つかを極力明かさない。
唯一手札を明かすとしたら、それは相手の必殺を狙った時のみ。
それならば、なんら問題がないからだ。
死者が何を知ろうと、所詮、死人は何も喋らない。

つまり、この男は幾多のサーヴァントと戦い、その中で相手の手札を見極め、そして生き残ってきたのだ。

男の軽い口振りに隠された英傑の実力。
それを感じ取った志貴は外套を脱ぎ捨てた。
この男に小手先で勝負を挑もうするならば、負けるのは己だと悟ったのだ。

「そういう貴方は分かりやすい。
 ランサー。貴方がこの寺を本拠地にしているサーヴァントなのですか?」

ライダーは咄嗟にランサーから距離を取ったものの、志貴を孤立させてしまった事に焦りを感じていた。
できるだけ話を長引かせ、志貴がランサーから距離を取る時間を稼ごうと目論む。
しかし、そんなライダーの考えを見抜いたかのように、ランサーは笑った。

「そんな愚問に俺が答えるとでも思うか?」

軽快な笑いに、徐々に獰猛な気配が交え始める。
担いでいた槍を構え、ランサーは全身を引き絞った。
それはまるで限界まで引かれた弓のように、ただ相手を殺すためだけのもの。

「知りたかったら…」

呼応するかのように、ランサーを囲む二人はそれぞれの武器を構える。
ランサーはその対応に満足したのか、獰猛な本性を剥き出しに、

「てめーで調べな!」

己を矢とし、志貴を貫かんと飛び出した。
爆ぜるような突進。
サーヴァントという規格外の存在が、人の枠組みを超えない相手に本気の重圧をぶつける。
魔術師でさえ怯んでしまうような、猛犬の突進。
しかし、志貴は臆することなく、左に跳んだ。
ランサーの殺気が誰に向いていたかを事前に察知し、自分に仕掛けてくるだろうという事を覚悟していたのだ。
だから、志貴はランサーが動くと同時に槍使いの最も苦手とする槍手の外、この場合、ランサーの右側に逃げることが出来た。

だが、その最善の対応を裏切る能力をランサーは有していた。
志貴の逃げ込もうとした安全地帯は、ランサーが用意していたものだった。
己の手足同然とも言える槍の死角をランサーが熟知していないはずなどなかった。
己の罠に掛かった獲物に、ランサーは賞賛を贈る。
例え用意したとしても、それを見つけられる人間など、この世にいないと思っていたからだ。
だが、必殺を以って返礼とするのがランサーの礼儀だった。
左足で地面を穿ち、速さをそのままに向きを直角に変える。
その衝撃に地面が抉れ、大砲が着弾したかのように石畳が弾け跳ぶ。
それだけの威力を込めた方向転換に、ランサーは反動に硬直する気配すら見せなかった。
光の速度をそのままに、志貴の眼前に突如として現われる。

「っ…」

全力で跳ねた志貴に左右に向きを変える余地は無かった。
志貴の体術を以ってすれば、確かにランサー同様、速度をそのままに向きを変えることも可能だろう。
だが、如何いかんせん距離が近すぎる。
仮に向きを変えたとしても、次の瞬間志貴はランサーに肉薄されていることだろう。

思考は一瞬。戸惑いは皆無。
志貴は地面に張り付くかのように身体を倒し、更に加速した。
強度を超えた行使に、足の筋肉が悲鳴を上げる。

「なっ!?」

ランサーの足元を黒い影が奔る。
自分と距離を離すだろうと考えていたランサーは、志貴の予想外な行動に反応が微かに遅れた。
本来なら相手の胸を貫くその刺突も、志貴の左脇を掠めるだけに終わった。
加えて、自分の下方にいる相手に繰り出した槍は、地面にめり込み、自由を失う。
ランサーは失策に舌打ちするも、咄嗟に機転を利かせた。
力任せに槍を引き抜き、それを鞘走りとして槍を振り下ろす。

「ふっ!」

が、ランサーの身体はライダーによって吹き飛ばされた。
助走から踏み込みに至るまで、なんの障害もなかった蹴りは、ランサーの胸を深く抉り、血煙をまき散らした。
それでも手に持つ槍を離さないのは、戦士としてさすがと言わざるを得ない。
ランサーは受け身も取れずに地に落ち、勢いを殺せないまま横転を続けた。
三度地面を跳ね、そして止まる。
ランサーは地面に手を付き、盛大に吐血した。

それも当然。
いくらサーヴァントとはいえ、あれだけの威力の攻撃を一点に受けたのだ。
無傷でいられるはずがない。

「やってくれる。まさかマスターがそこまでやれるとはな」

「私も驚いています。シキがここまでサーヴァントに対抗出来る手段を持っていようとは」

数十メートルの距離を開いて立ち上がったランサーは、血に濡れた口元に皮肉げな笑みを浮かべていた。
そこに重傷を負わされた不利な形勢は見て取れない。
それどころか、余裕すら見て取れた。
まるで、自らが相手を追い詰めているかのように。

「だがな、ライダーのマスターよ。
 恨むなら自分のサーヴァントを恨みな。
 せっかくの好機に、一撃で俺を仕留められなかった無能をな」

その瞬間、境内を漂っていた魔力が明確な意思を持ち、ランサーの元に集まり始めた。
否、集めるなんて生易しいものじゃない。
彼らの意思に否応なく、ランサーはこの場の魔力を服従させ、喰らい始めたのだ。
その媒体があの槍なのか、取り込んだ魔力が真紅の槍に注がれていく。

宝具。
そのあまりの圧倒的な力に、志貴は成す術なく固まるだけだった。
その中、ライダーは冷静に、今できる最善の手を導き出していた。

「シキ。宝具を使います。今私に蓄えられている魔力だけで二度放てるものです。許可を」

その声に志貴は思い出した。
ライダーが負けるはずなどないと。

「六花に影響は?」

「使ったという事は知られますが、リッカに影響はありません。
 仮に魔術師が傍にいたとしても、おそらく気付かれないでしょう」

「頼む」

「はい」

絶対の信頼を乗せた言葉に、ライダーは笑みさえ浮かべて頷いた。
志貴を砂利の上に残し、ライダーは石畳の上に歩み出た。
それはまるで舞台に登る役者の様で、志貴はその細い背中に見惚れてしまった。
申し合わせたかのようにランサーも石畳の上に移動し、二人は対峙する。
ライダーは釘のような形状をした短剣を逆手に持ち替え、あろう事かそれを己の首に突き刺し、傷を抉った。
盛大な血飛沫をまき散らし、ライダーの身体が傾ぐ。
しかし、志貴が驚愕に目を見開くより早く、まるで時間を巻き戻したかのようにライダーの出血が収まっていた。
そして見間違いか、ライダーから溢れ出た鮮血は地を汚すことなく、空に留まっている。
それだけでなく、空気に亀裂が入るかのような音を立て、次第に血が魔法陣のようなものを型どり始めた。
魔術とは一線を画すその光景は、知らずその場にいる全ての者を昂揚させた。

「いいね。サーヴァント同士のやり合いってやつは、やはりこうじゃねぇと」

先に必殺の装填を終えたはずのランサーは、余裕からか、それとも律儀なのか、ライダーの宝具が具現するまで待っているらしい。

「余裕ですね。わざわざ相手を待つとは」

「いやなに、せっかく命をかけてんだ。これぐらいの戦いでなくて何が英霊か」

違った。
ランサーはただ己の喜びを満たす為だけに、相手の切り札を待っていたのだ。
その戦士というより、野蛮な凡俗のような在り方に、ライダーは思わず笑った。

「私には貴方の感性を理解できませんが、借りを作るのは不愉快です。その戯れ言、付き合いましょう」

ライダーの口元から笑みが消え、それを合図にするように世界に変化が起きた。
雷鳴を轟かせ、魔法陣に描かれた“眼”が開き出した。
直視するには神々しすぎる光が溢れ出す。

「はっ!」

端から見ている志貴にさえ危険だとわかるその光に、ランサーは戸惑いも無く突っ込んだ。
人智を超えた戦いに、志貴は心を奪われ、見入る。
願うのは、否、確信はただ一つ。
何があろうとライダーは勝者になるという事だけ。

騎英のベルレ―」

刺し穿つゲイ―」

声は同時。微かにライダーが早く、己の宝具の名を紡ぐ。
しかし、それに焦る様子もなく、ランサーは更に距離を詰めた。

「―手綱フォーン

「―死棘の槍ボルク

真名の開放を以って、幻想が現世に具現し、事象を巻き起こす。
大量の光の渦に、真逆を征く赤い一筋の光が飲み込まれる。
志貴の理解を遙かに超えたその交錯は、時間にして刹那。
瞬きの間に、閃光と轟音の乱舞が始まり、終わる。
まるで火花のように一瞬で散った幻想は、その儚さとは裏腹に現実に壮絶な爪痕を残していった。

砕かれた石は砂塵となって舞い上がり、視界を埋め尽くす。
志貴はその壁に気圧され、動くことさえ出来なかった。
海から吹く風はここまで届くのか、視界が回復するまでわずか数分ですんだ。
その間呆けたように立っていた志貴は、急いでライダーの姿を探し、視線を巡らせる。

再び訪れた静寂の中に、両者の姿は無かった。
二人が対峙していた場所には、まるで巨大な爪に抉られたかのような跡がある。
それは果たしてどちらがつけたものなのか。
どちらにしても、人の身には余る奇跡だと志貴は理解した。

爪痕から視線を外した志貴の目に、ぐったりと横たわったライダーの姿が写った。
百メートルの距離を全力で駆けつけ、志貴はライダーの横に膝を下ろす。

「ライダー!!」

志貴が叫ぶと、ライダーはごっそりと抉られた肩を押さえながら立ち上がった。

「大丈夫なのか?」

「ええ。一日も経てば戦闘も可能になる程度の傷です」

先の衝突の規模を考えると、あまりにも軽いライダーの被害に、志貴は安堵した。

「そういえば、あいつは?」

「わかりません。接触はしましたが、手応えがありませんでした。
 どのような手段を用いたのか判断できませんが、こちらの攻撃を緩和したと見るのが妥当でしょう」

「つまり、生きている?」

「その可能性が高いと判断します」

志貴はライダーの言葉に愕然とした。
先のあれは、避けるとか、受けるとか、そんなものの次元を超えていると思っていた。
だが、ライダーは仕留められなかった事に落胆しているものの、それをまったく考慮に入れていなかったわけでは無いらしい。

ほんの数日前、この地を訪れた時、志貴はサーヴァントとさえ渡り合う自信があった。
しかし、先の交錯といい、宝具といい、如何に自分が甘かったか、それを思い知った。

「ですが、不利というわけではありません。
 ランサーの使った宝具について、わかった事があります。
 あの槍の名はゲイ・ボルク。
 おそらく『必ず心臓を貫く』事が特性だと思われます。
 私に避ける手段は無いですが、それならば、相手が宝具を使う前に仕留めれば良い。
 勝算のある具体策も考えつきました。次こそ確実に仕留めて見せましょう」

「はは。頼りにしてるよ。…あれ?
 なぁ、ライダー。『必ず心臓を貫く』なら、どうしてライダーは肩を怪我したんだ?」

「それは、…わかりません。運が良かったのでしょうか」

外見上は元に戻った肩を持ち上げ、ライダーは微かに顔を歪めた。
未だ悩んでいる志貴を横目に、ライダーは左手を握りしめてみた。
どうやら握力に問題はなく、肩を動かすと痛みが走るだけのようだ。
これならば、戦闘の続行は可能。
一刻も早くこの場の安全を確認したいライダーにとって、重傷を負わなかった事は幸運だった。

だが、ライダーは大きな勘違いをしていた。
仮に今、刺し穿つ死棘の槍ゲイ・ボルクを放たれれば、ライダーの心臓は間違いなく穿たれる。
ライダーの運はゲイ・ボルクを避けられる程高いものではないのだ。

ならば、何がライダーをゲイ・ボルクから守ったのか。
それは彼女の宝具、騎英の手綱ベルレフォーンである。
時速五百キロにも達する威力を秘めるその宝具が、因果をねじ曲げる前に、その原因から抜け出す事を可能にした。
それには、微かにライダーの方が宝具を放つタイミングが早かった事や、ベルレフォーン自体に彼女を高純度の魔力で守る効力がある事などの補助的なものが欠かせなかったが、今回はその全てが彼女に味方した。

そういう意味ではライダーは幸運だったと言えるかもしれない。

「このまま行けそうか? 無理だったら一旦引き返そう。
 万が一、相手が健全な状態だったら、傷を負ってしまったこっちが不利だ」

左腕の調子を測っているライダーに、いつの間に横にいたのか、志貴が心配そうに声をかけた。

「大丈夫です。痛みがあるだけで、能力自体は変わりません」

ライダーは志貴の前に腕を出し、手を開閉して見せた。
実際は握力以外、腕力や俊敏性など、あらゆる面で不都合が生じていたが、結局は戦闘に支障が無い。
ライダーは足で相手を翻弄するタイプなのだから、腕は片方が生きていれば十分に戦えるのだ。
志貴はライダーの顔をじっと見、納得のいかない表情で頷いた。

「わかった。けど、サーヴァントに遭遇したら逃げる事を考えよう。
 最悪、俺と別行動を取ることも考えておいて」

志貴のライダーの様態を見透かしたような言葉に、ライダーは目を見開くも、眼帯に覆われて志貴にはばれなかった。
だが、その気配を鋭敏に感じ取ったのか、志貴は呆れたように笑った。
どうやら鎌をかけたらしく、ライダーはそれに見事に引っ掛かってしまった。

「わかりました。感謝します」

志貴は再度笑うと、本殿に入ろうとし、そこで足を止めた。

「なぁ、ライダー。あれだけの戦闘を境内でやって、誰にも見つからないってあり得るか?」

「ランサーが結界を張ったのでしょう? でなければ私も宝具を使おうとは考えませんでした」

何を言うのか、とばかりに、しかし律儀にライダーは答える。
だが、その言葉に志貴は首を振った。

「結界は張ってなかったよ。
 この寺自体が結界みたいなものだから、多分外までは届かなかったと思うけど。
 でも、この寺にいる人には確実にばれているはずなんだ。
 なのに、誰も顔を出さないし、中からも人の動いている気配がしない。
 これってどういう事だと思う?」

「それが本当なら、確かに不自然を通り越して作意的なものを感じます。
 ランサーの口振りからすると、彼はこの寺と無関係でしょう。
 ならば、他のサーヴァント、もしくはマスターがこの寺の人間を操作しているかもしれませんね」

志貴は頷き、昼間だというのに薄暗い本殿への入り口を見る。

「ランサーがライダーの役割を言い当てたとき、気配を消す事がどうとか、魔術師うんぬんって言ってたよな。
 ランサーがここに来た目的がここにいるサーヴァントを倒す事なら、ここにいるのはアサシンかキャスターなんじゃないかな」

「そうですね。そしてここはサーヴァントにとって鬼門です。
 アサシンに逃げ場の無い一点に留まる理由は見あたらない。
 しかし、キャスターならここに留まる理由がある」

「鬼門?」

「ええ。ここは私たちが上ってきた石段以外、サーヴァントに不利な結界が誣いてあります。
サーヴァントにとって、ここは袋小路と同じなのです」

「と言うことは、ここは魔術師の工房か。
 工房に入るのは初めてじゃないけど、神代の魔術師が相手となると、無意味そうだね。
 どうする? 今ならまだ引き返せるけど」

ライダーに振り返った志貴は、これから悪戯をするかのように笑っていた。
顔が若干引きつっているのは、愛嬌というものだろう。

「無論、行きましょう。背中は任せます」

志貴の軽口をすっぱりと斬りつけ、ライダーは暗がりに向け、歩き出す。
志貴は慌てて追いかけ、ライダーの後に並んだ。