◇◆◇◆

「ではHRを終了する。日直は日誌と戸締りの確認を。部活動のない生徒は速やかに帰宅するように」

お決まりの科白でホームルームが終わり、クラスが喧騒に包まれる。
皆が好き勝手に騒ぎ回る中、六花は大きな欠伸をかみ殺していた。
寝起きに頭を使い、学校まで走ったせいなのか、普段通りの生活リズムを保っているはずなのに眠気が襲ってきたのだ。
涙でぼやけた視界を巡らせると、自席でノートを整理している凛がいた。
どうやらある程度人気が無くなるまで待つつもりらしい。
物騒な話をしようとしているのだから当然の判断だが、空き時間を有効に使おうとしている所が自分バカとの違いなのだろう。

ふと、何日か前にも同じような状況があった事を六花は思いだした。
あの時は互いに互いの目的を看破してしまった為、気まずい思いをしたことを覚えている。
もっとも、今もそう変わらないのだが、それでも幾分かましだった。

前の方で雑談をしている四、五人を残し、廊下の喧騒が遠のいた頃に凛は立ち上がった。
トントンと机を指で弾きつつ、軽やかな足取りで六花の席に歩み寄る。
やることのなかった六花はすぐに凛の接近に気付き、窓側の席に座るよう誘導した。
万が一を考えての措置だが、警戒しておくに越したことはない。
六花の意図に気付いたのか凛は困ったように笑い、素直に指定された窓側に座った。

「それじゃいきなり本題に入るけど、いい?」

六花は頷く。

「―――そうね。まずバーサーカーについて話しておくわ。
 マスターはイリヤスフィール・フォン・アインツベルン。真名はヘラクレス。
 七夜くんにはそれだけ話せば通じると思うんだけど、あなたも理解しておいた方が話しやすいだろうから簡単に説明しておくわね。
 アインツベルンは聖杯戦争を始めた魔術師の内の一つ。
 本当は他にも二つの家が絡むんだけど、ここで説明したら混乱を招くから省略します。
 アインツベルンは何度か聖杯に手が届きそうになったと聞くわ。
 その中でも、今回のマスターはおそらく歴代最強のマスターでしょうね。
 本来バーサーカーは理性を引き替えに、弱いサーヴァントを強化する為のクラスなの。
 本来、弱いサーヴァントを使役するための負担は軽い。
 それでもバーサーカーとなったサーヴァントを制御できず自滅していくマスターばかりなのに、あのマスターは大英雄であるヘラクレスをバーサーカーとして制御している。
 マスターとしての格で勝てる相手じゃないわ」

苦い話をしているはずの凛の顔が生き生きとしている。
内容がなんであれ、誰かに説明する事が好きなのかもしれない。

「肝心なサーヴァントについての情報がまだだったわね。
 宝具は『十二の試練ゴットハンド
 死んでも十一回蘇生レイズするっていう反則もの。
 加えて、アイツ自体の特性かもしれないけど、一定値以下の攻撃は全て無効化するわ。
 うちのサーヴァントが一度倒したから蘇生のストックは十回だけど、それでも反則に変わりはない。
 基本性能は段違いだし、まだ切り札を隠してる可能性もある。
 間違いなく今回の参加者の中で最強のペアよ」

「えっと…それって倒しようがないんじゃない?」

「そうね。一対一の白兵戦じゃまず敵わない。遭遇したら逃げる事をお勧めするわ」

「わかった。気を付けます。それで、もう一つは?」

凛は記憶を辿るように、目を天井に向けた。
いつの間にか前の方で話していた生徒はいなくなり、静寂が耳に痛い。

「もう一つは今回のマスターの中で、一番危険な人物について」

心臓が、大きくなったような気がした。

「先に話したけど、イリヤスフィールはマスター・・・・としての性能は段違い。
 今回参加した中で最良でしょうね。
 けど、今回の参加者の中にはもっと危険な人物がいる。
 おそらく、魔術師としての戦闘力でならそいつが一番でしょうね。
 そいつのサーヴァントは不明だけど、消去法でいくと残るクラスは一つだけになる」

教室の空気が止まった。
凛は試すように六花を見つめ、視線を逸らさない。
危険だ。これ以上ここに留まるな。
そうわかっていながら、鼓動は不思議と平静を取り戻していた。

「ライダーよ」

表情は変わらなかったと思う。

「―――当たりみたいね。ついでに言うとそいつの名前は七夜志貴」

凛の背後で空気が歪む。
サーヴァントを現界させようとしているのは説明されずともわかった。
一秒も待たずにそれは現われるだろう。
だが、その一秒を待つつもりなど、六花には毛頭なかった。

両側にあった机を弾き、体を浮かせて椅子を蹴飛ばす。
狙い違わず凛の腹部に向けて飛び、凛は回避行動を取らざるを得ない。
六花は命中を確認する間も惜しんで体を反転、全力でドアに向かう。

ガラッ

しかし、六花の手が掛かるより先に、ドアはひとりでに開いた。
最初に見えたのは白銀の篭手。
続いて入って来たのは自分より年下の可憐な少女だった。
甲冑に身を包んでいるという事を除けば、否、例え除いたとしてもその容姿は無二の壮麗さを纏っていた。
その姿を視界に捉え、六花は逃走を諦め、足を止めた。

「賢明な判断です」

下段に構えていた何かを解き、セイバーは六花を見て頷いた。
鋭いはずの眼光は恐怖でなく憧憬を抱かせる。
敵であるはずの少女に見惚れてしまう自分に呆れながら、それでも六花は少女から目を離せなかった。
遅れて反対のドアから入ってきた士郎が、セイバーと向かい合う六花を見て安堵とも後悔ともつかぬ顔をした。
自分が誇れぬ事をしていると自覚していようと、誰も傷ついて欲しくないという願いは変わらず持っている。
反対側の進路も塞がれ、元々無謀だった逃走を六花は完全に諦めた。
窓側の赤いサーヴァントと凛、ドアの少女と士郎を順に見て、しずしずと自席に戻った。

「ありがと、セイバー。危うく出し抜かれる所だったわ」

「凛。貴方は油断しすぎだ。私たちが控えていなかったら逃げられていたかもしれない」

六花を威圧しないようにという配慮なのか、セイバーは近寄らずに話す。
しかし、その為にドアの片方が完全に通行止めであり、六花の淡い期待は完膚無きまでにうち砕かれる。
セイバーが遙か格下の人間を相手に油断するかもしれないと思っていたが、どうやら無駄だったようだ。
といっても、サーヴァントに挟まれている状況でどうこうできる訳もなく、どちらにしてもただの現実逃避でしかない。

「仕方ないでしょ。サーヴァント相手に逃げようとするなんて思わなかったんだもの」

「凛。君はいつも詰めが甘いな」

アーチャーは片手で鷲掴みにしていた椅子を静かに降ろし、六花の前に置く。
上手く受け止めたらしく、あれだけの勢いで蹴り飛ばした椅子に目立った傷は無い。
一応礼を言って座ると、アーチャーは律儀に腰を折って会釈を返した。

「あんたは黙ってなさい。だいたいあんただって振りきられそうだったじゃない」

「それは君をその椅子から守ったためだ。君が躱すことが出来ていたなら捕らえていたよ。
 巫淨といったか…こちらを必要以上に刺激しない手段でマスターを狙うとは君もなかなか強かだな」

アーチャーが凛をけなし、六花を褒めて肩を竦める。
実際はセイバーが控えていたので、追う必要がないとわかっていたからだが、敢えてそれを言わない。
案の定凛は激昂し、頭に血を上らせた。

「っこの不良サーヴァント。あんたは見張りでもしてなさい」

「従おう」

凛の暴走を十分に堪能したのか、アーチャーは嫌味な笑いを顔に張り付けて窓に向き直った。
まだ何か言いたげな凛は赤い背中を睨み付けるように一瞥し、不満そうな顔で六花の前に座った。

「ごめんなさいね。とりあえず自分の状況は理解できてる?」

凛は微かに困ったような表情で訊ねてきた。
凛たちが雑談をしている間、状況を整理する時間をたっぷりもらっていた六花は渋々頷いた。

「私は捕虜で、志貴ちゃんの令呪を放棄させる事が目的?
 それとも私を殺して志貴ちゃんを炙り出そうとでもしてるの?」

「いいえ。七夜くんの令呪を破棄させる事が私たちの目的よ。
 無理やり捕まえておいてなんだけど、言うことを聞いてくれればあなた達に危害を加えるつもりはないわ。信用して」

そう言うと、真っ直ぐに逸らすことなく六花を見つめた。
凛の目が不安や偽証に揺れていたなら六花も騙し合いをする気になれたのだが、生憎そんなものは見たらない。
はぁとため息をついて、六花は背もたれに体を預けた。

「遠坂さん嘘つかないだろうから、信じるよ。静かにここで座ってます。
 でも、志貴ちゃん怒るだろうなぁ。あーあ…どうしよ」

六花の返答に顔を崩し、苦笑いを浮かべながらも凛はピシャリと返す。

「それは諦めて」

「はぁ…」

六花は嘆息を洩らし、俯いた。
その目がまだ希望を失っていないことに誰も気付かない。





◇◆◇◆

「貴方を例えるなら白ね」

黒に身を包んだ志貴を見て、先生は寂しそうに笑った。

「…」

「貴方の構造・・は■■■と同じ。
 違うのは、生きているか死んでいるかだけ。
 何が原因でこうなってしまったのか私にはわからない。
 だから治す事もできない。いいえ。これが治すべき事なのかすら判別がつかないわ」

先生が志貴を抱く。
最近になってわかった事だが、先生は自分が悲しい時も志貴を慰めるように抱き締める。
しかし、泪を流した事などなかった。

「泣かないでください」

だから、志貴は自分が強くなければならないと思った。
今までは無様に垂らしていただけの腕に力を込め、先生の背中に回す。

「志貴?」

「俺ももう子供じゃないです。
 自分で考えたいんです。だから、教えてください」

強く。支えられていただけの自分にさよならを告げ、強く在ろうとする志貴。
その姿は虚勢を張った子供そのもの。
だが、青子はそこに志貴の覚悟を見た。
初めから大人になれる子供なんていない。
自分がそうであったように、もがき苦しんでやっと大人になれるのだ。

「いつの間にか成長してたのね。ずっと傍にいるから気付かなかったわ。
 そうね…これは貴方の事だもの。私のエゴで決めていい事じゃないよね」

ぎゅ、と一際強く抱き締め、青子は腕を解いた。
志貴の肩に手を置き、目線を同じくして見つめ合う。

「きっと後悔すると思う。でも、いいのよね?」

志貴は、頷いた。





うっすらと意識を取り戻し、志貴は白い天井を呆然と眺めた。
懐かしい夢を見たような気もするが、内容はよく覚えていない。
そもそも何故自分は寝ているのか。
今日一日の記憶は靄がかかったように不鮮明だった。
とりあえず呪布を巻こうと辺りを見回すと、線が見えていない事に気付いた。
目元に手をやると、呪布が巻いてあり、湿った感触がした。
どうやら外さずに寝て、夢に泪を流してしまったらしい。

「シキ。気が付きましたか」

志貴が目を覚ましたのに気付いたライダーが、志貴に声をかけた。
声の方に目を向けた志貴は、思わぬ光景に赤面し、慌てて顔を逸らす。
ライダーは誰に命じられた訳でもないのに、立っている事が多い。
今も布団に寝ていた志貴の傍で、ずっと立っていたのだろう。
だのに、彼女の服装はそういった真面目な性格と正反対の挑発的なものである。
そんな格好で寝ている相手の前に立ったら…つまりはそういう事だ。
頭痛が治まらない頭を振りながら、志貴は体を起こした。
これ以上横になっていれば、いつ誘惑に駆られて盗み見てしまうかわからなかったのだ。

「何があったんだ?」

「新都の公園で貴方が倒れました。
 原因は不明ですが、魔力の類は一切感知しませんでした」

ライダーの言葉に思い出す。
あの公園に入った途端、体の自由が利かなくなったのだ。
原因はわかっているし、注意していたつもりだった。
しかし、今まで実際に経験した事がなかった志貴はどこかで気を緩ませていたようで、突然の事に対応できなかった。
すっかり失念していた自分の体質に悪態をつき、志貴は唇を噛んだ。
敵に監視されている中での失態。
本当の原因こそ看破されないだろうが、弱点を教えてしまった事には変わりない。

「原因は俺の体質だけど、詳しい事は話せないんだ。ごめんね。
 でも、あの公園がそういう・・・・場所だってわかったから、次は大丈夫。
 それよりも、監視してた相手は?」

志貴は関節を屈伸させ、体に異常がないかを確認しながら立ち上がる。
体の節々が硬くなっていたが、動作に支障はなかった。
志貴の言い訳をどう解釈したのか、ライダーはそれ以上追及をしようとせず、頷いた。

「貴方が倒れた後も、新都を出るまでは監視を受けていましたが、仕掛けてきませんでした」

「戦闘が目的じゃなかったって事か?」

志貴が怪訝な顔でライダーを見た。
昼間とはいえ、その気になれば戦闘も可能な場所で他のマスターが倒れたのだ。
常識で考えるなら、聖杯戦争に参加しようと思うような魔術師が、その好機を見逃すはずがない。
ライダーは顎に手を当てて思案していたが、僅かに頷いた。

「おそらくは。
 監視にしても、消極的であった為に私たちは振り切る事も辿る事もできませんでした。
 相手は私たちを観察する事だけが目的だったと思います」

ライダーの意見は事実から見ても矛盾がない。
だからこそ志貴は首を傾げた。
監視とは本来、敵の動静を把握し、なんらかの行動を起こすために用いる手段だ。
今回は動くつもりがなかったと言えばそれまでなのだが、千載一遇の機会が巡って来た時も予定に準じる必要が果たして相手にあったのだろうか。
計画的で慎重なのか、それともライダーの言うようにまったく別の目的があったのか。
結論を出すには情報が足りなさすぎた。

「一応警戒はしておこう。今回は見逃されたって可能性もあるんだからさ」

「はい。それで、これからどうしますか? 休むのであれば私は控えていますが」

「いや、大丈夫だよ。体も普段通り動く」

そう言って志貴は屈伸運動をする。
起きた時は死後硬直のようにギチギチとしていた関節が、滑らかに作動する。
動作に歪みがないのを見取ったライダーは頷いた。

「わかりました。では、どうしますか?」

「一緒にお茶でも飲まない? さすがに無茶をする気にはなれないよ」

志貴が冗談めかして笑うと、ライダーの表情が固まった。
一見して対応できずにフリーズしたようにも見えるが、それにしては纏う空気が尋常ではない。
顔から血の気が引いていき、体の震えが長い髪に伝わり揺れる。
ライダーは壁の一点を見ていた。
足元から虫が這い上がってくるような、そんな怖気が背筋を粟立たせる。
志貴が知る中で、その方角にいるのは一人だけだった。

「危ない」

その言葉の意味を理解するのは容易かった。
机の上に置いてあった刀を腰に差し、外套をひっつかむ。
ライダーは志貴の装備を脱がさずに布団を敷いたようで、それだけで武装は完了した。
迷わず部屋から飛び出し、学校に向かう。
後に続くライダーが何かを叫んだが、志貴の耳には届かなかった。

強化した足でアスファルトを抉り、一踏みごとに加速する。
自分でも理解できない何かに突き動かされ、志貴は駆けていく。
顔は引きつり、そこに余裕はない。

―――失いたくない

六花の顔が頭に浮かび、何かと重なった。
懐かしいと思う反面、駆ける地面がばらばらに崩れ、奈落に落ちていくような不安が胸に生まれた。
朱が一滴こぼれ落ちる。
気付けば鼻に、鉄錆びと肉の焦げた臭いが付いた。
夜の闇を覆うカーテンは木々で、舞台は腐葉土で敷き詰められた絨毯。
開幕の瞬間ときを今か今かと待ちわびる観客は不揃いの恰好。
昏い空は作り物めいていて、継ぎ接ぎした“跡”が残っていた。

「―――」

そっか。と主演の人形が呟く。
ツギハギだらけの空には綺麗なお月様。
傷一つない硝子細工のようなそれが、朱に濡れて僕を見下ろしていた。
その姿が白い花と重なるんだ。
赫と白。弱い花は自らの色を失い、朱に浸食された。
不吉の予兆が守りたいものを浸食する。
白に抵抗は許されず、違う物に変わっていく。
何を守るのか、どうして守るのか、それすらわからなくなり、ただ走り続けた。

―――何も守れない

それはいつの・・・後悔なのだろうか。
少し。二年。八年。それとも、もっとずっと前。
ノイズのかかる記憶は濁流。
途切れた端を掴もうと手を伸ばし、流れに飲み込まれ翻弄される。
視界を失い、自分を失い、誰かを失い、慌てて手の平を握りしめた。
何も失わないように、守り抜く。
濁流に洗われる心は伽藍。
何かを詰め込んで行こうとフタを失った箱は容易く中味を暴かれる。
戦うたびに何かを失う。
まるでそれを象徴するかのように、開いた手の平は空っぽだった。

―――誰も守れない

だからこそ強くなった。
誰かの命を背負えるように。握った手を最後まで離さぬように。
しかし、何も変わらなかった。
守れるのは己だけ。時には誰かの手自ら握り潰してしまうことさえあった。
あまりの理不尽に涙が流れた。
戦う事が辛いわけじゃない。守る対象が、結局自分だという事が哀しかった。

一対の金眸が、僕を見下ろす。
どこかで見たような気がして、嗤った。
狂ったように、あるいは狂いながら笑った。

「シキ!」

学校が見え、それでも止まろうとしない志貴をライダーが抱え込むように抑えつけた。

「ぁあ…」

志貴の口から漏れるのは呻き。
抑えつけられたことすら気づけず、何かに追いすがるように手を伸ばす。
眼帯から泪を零して誰かの名を呟き、前に進まない体に慟哭する。

「シキ!」

とても正気とは思えない志貴の行動に、ライダーは再度大声を張った。
志貴の状態が尋常でないのは一目でわかるが、原因がまるでわからない。
わかるのは、六花の危険がなんらかの形で係わっているという事だけ。
だが、それ以上の事はまるでわからず、わかっている事すら何の糸口にもならない。

とにかく、相手の感知範囲に、入る前に志貴を止められたことは僥倖と言わざるを得ないだろう。
志貴が正気を失っている状態で戦闘になれば、間違いなく殺されていた。

「失礼します」

だから、殴った。
原因がわからないなら、せめて志貴の正気を取り戻す。
それがライダーのとった次善の行動だ。
六花が危険な状態にあり、時間がかけられない現状ではそれしかなかった。
死なない程度に加減し、コンクリートの壁に叩き付けた。

「え?」

壁にめり込むほど強い衝撃を受けた志貴が、呆然とした表情で左右を見る。
錯乱を起こし、何故自分がここにいるのかわかっていないのだろう。

「どうしたのですか」

一文字ずつ区切るように、はっきりとした声でライダーが訊ねる。
ライダーの質問の意図を訊ねようとして、志貴の顔が驚愕に強張った。

「俺は…そうか」

顔を歪め、志貴は壁から離れた。
自分がどんな状態に陥っていたのか思い出したのだろう。

「すまないライダー。どうかしてた」

志貴が崩れるように膝に手をつき、小さく息を吐き出した。
同じ日に二度も失態を犯した事がさすがに堪えたらしい。
しかし、なんだったのだろうか。
志貴の記憶はライダーに殴り飛ばされるまでの間、眠っていたかのように抜け落ちていた。
思い出そうと呻ってみても、頭に浮かぶものは何もない。
暗幕がかかった舞台の裏で何かをしているかのように、誰かの喋る声だけが聞こえる。
しかし、声も断片的で要領を得ないものばかりで、これといった切っ掛けにはならなかった。
自分が正確に・・・記憶している事に気付かぬまま、志貴は再度息を吐き出すと、立ち上がった。

「大丈夫ですか?」

「ああ。すまなかった。六花を助けなきゃいけないのに、駄目になるところだった」

「それで、どうしますか?」

志貴は呼吸をとめたように静かに、黙考を始めた。
その姿はいつもの志貴のもので、ライダーは気付かれぬように安堵に肩を落とす。

「相手は俺の令呪を狙ってるんだ。俺たちがつけ込めるとしたらそこしかない。
 だから…普通のマスターが絶対に取らない作戦で行こう」

「どういう事ですか?」

「簡単だよ。いいか? まず―――」





「来たぞ。どうする?」

沈殿した空気を重い声が震わせた。
声の主、アーチャーは壁に背を預け、目を瞑っていた。
退屈そうにしていた彼のマスター、凛がやっと来たかとばかりにフンと笑う。

「どこ?」

「今校門を抜けた所だ。そこが私の感知できるぎりぎりの範囲でね。
 このペースだとあと十五秒ほどで接触だが、この教室で待つつもりか?」

凛は自分の前でぐったりとしている六花に目を向け、どうしようかと思案した。
彼女が机に突っ伏しているのは凛たちが催眠術をかけたなどという陳腐な理由ではなく、疲れて眠いからだそうだ。
捕虜の身で大した女である。
扱いやすいから放っておいたが、起こしておいた方が無難だろう。
あらぬ疑いで七夜志貴との交渉が不可能になってしまった場合、下手をすると死人が出る。
何より、このまま寝たままでいられると、何をしでかすかわからないのが凛にとって恐ろしかった。

「巫淨さん。起きて」

うにゅう、と猫が潰れたような声を出して六花が起きた。どうやら本気で寝ていたらしい。いや、大した女だ。
ひとまず六花を起こし、それぞれの位置関係を脳内で図面に起こした。
自分と六花が教室の後ろ、階段から遠い方のドアと自分たちの間にアーチャー。
そして、相手が侵入してくるだろう階段から近い方のドアから三メートル間を離してセイバーが立っている。
士郎はどんな事態にも対応できるように、三ヶ所を頂点とした三角形の中心にいる。
この位置関係なら、相手はサーヴァントが一体しかいないので、ここまで突破されることはまずあり得ない。
一応セイバーを廊下に出してみたが、メリットとデメリットが生まれ、損得勘定で行くと変えない方が無難だ。
仮に戦闘になった場合、セイバーが好きに暴れられる事は頼もしいのだが、如何せん出迎えるのがセイバーだと、こちらが戦闘するつもりで待っていたように思われてしまう。
結局今の配置がベストなのだと頷き、凛は立ち上がった。

「このまま迎え撃つわ。あ、違った! 戦闘は禁止ね。
 相手もサーヴァントを連れてるんだから、セイバーの気配を感じて止まるでしょ。
 その間に交渉をして、令呪を破棄させる。もし断ってきたら問答無用で戦闘。
 セイバーはそっち、アーチャーはそっちのドアから出て、この教室内に敵を入れないように注意して。
 士郎は私の護衛。私は巫淨さんを抑えておくけど、念のため注意してね。この子私より近接戦闘得意そうだから」

「わかりました」

セイバーは満足そうに頷くと、ズシャと鎧を響かせて後ろを向く。

「了解した」

アーチャーは目を開け、壁にもたれ掛かったまま頷いた。

「わかった」

士郎が木刀を手に取り、身構える。
三人が戦闘準備を終えたのを見届けると、凛は腰から両刃の短剣を抜いた。
脅迫するからには一応凶器が必要だろうと持ってきたのだ。
アゾット剣と呼ばれる儀式用のものだが、刃物としての機能も十分に持っている代物である。
形だけでもと六花の首元に添え、凛はごめんねと呟いた。

「校内に入った。あと五秒」

その時、異変が起きた。
ガシャンと窓硝子が盛大に割れ、黒い何かが教室に侵入した。
まとわりつく硝子をぐるんと回転してはね飛ばし、着地すると身に巻いていた外套を跳ね上げた。
中から現われたのは七夜志貴。抜き身の短刀を双手に構え、眼帯に阻まれた視線を凛に向けた。
フワリと上に投げた外套が舞い落ち、志貴の姿を隠す。
そして外套は床に落ちた。

ガキン

響く剣戟は一つ。咄嗟に反応したアーチャーが凛の眼前で斬撃を受け止めていた。
振り下ろされた鈍色の小太刀を交差させた短剣で阻む。
やっと何が起きたか気付いた凛が転げてアーチャーの後ろに回り、更にバックステップを踏んで距離を離した。
腕の中に六花の姿はなく、今その姿は志貴の後ろにあった。
志貴は右手で斬撃を放ち、左手で六花を掴んでいた。
申し訳程度に添えられていた刃物を外すことなど造作もなく、六花は凛の腕から抜け出したのだ。

「はぁっ!」

かけ声は同時。
志貴が幾多もの斬撃を繰り出し、アーチャーのそれに相殺される。
結果としては互角。だが、二人の内情は違っていた。
閃鞘・八点衝による速さに重点をおいた手数に頼った斬撃と、太刀筋を見抜き、それに合わせた重い斬撃。
前者は相手の隙を作れなければじり貧で倒れ、後者は反撃こそ出来ないものの、相手のスタミナ切れを待てば良い。

「士郎! こっちよ!」

凛が二人の斬り合いを目の当たりにして呆ける士郎に喝を入れた。
我に返った士郎は慌てて凛の元に走る。
その上を、青い稲妻が通り過ぎた。

突然の襲撃者に遅れること半秒。
セイバーが志貴を切り伏せるべく弾丸の勢いで迫り、

ガギャ

机をはね飛ばし、急停止した。
志貴に遅れること一秒と半。凛の予想通りのルートでライダーが教室に侵入した。
戦場に咲く花がセイバーであるなら、ライダーはまさしく世界を彩る花だろう。
美麗な容姿をしたサーヴァントの出現に、凛は最悪の事態が起きている事を理解した。
優位に立っていたはずの自分たちが、マスターの単独襲撃というあり得ない手で攻められる側へとシフトしていた。
サーヴァントにわかるのはサーヴァントの位置だけ。
例えばマスターが気配を遮断できるのなら、その行方は辿れない。
そんな当たり前の事実を凛はおろか二人のサーヴァントまでもが見逃していたのだ。
聖杯戦争はマスターを倒せば終わるという認識が、三人の眼を曇らせていた。

セイバーはバネのように停止に使ったエネルギーを足の裏で爆発させ、ライダーに肉薄する。
この教室から出た方が負ける。
互いにそれを理解しているようで、ライダーは両手にもった釘のような短剣を構えた。
不可視の剣を下段に構え、小手調べ無しの全力で放った。

ガキンとライダーが短剣でセイバーの斬撃を逸らす。
魔力を莫迦みたいに込めた一撃を受け止めることはできないのか、ライダーは動く事で斬撃を回避していた。
セイバーが剣を振るタイミングに合わせて体を引き、衝撃を緩和して受け流す。
簡単なようで、命を削るに等しい行為。
狭い教室内でそれを行い続ける事がどれほどの絶技なのか、斬撃を放つセイバーが一番良く理解できた。

「ふっ!」

そして、志貴とアーチャーも似たような、しかしまったく違う仕合いになっていた。
志貴が鋭い斬撃を奔らせ、受ける刀でアーチャーが反撃すると志貴の姿はそこにない。
二人は二メートルの距離を置き、志貴が挑んでは引き、挑んでは引くという繰り返しをしていた。
互いに守るものを抱えている以上、下手に相手の後ろに回ることなど出来ず、それが志貴とアーチャーの行動を著しく制限していた。
しかし、サーヴァントと人の間に横たわる差はやはり大きく。志貴の息が僅かに上がっているのに対し、アーチャーは油断無く双剣を構えている。
都合五度目の挑戦。志貴が予備動作無くアーチャーの前に現われ、その構えにアーチャーは瞠目した。
今まで一度も動かさなかった左手が、右手同様鞭のようにしなっていた。
最初に切り結んだ時から今まで、防御のみに徹していた左手が、初めて攻撃に回った。
圧倒的物量の斬撃が繰り出される。それは斬撃の壁にも等しく、アーチャーは捌ききれずに後退した。

それはたった数歩。距離にして一メートルを僅かに超えるぐらいの違い。
アーチャーを押し飛ばした志貴は口元を歪めた。

「ライダー!!」

志貴の叫びはセイバーの斬撃と重なった。
一撃ごとに大量の魔力を消費するセイバーと、最小限の動きで避けるライダー。
不利になる事を承知で挑んだ戦いだったが、それでもセイバーは焦燥していた。
魔力供給を受けられない現状で、無駄に魔力を使い続ける事がどれだけの自殺行為か悟っていれば当然だ。

その時、志貴の叫びを聞いたライダーが突如として身構えた。
相手は何かを狙っていて、そのタイミングを逃さないようするためにライダーは受け身でいた。
セイバーは直感でそれを感じとり、そこに勝機を見出し、勝負に出た。
渾身の力を剣に込め、後を考えず大降りで振り下ろす。

「なっ!?」

しかし、ライダーは避けずに受け止めた。
先までの斬撃すら受けられるか怪しかったライダーが、渾身の一撃を頭上で留めていた。
絡繰りは単純。先までの斬撃であるなら、ライダーは無理をすれば受け止める事が出来た。
しかし、それを敢えて受けずに避けるとこで、組合を怖れていると印象付け、同時に機会を窺っていた事を隠し、好機が来た時にスキルによる強化で、一時的に筋力を上げたのだ。
筋肉が自らの力に耐えきれず、音を立てて避けていく。
とんでもない威力の斬撃を受けた痛みにライダーは顔を歪めながら、次の行動は速かった。
驚愕に身を竦ませたセイバーの脇腹に横薙ぎの蹴りを叩き込み、壁を突き抜けて廊下に追い出した・・・・・
それは紛れもないライダーの勝利。
思わぬ事態にアーチャーが一瞬そちらに目を向け、その間に志貴の姿が掻き消えた。

「しまっ…」

それこそが志貴の狙いだったと気付いたアーチャーが、危険を承知で再びバックステップを踏んだ。
更なる後退により、アーチャーは六花と凛を結んだ直線の丁度真中に立つことになる。
しかし、それだけのリスクを犯したアーチャーの視界に、志貴の姿は入ってこない。

「上!!」

凛の叫びに上を向く。
天井に、志貴がしゃがんでいた。
四肢を平らに伸ばし、天井に張り付く姿は蜘蛛を思わせる。

「終わりだ」

初めて開いた口は、死刑宣告を紡ぐ。
脚力と重力による加速。爆発的な力によって一瞬で最高速に達し、絶対の死を以てアーチャーに降り注いだ。
途切れぬ剣戟は十、二十、百。
アーチャーの頭上で、足元で、腹部、胸部、至る所で鉄がぶつかり合う。
志貴は鞠のように縦横無尽、否、己ですらアーチャーのどこを斬りつけているのかわからない速度で天井を、床を、机を、椅子を、跳ね回っていた。
方向転換のたびに足場を抉り、粉砕されたそれらがあり得ない脚力によって舞い上がる。
その粉塵の中を幾多の軌跡が通り過ぎ、残響は留まることを知らない。
連なる太刀筋は風の舞い、故に演舞は閃鞘・風祭と呼ばれていた。

「はっ!」

ギィィンと一際大きい剣戟が響き、志貴がアーチャーの後ろに現われた。
その軌跡をなぞるように一筋の血が引かれている。
例え初見であり、経験の無い太刀筋であろうと、アーチャーには無意味であった。
数多の戦場をくぐり抜け、戦士として培った技量、経験が対応できるだけの“予測”を生み出す。
必殺を狙った志貴の一手をアーチャーは悉く受けきり、あまつさえ斬って返したのだ。

しかし、倒れる志貴の口元はやはり嬉しそうに歪んでいた。
例えアーチャーが百戦錬磨の強者であろうと、時間を取り戻す事はできない。
そう、あれだけの斬撃を受けきってしまった・・・・・・・・・
アーチャーがとどめを差そうと振り返った目の端に、ライダーの短剣があった。

「くっ!」

軌道を無理やり変えて、短剣を弾く。
しかし、投擲は次弾への布石、接近を果たしたライダーは突進の勢いを加えて短剣を振り下ろした。
アーチャーは受けきれず、交差させた双剣ごと壁に叩き付けられた。

「シキ!」

叫びに反応し、誰もが崩れ落ちたと思っていた志貴が四つん這いのまま顔を上げた。
志貴は歯を食いしばり、前方を見据える。
そこには目の前の事態に唖然とした二人のマスターがいた。

「待って!!」

ピタリ。と二人の喉元で刃が止まる。
声の主は悲痛な顔で、志貴の背中を見ていた。

「リッカ。何故ですか?」

壁を背にしたアーチャーと鍔迫り合いを続けたまま、ライダーが唇を噛んだ。
セイバーを外に追いやり、マスター二人を抑え、残るアーチャーとすら優勢。
今でこそ最良の状態だが、サーヴァントを相手にいつまでも続くとは到底思えない。
現に、セイバーが剣を構えて教室内に踏み込んできた。

「セイバー止まれ。動けばお前のマスターを殺す」

志貴の声にセイバーの動きが止まった。

「あら? 後ろで巫淨さんが駄目だって言ってるのよ?」

「関係ない。お前たちも魔術を使うな。使えば殺す」

志貴が凛の方を向くと、ちっ舌打ちし、凛が後ろ手に構えていたアゾット剣を捨てた。

「リッカ。どういう事か説明してください」

場にいる全員の視線が六花に集まった。
何故殺さないのか、何故生かされているのか、思いは違えど、皆が答えを求めていた。

「このままだと、私とライダーしか生き残らない。
 遠坂さんと衛宮くんは志貴ちゃんに、志貴ちゃんはセイバーさんに、アーチャーさんはライダーに、殺される」

「そうね。そうすると三組一遍にリタイアって前代未聞の出来事が起こるわね」

「ううん。リタイアするのは二組だけ。私とライダー・・・・・・は生き残るもの」

凛が瞠目する。六花の言葉の意味を理解したからだ。

「まさか…」

「うん。ライダーの契約者は私。
 私自身が正規のマスターじゃないらしいから遠坂さんでも見抜くのは難しかったみたいだね」

六花が笑った。
息も詰まるようなこの場で、可笑しかったから素直に笑った。
その純粋さに、凛は背筋を震わせた。

「でも、私は志貴ちゃんに死んで欲しくない。
 だから交渉します。遠坂さん、衛宮くん、アーチャーさんの安全は保障するから、志貴ちゃんを返して?」

「六花!」

「志貴ちゃんは黙ってて。マスター同士の話し合いなんだから」

聖母のような笑顔。理由のない笑みは相手に恐怖を刻み込む。
志貴を相手に、六花は本気で邪魔だと言い放った。
セイバーすらも目の前で展開される光景に驚き、唖然とした表情で六花を見ていた。

「受けると思う?」

「マスター二人にサーヴァント一体。対して魔術師一人。破格の交渉だと思うけどな」

凛の言葉に軽く返し、六花は首を傾げた。
この場の選択肢は六花が掌握していた。
否、初めから彼女が全てを掌握していた。それに気付けなかった事が、敗因。

「…わかったわ。アーチャー霊体になりなさい」

「ライダーも剣を引いて。私の所に」

ライダーが飛び退き、六花の前に立った。
壁から開放されたアーチャーは一つ息をついてから凛に目を向ける。
いいのか。と訊ねていたが、凛が頷くと素直に霊体になった。

「それで、あなたはいつまで私たちの首に物騒なものを添えてるつもり?」

泰然と、凛が志貴の刀を指で撫でた。

「―――くそっ」

志貴は悔しそうに歯を食いしばりながら二人の喉元から刀を引いた。
殺せなかった事にか、それとも助けられた事にか、志貴は渋面を隠せない。
その姿を見た六花は人知れず一筋の泪を流した。
志貴が何を怖れたのかわかったからだ。

「行きましょう」

六花を抱えてライダーが、続けて志貴が窓から飛び降りた。
三人の姿がなくなり緊張の糸が途切れたのか、凛が地面にへたり込む。

「はぁ。なんなのよアイツ」

「こちらの完敗でした。こうして無傷である事が不思議なくらいです」

「そうね。巫淨さんが止めてくれなきゃ私たちだけが殺されていた」

血を流していた志貴に殺気を飽和させた視線で射抜かれた時の恐怖を思い出したのか、凛が首筋を撫でた。
すると士郎が首を傾げながら訊ねてきた。

「なぁ。だとすると巫淨さんは七夜に俺たちを殺させないために止めたのか?」

「そうでしょうね。理由はわからないけど、七夜志貴を止めた時の彼女の表情は泣きそうだったわ」

「そうですか。ですが、何にせよ無事で良かった。
 彼らへの対策は互いに冷静になれた後に考えましょう」

セイバーが武装解除し、凛を立たせた。

「そうね」

声は空しく。廃墟と化した教室に響く。
聖杯戦争が始まってから、初めての敗北だった。