Interlude

冬木市は露骨に分かり易い造りをしている。
市の真中を流れる未遠川を境に、東側に新都と呼ばれる都市機能が、西側に深山町と呼ばれるベットタウンが広がっている。
その二つを冬木大橋が繋いでいるという、いかにも計画的に造られた地方都市然とした都市だった。

そして、西側に位置する深山町も一つの交差点を境に、洋式と和式の町並みに分かれている。
その和式の町並みの中でも、一際立派な武家屋敷がある。
表札に衛宮とあるその屋敷には倉ばかりか道場まであり、他の家々から群を抜いて大きかった。
その敷地内から、六時を少し回った早朝に、断続して乾いた音が鳴っていた。
小鳥の囀りよりは大きく荒い、騒音よりは小さく清い。
それは家主である衛宮士郎と、その従者であるセイバーが竹刀を使い模擬戦をしている音だった。

「ふっ!」

鋭く息を吐き出し、士郎が竹刀を繰り出した。
一踏み目でおよそ三メートルはあろう間合いの三分の二を、二踏み目で残り一メートルを消し、突進の勢いを余すことなく竹刀につぎ込む。
一連の動きは荒削りながら堂には入ったもので、端々に日々の鍛錬の成果が見られる。
今持てる最大の威力を乗せた一撃は、逆袈裟斬りの軌跡をなぞり、必殺の勢いでセイバーに肉薄した。
受けることしか出来なかった昨日からの飛躍的な進歩を目にし、セイバーは感嘆の念を以ってそれを受ける。
だからといって手を抜くはずもなく、刀が接触する瞬間に手を絞り、士郎の刀を弾く。
下から掬い上げるように迫った竹刀が、そのままの勢いで跳ね上がる。
竹刀につられ浮き上がった士郎の体は自由を失った。
だが、士郎は強引に身体ごと刀を回転させ、今度は横薙ぎに斬りかかった。
その機転にセイバーは感心し、しかし意識についていかない体術の拙さを見抜く。
セイバーは腰を落として斬撃を受け、力で刀身を跳ね返す。
力を乗せ切れていない、ただ振り回されただけの竹刀は容易に跳ね返され、士郎は足場を失う。

「はぁ!!」

床を砕きかねない踏み込みを経て、セイバーは一瞬にして倒れ込む士郎の懐に飛び込んだ。
同時に繰り出されていた竹刀が士郎の左脇を抉り、浮いていた体が持ち上がる・・・・・
セイバーは先の士郎の動きを真似るように、斬撃の反動で竹刀を引き戻し、回転する。
その途中、宙にある士郎の身体に柄を叩き込み、彼我の間合いを最適に保つ事を忘れない。
潰れた声を上げた士郎を気遣う様子もなく、回転によって生まれたエネルキーを竹刀に乗せ、セイバーは振り下ろしの一撃を士郎の脳天に見舞った。

「ぶべっ!?」

士郎は避けること叶わず、竹刀は惚れ惚れする角度で士郎の頭に吸い込まれた。
浮上していた身体は宙で止まり、自然の法則に従って無様に地に落ちる。
無論、セイバーには地面に叩き付ける事も可能だったが、目的を果たすにはこれで十分だった。
セイバーの目的は士郎を再起不能にする事ではなく、サーヴァントと人の違いを認識させる事にあったのだから。

緊張を解す為、一つ息を吐いたセイバーが足元に転がる士郎を見ると、顔を顰めながら立ち上がる所だった。
頻りに首を捻っているのは首を痛めたからでなく、悩んでいるからだろう。
おそらく先の動きで、自分が何を間違えたのかを探しているのだ。
努力を怠らない姿勢が、実に衛宮士郎マスターらしい。
その光景を微笑ましく思えてしまう自分に、いつの間にか目的がずれている事を悟ったセイバーは微かに眉をひそめた。

「シロウ、大丈夫ですか?」

セイバーが手を差し伸べると、士郎は礼を言いながら手を取り、立ち上がった。
頭が痛むのか、さり気なく頭に添えられた手が、いかにも士郎らしくて笑える。
涼しい顔のセイバーとは対照的に、火照った頬の汗を手で拭いながら士郎は竹刀を拾った。

「いつつ…セイバーも少しは手加減しれくれよ」

「それでは鍛錬になりません。
 私は貴方より一つ格上の相手を模し、その範囲で全力を出しています。
 それにうち勝てないようでは到底話になりません」

最大限に手加減をしていると、小さく胸を張り、得意げな顔をするセイバーがおかしく、士郎は笑ってしまった。
目聡くそれに気付いたセイバーは表情を一変し、半眼になって士郎を睨む。

「む。何がおかしいのですか?」

「ん、何でもない。それより、そろそろ飯の用意を始めなきゃ」

士郎が指さす先に、居間から持ってきた置き時計が六時半を指していた。

「そうですね。切りも良いですし、これまでにしましょう」

朝食という言葉を聞き、セイバーの顔が柔和になり、心做しか目が輝いている。
まるで子供のようなその変化に苦笑いを洩らしながら、士郎は湯を浴びようと道場を出た。

朝の空気は澄んでいて、早朝という事もあり世界は静寂を保っていた。
聖杯戦争という殺し合いの最中であっても心が和む光景に、士郎の歩調は自然と緩やかになった。
横を歩くセイバーは目を閉じ、何を思うのか笑みを浮かべている。
間違いなく今朝の献立を思い浮かべているのだろうが、この静寂を共に楽しんでくれていたら嬉しいと士郎は思った。

「じゃあ居間で待ってて」

「はい」

士郎が脱衣所に入るのを待った後、セイバーは緩む口元を隠さずに居間に入った。
どうせ誰もいないのに、表情を取り繕う必要を感じなかったのだ。

「あら、ご機嫌ね」

だが、居間には先客が二人いた。
セイバーのマスターである衛宮士郎と同盟を組んでいる遠坂凛と、その従者アーチャー。
凛がこんな朝早くに起床している事もおかしな事だが、普段屋根の上で警戒をしているアーチャーがこの場にいる事もおかしな事だった。
ただならぬ空気に顔を引き締め、セイバーは凛の対面に座る。
アーチャーが静かに移動し、何をするのかと思えばセイバーの前に上品なカップを置いた。
手に持つポットを完璧な動作で傾けると、紅褐色の液体がカップに満たされた。
同じように凛のカップに紅茶を注ぎ、アーチャーは再び凛の後に戻った。
凛は優雅な動作で紅茶を飲むと、朝の挨拶を交わすかのように切り出した。

「あなた達が道場にいる間にアーチャーと話したんだけど、セイバーに提案があるの」

「なんでしょう?」

「昨日話したマスター、彼を攻めるから力を貸して」

「…私を出し抜いた男のことですね。了解しました。
 あの男は所在がわかっているのなら、倒しておいた方がいい相手だ。
 バーサーカーと当たるまで受け身でいるのは却って危険でしょう」

凛が首をふる。
否定を表す行動に、セイバーは不思議そうな顔をした。

「所在はおそらくとしてしか言えないわ。でも、弱点はわかってる」

セイバーの眉が跳ね上がる。
凛の意図する事を察知したためだろう。

「人質を取るのですか?」

「もちろん人質を傷つける気はないわ。でも、保険は必要だと思う。
 七夜って退魔師はかなりの異端だと云われていたらしいし」

「詳しいのですね」

「その弱点について調べた時に、たまたま囓った程度の知識よ。
 それより、話を進めたいのだけどいいかしら」

「あ、はい。すみません」

「いいわ。七夜の弱点は巫淨六花という退魔師の少女。私のクラスメートよ」

セイバーが微かに目を見開く。
凛はその反応を楽しんでいるように微笑み、紅茶を飲んだ。

「だから言ったでしょ。傷つける気は無いって。
 生憎、私は友人を傷つけて勝って、素直に喜べるほど老成していないもの」

凛は何に対しての嘲りなのか、鼻を鳴らした。
他者を傷つける事を躊躇う事へなのか、それとも、それを良しと思ってしまう自分へなのか。
セイバーは人の良い魔術師を見やり、後者だと推測した。

「なるほど。それで、私はどうすればいいのでしょうか」

「セイバーは学校の林で待機しておいて。彼女の捕縛は私がするから」

「わかりました。ですが相手も警戒してくるでしょう。どうするつもりですか?」

「とりあえず、放課後人がいなくなるまで時間を稼ぐつもり。
 その後は臨機応変に対応するわ。もしかしたらセイバーも動員するかもしれないから、そのつもりでね」

「わかりました」

「学校に来ないって可能性もあるけど、それは今考えないでおきましょう」

凛はセイバーが頷くのを見て、満足げに笑った。
だが、次の、そして最大の関門である少年を思い浮かべ、すぐに苦い顔になる。
正義の味方を目指す士郎が、果たしてこの作戦に乗ってくれるか。
絶望的な成功率が頭に浮かび、凛は目眩を散らすべく頭を大きく振った。

例えセイバーを説得できようと、そのマスターである士郎が反対すれば、セイバーは必ずその意向に従うだろう。
つまり、もう少しでここに現われるだろう少年を説得できない限り、この作戦は行えない。
一対一であのマスターと対峙するのは、その存在を見たその時に、凛の勘が拒否していた。
あれと立ち合うならば、数的優位を確保せよ、と。

「あれ? 今日は早いんだな遠坂」

場(主に凛)の空気を考えないさっぱりとした声が居間の入り口から発せられた。
声の主はタオルで頭を乱暴に拭きながら、自分の聖地である台所に向かう。

「士郎。ちょっとそこに座りなさい」

しかし、それに待ったが掛けられた。
たった一言で場の緊張を崩された事に不機嫌さを露わにした凛が、セイバーの横を指差しながら士郎に低い声をかけたのだ。
振り返った士郎は凛の不機嫌さを感じ取り、しかしまったく心当たりが無い事に狼狽えながらもセイバーの横に座った。

「何だよ」

「今日七夜志貴を叩くわ。その為に巫淨さんを人質に取ろうと思うんだけど、どう? ちなみにセイバーは同意してくれたわ」

凛の真剣な口調で語られた言葉を、士郎は理解できなかった。

「え?」

正しくは理解出来ていた。
ただ、それが遠坂凛の口から出たものなのか理解できなかっただけだ。
呆けた声に混じる動揺が士郎の思考をそのまま凛に伝える。
どうして、あの・・遠坂凛がそのような行動を取るのかと。

「私だって好き好んで言ってる訳じゃないわ。
 けど、あんたもわかるでしょ? あの七夜って奴は普通じゃないって」

士郎が心で呟いた問いに、凛は当たり前のように答えた。
それに動揺しつつ、士郎は七夜志貴の姿を思い浮かべる。
黒いコートのような物を着込み、夕日に照らされて穏やかに笑う姿。
どこか儚く、まるで幽鬼のような朧気な存在感の男。
頭の中に構築したイメージに、士郎は微かに首を傾げた。
士郎には、凛が不吉だと言うそのマスターは眼帯の異常さを除けば、少し変わったどこにでもいる普通の少年のように思えたからだ。

―――そうか

凛の言葉を否定しようとして、士郎は凛の謂う所の不吉に気が付いた。
それだけの異常を抱えて、尚“少し変わった”程度で済まされてしまう事。
服装でも、眼帯でも、気配でもなく、それこそが七夜志貴の異常なのだと。

「確かにあいつはおかしい。けど、だからって巫淨さんを巻き込むのは…」

志貴の異常を認めた上で、士郎はそれが六花を人質に取る事とはまったく関わりのない事だと反論した。
無論、無自覚なのだが、凛が上手くぼやかしたはずの核心を突いている。
普段見せない鋭さを見せた士郎に、凛は少なからず苛立ちを感じた。
もちろん、作戦に同意しない事にではなく、何故厄介な時にだけそういう鋭さを見せるのかという理不尽な怒りだが。

「彼女は彼の関係者よ。当人の覚悟がどうであれ、既に聖杯戦争に関わっている。
 相手の弱点を突くのは当然の戦略。卑怯でも何でもない。
 それに、退魔師とはいえ巫淨さんを巻き込んだあいつが、一般人を巻き込む事に抵抗を覚えると思う?
 仮に魔力が足りなくなった時、あいつが一般人を襲わないとは言い難いわ」

凛の思考は軽く沸騰しながらも未だ冷静さを失わない。
声に苛立ちが混じっているのも、士郎を怯ませる為には効果的と判断しての事だ。
話す内容も事実を微妙にねじ曲げ、納得のいくように改竄したもの。
ただ、先に見せた鋭さに、凛は一抹の懸念を抱いた。

もし、七夜志貴が一般人を巻き込む事を厭わない人物であるなら、学校の結界の消滅に関わっているはずがなかった。
敵が力を蓄えるのは厄介であり、可能なら阻止すべき事だが、実を言うとそれは二の次だ。
何故なら、如何に魔力を蓄えようと一度に使える魔力量は限られている。
持久戦をしようというなら戦果を大きく左右しかねないが、そんな酔狂はまずいない。
サーヴァントの戦いは出会って、最大出力でぶつかって、はいお終い。という分かり易い三段階に分かれている。
よって、多量の魔力を保有したとしても、脅威の程度はさほど変わらない。
例外的に、満足な供給を得られず能力が低下している者もいるが、それはあくまで例外だ。

凛は前に座る二人例外を一瞥し、再び思考に没頭した。
そして、結界を解呪する為、結界内に足を踏み入れる事は相当なリスクを背負う事となる。
解呪によって得られるものを考えると、それは正直割に合わない。
故に、今回の場合のみを考えるなら、結界は特別な理由が無い限り放っておくのが普通だと言える。
凛と士郎は特別な理由、つまり自分たちの学校だという事で解除しようとしていただけで、外来である志貴が関わる必要など一切無い。
だのに、志貴はわざわざ関わった。
それは、凛の言う人物像とは真逆の、一般人を巻き込む事を嫌悪している現われであった。

「…そう言われるとそうだな。冷静と言うよりも冷酷そうな奴だ」

しかし、士郎は今し方感じた違和に囚われ、その事実に気付かず凛の言葉に同意した。
凛は軽い罪悪を感じたが、士郎の勘違いを訂正するつもりなど無かった。
誘導したのは己であり、結局、どんな言葉で飾ろうと行う事は人質による一方的な交渉なのだ。
そこに正当性など微塵も無い。凛が自らの作戦に乗り気でないのもその為だ。
発案者が乗り気でない作戦に士郎が乗るはずもなく、渋った顔で呻っている。
聖杯戦争というものに足を踏み入れた一員として、ここで七夜志貴を倒す正当性を考えているのだろう。
凛は士郎の思考を読み取り、そこに正当性を上書きしていく。

「そう思うなら、協力して。それに人質と言っても傷つけるつもりはないわ。
 当然、七夜も令呪を放棄してくれるなら傷つけないし、どんな事があっても殺したりはしない」

「…」

士郎の答えは沈黙。
それは凛の意図に気付いたからではなく、その行為を思い浮かべたが故の躊躇だった。
まるで悪。自分が倒すべきはずのそれのような行為に、士郎の心は揺らぐ。

「あいつが人を巻き込む奴かどうか確かめてからじゃ駄目なのか?」

迷いは声となって外に出て、凛の耳朶を震わせる。
心を映し揺らぐ瞳を凛に向け、それでも意志を貫くかのように決して逸らさない。
その愚直すぎる意志を前に、凛は耐えられず視線を逸らした。
だが、魔術師として躊躇いを押し殺し、目的を遂行する。

「そんなの無意味よ。第一、どうやって調べるの?
 あいつと接触でもするつもりなら止めておきなさい。戦いになって、あんたが殺されて終わりよ」

それは偽りのない事実。
士郎に先入観を植え付ける為ではない、純粋な気遣いによって、凛はそれを口にした。

「何でそう断言できるんだ? やってみなくちゃわからないだろ。
 こっちにはセイバーがいるんだからさ」

眉を寄せ、士郎が不機嫌そうに呟くと、凛は首を振った。

「そういう話じゃないの。衛宮くんとあいつでは心構えがまるで違う。
 七夜志貴は明らかに魔術師として完成されている。きっと人を殺す覚悟がある。
 けど、衛宮くんは相手がマスターだとしても殺す覚悟がない」

「俺にだって覚悟ぐらいある。
 自分の意志で参加したんだから、殺されたって文句は言えないだろ」

強くなった声に乗る意志は偽りの無いものだった。
士郎は己に、そして参加する全てのマスターにその覚悟を以って聖杯戦争に参加した。
だが、凛はその強い覚悟を聞き、やはりと顔を歪めた。
まるで理解を示さない士郎に、避け続けていた事実を突き付ける。

「それは殺される側の覚悟よ。そんな能動的な覚悟になんの意味があるって言うの?
 そんなもの誰かを殺した後、自分の行為を正当化する為ぐらいにしか役に立たないわ。
 もう一度言うけど、衛宮士郎には殺す側の覚悟が無い。そんなんだからあんたは殺されるって言ってるのよ」

「それは―――」

「言い訳は要らない。自分で言った事なんだから認めなさい」

有無を言わせぬ強い眼差しに、士郎は黙り、小さく頷いた。
だからといって凛の表情が緩むことはない。冷厳な態度で押し黙り、士郎に言葉を求める。

「確かに俺には殺す覚悟が無いのかもしれない。
 それに、あいつが悪い奴かどうかを調べるのも難しいって事はわかった。
 けど、それと巫淨さんを人質にするのは話が別だろ」

「そうね。でも、それほどずれている訳でも無いわ。
 衛宮くんの目標は出来る限り被害を抑えて聖杯戦争を終わらせる事なんでしょ?
 その為には戦わない事が最良の手段だってことぐらい気付いてるわよね。
 戦わず七夜に勝つためには、相手が動くに動けない状況を作り出す事が一番現実的だわ」

士郎は押し黙る。
その沈黙は言葉の正しさを認めたというより、正しさを探しているように思える。
例え合理性があったとしても、そこに過剰な行為があれば、士郎にとっては間違いとなるようだ。
しかもその天秤は激しく望まない方に傾いているらしく、拒否の色が見え始めた。

「はぁ…固いわね。
 じゃあ、今回私の我を通す代わりに、士郎の言う事を一つだけ何でも聞いてあげる。
 料理だって、買い物だって、何だって聞いてあげるわ。これなら文句無しで等価交換でしょ」

凛が微かに頬を染めて告げると、士郎はそれ以上顔全体を紅潮させて狼狽えた。

「なっ…!? それはおいし…じゃなくて。何でもって、なに言ってんだ遠坂?」

「あら? 衛宮くんは私にナニをさせるつもりなの?」

興味津々といったふうに凛が身を乗り出した。
ただでさえ狼狽していた士郎は机という境界を失い、危うく自我まで消失してしまいそう。
さながら赤い悪魔といったように士郎を追い詰め、凛はニンマリと笑う。

「ば、…っか。遠坂が変な事言うからだろ」

「そうです。色仕掛けとは見損ないました」

確信的な微笑みにもたじろぎ、士郎はノックアウト寸前まで追い詰められた。
返す言葉は喉に突っかかり、本題すら頭から飛んでいる。
それを見かねたのか、沈黙を守っていたセイバーが割って入った。
拗ねたように口を結んでいるのは、おそらく気のせいだろう。

「いいじゃない。衛宮くんも満更じゃないみたいだし。
 それに、私は代価として提案しただけ。
 どう解釈するかは衛宮くんの勝手なんだから、どんな想像をしちゃったかは衛宮くんのせいでしょ?」

凛が悪戯に笑い、セイバーの眉がますます寄る。

「そうですね。確かにシロウにもやましい所があったのでしょう。
 しかし、凛。貴方もそれを狙ったのだから同罪だ」

「まぁね、否定はしないわ。それより、どうなのよ士郎は。
 過程はともかく、結果として誰も傷つかずにマスターを減らせて、その上私への命令権も貰えるのよ?
 条件としてはこれ以上ないってぐらい良好だと思うけど」

セイバーとのじゃれるような柔らかなものとは正反対の真剣味を帯びた声。
既に冷静さを取り戻していた士郎は覚悟を決め頷いた。

「…わかった。俺も協力するよ」

存外容易に頷いた士郎を見て凛はポカンと口を開けた。
反論される事を予想していただけに、好転してしまった状況について来れないようだ。
呆けている凛に代わり、セイバーが驚きの表情のまま訊ねた。

「ずいぶん思い切りが良いのですね」

「そういう訳じゃない。
 誰も殺さず勝ち抜くつもりで、潔く戦おうだなんて虫のいい考えだと思ったんだ。
 それに遠坂には魔術の鍛錬に付き合ってもらったり、色んな借りがあるから。
 だからあいつを倒す方法がそれしかないなら、俺も協力する」

凛は一瞬驚いたように目を見開いたが、すぐに表情を消した。

「そ。士郎が納得したならそれでいいわ。
 じゃあ、士郎も放課後教室で待機。人気がなくなったらセイバーに合図して、私のクラスの前にいて」

「わかった」

了解とはほど遠い、未だ迷いを断ち切れない表情で士郎が頷く。
信念の一部とも言える方針を変えたのだ。その覚悟の大きさを知る凛は仕方ないとため息を吐いた。
そして、それほどまでに自分を信頼してくれている事を知り、恥ずかしさに顔が赤らんだ。

「衛宮君の信念は私も知ってる。それを曲げるような事を私が強要するはずないでしょ」

せめてものお返しとして、小さな誓いをここに立てた。
同盟を組んでいる間は決して衛宮士郎を裏切らないと。
恥ずかしさを誤魔化すようにそっぽを向く凛を見て、士郎も笑みを零す。

クゥ

その時、小さく、セイバーのお腹が鳴いた。
恥ずかしさに俯くセイバーに遠慮もなく音源に視線が集まり、陽気な笑い声が上がる。

「なっ! 二人とも失礼です。謝罪として早急に朝食の用意を要求します」

顔を真っ赤にしたセイバーがいきり立ち、自然と話が終わっていた。
士郎が逃げるように台所に向かい、凛がセイバーを宥める。
そこには殺伐とした空気など微塵もなく、清涼な朝の居間があった。
ちなみに、朝食がいつもより豪勢になった事は言うまでもない必然。





◇◆◇◆

「―――という事を考えてくるかもしれない。
 だから六花も周りには気を配っていて欲しい」

珍しく早起きをした志貴が対面に座る少女に真剣な眼差しを向けた。
眼帯越しにもその気迫が伝わったのか、六花は食事の手を止めて頷いた。

「うん、わかった。人気の無い場所には近づかないよ」

「シキ。念の為リッカに同行しましょうか?」

志貴の横に座るライダーが己のマスターを見ながら提案した。
彼女にしては珍しく、話の腰を折るようなタイミングで口を挟んだ。
しかし、六花はもちろん志貴も驚きはしなかった。
頷いている六花には非常に失礼な事だが、志貴も微かに悩んでしまっていたからだ。
理解が正確且つ迅速なのは結構だが、記録する所で何か間違った変換が起きているように思えてならない。
二人の前に座る六花は真面目に・・・・笑って頷いたのだ。
まるで危機感が足りない対応をされると、護衛を付けるべきか迷ってしまおうと仕方がない。

「うーん…返って危険かな。他のマスターの事も考えると…。
 それに、見た感じ遠坂は相当切れる。最悪、マスターが誰なのか気付くかもしれない」

「そうですか。貴方がそう判断するなら従いましょう」

それほど強く要望した訳でもないのか、ライダーはあっさりと頷いた。
もちろん志貴の推測に希望的観測が無いかを検討し、志貴があくまで無難な意見として提案した事も理解している。
凛と士郎を除く最大で三組残っているだろうマスターの存在を考えると、六花とライダーが共に行動するのは危険極まりない。
彼らには先入観・・・が無いだけに、誰がマスターなのか容易にわかってしまう。
加えて遠坂凛ならば、先入観に踊らされ『護衛を付けた』と解釈せず、六花がマスターである可能性を危惧するかもしれない。
それを考慮すると、昼間という限定期間はあるが滅多な事を出来ない学校で無防備を晒す方が幾分か安全に思えてしまうのだ。
そうでもなければライダーが万が一とはいえ、マスターの危険を見逃すはずがない。

「遠坂さん鋭そうだもんね」

そんな二人の不安を察したのか、六花の顔は取り繕ったとは思えない真剣味を帯びていた。
先のは何の冗談なんだと問い質したくなるような様変わりに二人は呆気に取られ、六花がトーストを囓る姿を眺める。
その自然な態度が、演技である事を否定する。六花は感じるままに感動しているのだと。
牛乳で喉を潤した六花が顔を向けると、志貴は慌てて頷いた。

「でも、注意するのは遠坂だけじゃないからな。
 衛宮は騙し討ちをするタイプに見えないけど、裏をかいて衛宮が実行するかもしれない」

「うん、わかった」

最後の一欠片を口に放り込み、六花は頷きながら立ち上がった。
早起きといっても志貴は六花の十分後に起床した。
それなのに長話をするものだから、既に時間は限界なのだ。
急ぎ食器を水に浸け、六花は自室から鞄を取ってきた。

「いってらっしゃい」

ローファーを引っ掛けてドアから飛び出そうとした六花に向けて、二つの声が重なって届いた。
時間が無いというのに六花は振り返り、満面の笑みを浮かべる。

「いってきます」

六花が出ていったドアが閉まり、二人の顔に不安が浮き出る。

「大丈夫かな」

「リッカは聡い。おそらく・・・・大丈夫でしょう」

ライダーが微かに笑い、志貴もつられてしまった。

「不謹慎だな」

「そうですね。いくらリッカでもこの状況で相手から情報を得ようなどとは考えないでしょう」

しかし、二人の表情はまだ冴えない。
引き際が悪い六花だからこそ、ライダーは助けられ、志貴は出逢った。
その事実を考えると不安を拭えるはずがないのだ。

「決して無理はしないでください。リッカ」

ライダーの呟きは祈りに似ていた―――

一方の六花は、ドアから飛び出した勢いに任せて突っ走っていた。
遅刻寸前の六花にとって、得難い幸せの為とはいえ数秒のロスは大きい。
それを取り返すには地獄のような坂を駆け抜けなければならないだろう。
柳洞寺の階段前を通り過ぎ、学園に繋がる坂道に出た。
普段ちらほらと見える生徒の姿は皆無であり、六花の遅刻を示唆している。
その光景を見て脳裏に『もういっかなー』と諦めが生まれ、六花は己を叱咤して更に足を速めた。

坂を上りきり、校門に入った所でHRを告げる鐘が聞こえた。
もともと運動を苦手とする六花にとって、坂ダッシュで限界まで上がった息を整える暇が無いのは拷問に等しい。
ふらふらと左右に揺れつつ六花は歩き出した。
葛木教諭が担任という時点で判定に揺るぎは無く、一秒でも一分でも遅刻は遅刻となる。
それでも休憩せずに教室に向かうあたり、六花は真面目なのかもしれない。

「巫淨。席に着きなさい」

息を整えた六花が教室に入ると、葛木教諭は一瞥してそう言った。
連絡は終わっていたらしく、名簿に何かを書き加えた葛木教諭はお決まりの科白で教室を出ていった。
遅刻した生徒にとって葛木教諭の寡黙は恐ろしい。
責められている訳でもないのに、自分が悪い事をしたのだと強く自覚させられてしまうのだ。
重圧から開放された六花がほっと一息つき、強張っていた肩を弛緩させた。

「おはよう。巫淨さん」

ぴく、と六花の肩が微かに跳ね、おそるおそる顔が上げられる。
声の主は朗らかな笑みを湛え、六花の前に立っていた。

「おはよう、遠坂さん」

言いつつ重心を浮かし、いつでも椅子から跳べるように身構える。

「そんなに緊張しないで。騒ぎになるような事をするつもりはないわ。
 今日よかったら昼食をご一緒しませんかって誘いに来ただけだもの」

「え?」

合気を修める六花の動きを容易く見抜き、それが何でもない事かのように昼食に誘う。
凛の超人的な性能に、呆気に取られた六花は凛の言葉を理解するのに数秒を要した。

「えっと…」

そして、一度主導権を握られた六花は露骨な警戒を凛に示してしまう。
凛は苦笑いを洩らし、小声で呟く。

「安心して。そんなつもりじゃないから。
 場所は屋上だけど、昼間にどうこうできるはずがないわ。
 他のマスターの事で七夜くんに伝えて欲しい事があるだけよ」

二度も警戒を見抜かれ、隠す意味がないのだと気付き、六花は困惑を顔に出した。
ライダーから聞いたサーヴァントの性質を踏まえると、相手の情報は最も重要な部類に入る。
凛もこちらがそれを理解している事を前提に話をしているのだろう。
とすると、それが六花を罠に誘う餌である可能性は高い。
しかし、凛が言うように昼間の屋上で人ひとりをどうこう出来るとは、例え人気が無いとしても思えない。
凛の性格からして、得られる情報は事実だと言い切れる。
だとすると、罠であろうとなかろうと有益である事には変わりない。

「…わかった。よろしくね」

「ええ」

凛は軽く頷き、自席に戻っていく。
まるで六花の考えを全て見抜いているような笑みが、心をざわつかせた。





◇◆◇◆

ビルが立ち並ぶ新都のオフィス街。
朝と昼の間であるこの時間帯では、外を出歩く人間は数える程しかいない。
その数人も忙しなく足を動かし、まるで何かに追われているようだった。
会社を集中させた新都では珍しくない光景だが、それを見る志貴はつまらなさそうに肩を竦めた。
昨日柳洞寺だけで調査の手が止まった二人は中央公園を探索すべく新都を訪れた。
人が溢れる様を期待した訳ではないが、吹き抜けのような寒々しさはいただけない。
仮に他のマスターが新都を根城にしているなら、既に二人の存在は位置に至るまで把握されている事だろう。
もっとも、志貴の出で立ちが異質である為、隠れ蓑は端から期待していないが。

「どうしようか」

志貴とライダーが懸念しているのは、相手が仕掛けてくるかもしれないという事だ。
これだけ閑散としている場所に結界を張れば、昼間であっても外界と隔離できてしまう。
現在二人を観察・・しているマスターを刺激しないように志貴はこれからの行動を見直していく。
ライダーもそれは承知なのか、志貴の呟きは独り言になった。
志貴の言葉に応える為には現界しなければならず、それが引き金になる事をおそれたのだ。

「あ、ごめん。そうだな…気味が悪いし、中央公園だけ見てさっさと帰ろう」

遅れて気付いた志貴は頭をかき、体の向きを直角に変えた。
三日前に一巡を済ませていた志貴だが、せっかくライダーがいる事だしともう一度新都を回るつもりでいた。
しかし、新都に着いてぶらぶら歩いていると、いつの間にか何者かに観られていた。
気付いた時に撒こうと試みたが、どうやら相手の方が上手のようで視線は張り付いたままだった。
そしてライダーに提案を持ち掛け、それが失策である事に気付いて今に到る。

ビルの谷間を抜けると、一気に視界が開ける。
枯れ木が散在する中央公園はオフィス街に輪をかけて人気がない。
半ば予想していた事だが、志貴は中央公園に寄るかどうか逡巡した。
冷静に観察すれば、この公園が重要な要素を占める事などあり得ない。
空気が淀み、草木はおろか人にまで影響を与えている事を除けば、ここは徒広いだだっぴろい公園に他ならない。
志貴が調査の必要性を感じたのも、異常なまでの空気の歪みがあったからだ。
つまり聖杯戦争を勝ち抜く上で、なんの障害にもなり得ない場所。それが中央公園。
先日見つけた学校のように、一般人に多大な被害が発生する可能性もゼロに等しい。

かといってこのまま帰るのも負けたようで嫌だった。
志貴は外を確認できる範囲までと定め、公園に足を踏み入れた。

―――ドクン

視界がぐにゃりと歪む。
螺旋を描くように、天と地が混ざり合うように、世界が踊り出す。
踏ん張ろうとした足は綿を踏むように沈み、体が宙に浮く。
浮遊するように緩やかに、あるいは飛び降りたように華やかに。
落下する感覚。
右頬に衝撃。冷たい。ざらざら。
嗅覚は麻痺。なのに香る鉄錆びの匂い。
呼吸ができず胸に手をやる。
感触は皆無。
世界しかいはいつの間にか赤く。黒い影が嘆き。嗤い。啼く。
聞こえぬ言葉が耳朶を―――シネ―――咬み切り。
蠢く指先が―――タスケテ―――体を這いずり回る。

「―――」

再びの浮遊。重力から解き放たれた体は翼。
そして、落下、暗転。





◇◆◇◆

「遅い」

仁王のように憤怒の形相で士郎を睨めつける凛。
昼休み開始から早二十数分。それはチャイムと同時に屋上に来た凛と六花が待った時間と等しい。

「わ、わるい。ちょっと美綴と話してたんだ」

止せばいいのに馬鹿正直に弁解し、士郎は自らの首を絞める。
怒り心頭だった凛はその言葉に、怒りそのものとなって士郎との間合いを詰めた。
ずんと凛が一歩を踏み出すたびに士郎の恐怖は跳ね上がり、生物としての本能が体を後退させる。
しかし、大股の一歩と震える足を動かしての一歩が同じはずがなく、敢えなく眼前で見つめ合う形になってしまう。
人を殺しかねない視線を浴び、士郎は姿勢を正して直立した。

「士郎」

舐めるようにねっとりと、底冷えした声で凛が囁く。
竦み上がった拍子に、士郎が手に持っていたビニル袋が床に落ちた。

―――シヌ?

音にされなかった言葉ノロイを確かに士郎は感じた。
士郎の反応に満足したのか、凛はにっこりと笑って踵を返す。
唖然とした表情の六花と目があった。

「あ、あはは」

互いに見てはいけないものを前にしたように、乾いた笑い声で誤魔化し合う。
その間に復活した士郎が奇跡的に無傷だったサンドイッチを片手に凛の横にやってきた。
凛の顔色を伺い、トマトサンドと温くなった紅茶の缶を渡す。
手ぶらで屋上にやってきた凛は目に見えて喜び、士郎と目が合うと仏頂面でベンチに座った。
まるで供物を捧げているかのようなやり取りに、まんまその通りなのだと六花は吹き出した。

「どうしたの?」

独りでに笑い出した六花に凛は怪訝な顔を向ける。
首を左右にふって何でもないと伝えると、どうでも良かったのか凛は引き下がった。

「それで、衛宮くんは綾子と何を話してこんなに遅くなったの?」

前回同様二人と肩を並べるのが恥ずかしいらしく、士郎は手持ち舞沙汰な様子で立っていた。
急に声をかけられ軽く驚いたのか、士郎はピタリと体を停止させた。
言いずらそうに口を開閉させ、士郎は困惑気味に説明した。

「えっと、今日桜が休んでるらしいんだけど、何か知らないかって」

意外にも凛は反応し、眉をひそめる。

「なに? あの子休んでるの?」

「そうらしい。家から連絡もないんだってさ。
 それで、美綴は俺なら何か知ってるかもしれないと思ったらしい」

ふーん。と呟き、凛は手を顎にあてた。
六花は不自然にならない程度に耳をそばだて、脳の半分で『桜』について思案した。
士郎と凛は、欠席した知り合いを心配しているには過剰な反応を見せた。
そこから見るに、桜―――誰なのかわからないが―――という人物はこの二人にとって特別な存在なのかもしれない。

「衛宮くん何か知ってるの?」

「何も知らなかった。桜が学校休んでる事すらさっき知ったんだ。
 そういえば慎二も最近学校に来ないだろ? だから家の方で何かあったんじゃないかって美綴が不安がってた」

「へぇ…慎二も学校に来てないんだ。たしかに怪しさ爆発ね。
 でも、悩むだけ無駄よ。心配なら見舞いに行けばいいんだし、今は巫淨さんもいる事だしね」

凛がちらりと六花に視線を投げかけた。
存在を忘れていたらしい士郎が謝ってくるのを、手を左右に振って軽く受け流す。
予め買っておいた調理パンの包みを開け、六花はクリームパンにかぶりついた。

「別に気にしないでいいよ。友達が連絡もなしで休んじゃったら心配だろうし」

「もう済んだから巫淨さんこそ気にしないで。
 周りが過剰に心配してるだけで、実際大した事ないんだから」

突き放すような物言いに士郎が口を一文字に結ぶ。

「む。そういう言い方は無いだろ」

蒸し返された事に対してか、凛は不機嫌さを露わに士郎を睨み付ける。
一見するとそれだけに見えるが、凛の表情には僅かに焦燥も混じっていた。
しかし、漠然と眺めていた六花は見逃してしまう。
慎二という生徒に聞き覚えがあり、名字を思い出そうと躍起になっていたのが拙かった。

「うるさいわね。士郎は黙りなさいよ」

「なんでさ」

「とにかくその話は終わり。文句ある?」

凛に睨まれ、士郎は渋々頷く。

「わかったよ。遠坂」

「ふん。―――ごめんね。せっかく時間をもらったのに。ってもう全然時間ないじゃない!?」

時計を確認し、既に昼休みが五分と残っていない事に凛は肩を落とす。
要領よく食事を終えていた六花は検索を中断し、パンの包みを畳んだ。

「あはは。楽しかったからいいよ」

「あーもう…巫淨さん放課後少し時間もらえる?
 教室でささっと重点だけでも言っておきたいんだけど、どう?」

あくまで自然に。成り行き上こうなってしまったのだからと凛は提案した。
疑ってかかっていた六花から見てもそこに疑念の余地はない。
事実、天が自分たちに味方をしているのではと疑いたくなるほど、昼のこの出来事は偶然だった。
だが、例え偶然であろうと、放課後に残る事が危険でないという証明にはならない。
かといって凛は要約して時間を掛けずに済ませると言っている。
それはこちらの安全を保障するという意味にも取れた。

「うん。いいよ」

まだ・・大丈夫だと判断し、六花は頷く。
凛はありがとうと頷き、トマトサンドの包みを開いた。
士郎も同じように焼きそばパンの包みを破っている。

「じゃあ先に教室戻ってて。この馬鹿にお灸据えたら私も行くから」

士郎を指差し、にんまりと笑う凛の意図を察し、六花は笑いながら席を立った。
また後でと手を振り、六花が校内に入っていく。

「ふう。あんた何やってんのよ」

途端、凛は足を投げ出しベンチに身を預けた。
緊張の糸がたった今途切れましたと言わんばかりの脱力ぶりだ。
原因をまったく掴めない士郎を一瞥し、凛はため息のように呟いた。

「あのね、桜の事。こっちの弱点教えてどうすんのって言ってるのよ」

「あ」

「あ。で済むか馬鹿。巫淨さん薄々勘づいてたわ」

これから弱点を攻めようとする二人にとって、その脅威は口に出さずとも理解できた。

「わるい」

「もうやっちゃったんだから仕方ないでしょ。
 それにまだはっきりと『大切です』って口にした訳でもないもの」

凛は豪快に、しかしちんまりとトマトサンドを食いちぎり、紅茶で喉に流し込む。

「とにかく、こっちの弱点は極力隠すこと。それが例え今日倒す相手であってもね」