◇◆◇◆

「起きてください、リッカ」

ゆさゆさと身体が揺れる。
いつもと違うその暖かさに、六花はゆっくりと目を覚ました。

ぼやける視界の中、手探りで目覚ましを探り当てると、時計は七時十六分を指している。

六花がベットから這い出ると、すぐ横に佇んでいたライダーが、静かに頭を下げた。
六花は背筋を伸ばしながら頭を下げるという器用な事をし、ふらふらと歩き出す。
どうやら本調子で無いらしく、その足取りは頼りない。

お約束と言うべきか、六花は自分の足に躓き、反応も出来ずに倒れる。
盛大な音を立て、倒れ込んだ六花に、ライダーが慌てたように駆けより、助け起こした。

それでも六花の目は半開きで、ライダーは呆れるより先に感心させられてしまった。
倒れて尚、眠気を拭えない六花の根性は大した物だが、実は仕方の無い事だった。

昨夜遅くまでライダーの説明を聞いていた六花は、結局夜中の二時過ぎまで起きていた。
ライダーの説明下手が予想以上に酷く、説明を二度三度繰り返したのがその原因だ。
そして、真摯に説明しようとするライダーを邪険に出来ず、最後まで真剣に聞いていた事が、疲労を更に蓄積した。

冷蔵庫から牛乳を取り出し、コップに注ぐと、六花は一気にそれを飲み干した。

「おはよ、ライダー。こんな早くに何?」

六花はふらふらと揺れながら、半分も開いていない目をライダーに向け、爽やかとは言えない挨拶をする。
どうやら、先に挨拶した事を忘れているらしく、その姿を見たライダーの顔には、困惑が一杯に広がった。

普段が朝から晩まで忙しい六花は、休日に長時間寝て、体力を回復させないと身体を壊してしまう。
もともと弱い六花の身体は少しの無理も利かず、過保護に扱わないと直ぐに壊れてしまうのだ。
だからこの場合、起きて動けるだけ、好調と言ってしまっても良いのかもしれない。

「はい。おはようございます、リッカ。
 昨夜リッカが、明日九時からばいとがあるから七時には起こして欲しい、と言っていたのですが、問題でも?」

それでも律儀に挨拶を返すあたり、ライダーの真面目ぶりには感心させられる。
そして、ライダーの声がやっと脳に届いたらしく、六花は気だるそうに頭を抱えた。
昨日倉庫の整理を終えた後、明日も手伝ってくれと店長に頼まれ、六花は断りきれなかった。
だが、五時間しか寝ていない六花は、その時の自分を呪い殺さんばかりに恨んでしまう。
今の六花にとって、朝九時は早朝と呼んでもなんの語弊もない時間帯だ。

だからといってバイトを休むわけにはいかない。
あのバイト先を首になってしまったら、おそらく次の雇い先は見つからないだろう。
つまり、六花にとって店長の信頼が生活水準のバロメーターだった。

「うん、大丈夫だよ。起きた起きた」

とても起きているようには見えない動作で屈伸すると、六花はふらふらと脱衣所に向かう。
昨夜、あまりの眠さに六花は風呂に入らずにダウンしてしまっていた。
女として風呂に入らずに外に出るのはまずいと考えたらしく、六花は呆とした顔を身体にくっ付け、すんすんと匂いを嗅いでいる。

「ライダー。パン焼ける?」

のそのそと何故か六花の後についてくるライダーに、六花が思い出したように訊いた。
話し掛けられた事が意外だったのか、ライダーは慌てたように左右に視線を走らせる。
そして、六花の質問を反芻するように顎に手を当て、しばらく思案し、残念そうに首を振った。

「パン…ですか。私はそのような事をしたことがありません」

「そっか。前のマスターはしっかりした人だったんだね」

半裸を通り越し、既に全裸になっていた六花は、自分でパンを焼く為にバスタオルで身体を巻いた。
いつもなら全裸で平然と家を闊歩するのだが、さすがに他者がいる今は、道徳的にまずいと考えたらしい。

どうやらライダーの元マスターは、ライダーに戦う以外のことをさせたことが無いようだ。
自分と違い、聖杯戦争に対する思いが強い。
それだけに、何故ライダーを手放してしまったのかが不思議だった。

「? 確かにしっかりとした人でしたが、それがパンを焼くことと何の関わりが?」

「だってさ、ライダーは前の家でしっかり面倒見てもらってたんでしょ? 朝だってマスターがパン焼いたりしてさ」

いろいろとライダーに遣いを頼もうと考えていた六花は、羞恥に顔が赤く染まる。
その様子を見たライダーは合点が行かないらしく、元々傾いでいた首を、ますます傾げる。

「はい、彼女には良くしてもらいました。
 ですが、彼女もパンを焼くなどしていなかったと思います」

「あーなるほど。前の家では和食だったんだね」

なるほど、とばかりに手を打った六花は、自分がライダーと話し込んでいることに気付いた。
あまり時間が無い現状、こうしてのんびりと話をしている余裕などないというのに、つくづく自分は気楽だと思う。

どうやらライダーの元マスターは和食派だったらしい。
西洋に起源がある魔術師としては珍しく、それほど古い歴史を持っていない家の魔術師かもしれない。
でも、普通に考えれば、日本人なのだからそれが普通なのだが。

そんな人が元マスターだったなら、ライダーもパンを見ることなどなかっただろう。

「いえ、前のマスターの家では洋食でした。
 ですからパンが何であるかも知っています。
 ただ、パンを焼くとなると、それ相応の技術が必要になるのではないでしょうか」

ライダーの勘違いにやっと気付いた六花は、頭が痛くなった。

「違うって。私が言ってる"焼く"はパンを調理する方。
 ライダーが言ってる"焼く"はパンを作る方」

つまり、ライダーにとってパンを焼くという言葉は、パンを作ることのようだ。
神話の中の人物、メデゥーサが意外と庶民染みている事実に、六花は軽いショックを受けた。

「…なるほど。それならば私にも出来ます。お任せを」

しかし当人は気にした風もなく、一つ頷くと脱衣所から出ていく。
その後姿を呆然と眺めていた六花は、自分の目的を思い出すまでに数秒を要した。

「なんだかなぁ」

なんとなく空しい気持で、身体に巻いていたバスタオルを脱ぎ、風呂場に入った。
昨夜、聖杯戦争がどういうモノなのかわかったついでに、ライダーがどういう存在なのかもわかった。

英霊…だそうだ。
過去に偉業を成し遂げ、死後も信仰の対象となった英雄がなるものを英霊と呼ぶらしい。
それがどのぐらい凄いのかは、正直わからない。
だが、自分のような一般人が気安く話しかけて良い相手でない事ぐらいは六花にもわかった。

しかし、ライダーは威張る所か、実に謙虚だ。
サーヴァントとマスターは令呪によって、徹底した主従関係を強要されると言っていたが、それでもライダーは腰が引くすぎだろう。

けど、悪い気はしない。
少し固いけど、友達ができたみたいだ。
なにより、ギリシャ神話のメデゥーサと話ができたというだけで、それこそ一生の自慢になる。
他の人に話せば、まず頭を心配してくれるだろうが、『あの人』なら羨ましがってくれることだろう。
そう思うと、聖杯戦争なんて危ないものに巻き込まれたのも、それほどついていなかった訳ではないように思える。

「ふぅ」

自分のお気楽ぶりに再度呆れつつ、六花は風呂場のドアを開けた。
バスタオルで髪を拭きながら脱衣所を出ると、台所でライダーが、まるで精密機器を扱うかのようにトースターと向き合っている。
その光景が微笑ましく、六花は思わず笑みを浮かべていた。

六花の知識では、メデゥーサは髪が蛇で、顔は蒼白の恐ろしい魔物だったような気もする。
それがあんな超絶美人なのだから、きっと物語を書いた人が妬んで、彼女を醜い姿で伝えたのかもしれない。

「ライダー。出来た?」

六花の声が合図だったかのように、チンとトースターが鳴り、パンが飛び出してきた。
しかし何故か、二枚焼けるはずのトースターから出てきたパンは、一枚だった。

「それは同時に二枚焼けるやつだよ? わざわざ分けてやらなくていいのに」

トーストを慎重な手付きで皿に移していたライダーは、六花の方を向き、そしてトースターを見た。
その動作を二度ほど繰り返し、そして合点が行ったかのように頷いた。

「リッカは二枚食べるのですね。すみません。今すぐ焼きます」

「違うよ、私は一枚で十分。でも、一枚じゃライダーの分がないでしょ」

「あぁ、そういう事ですか。
 気持はありがたいのですが、私に食事は要りません。
 そういえばこの事に関しての説明を昨夜しませんでしたね」

ライダーは一度言葉を切ると、手に持っていたトーストを皿の上にのせた。
そして給仕顔負けの軽やかな動作で皿を持つと、私の座るテーブルに運んできた。

「ありがと。でも、どうして食事が要らないの?
 魔力供給があるからといって、お腹が空かないわけじゃないんでしょ?」

「ええ。ですがそれは気分の問題なのです。
 敢えて考えなければ感じない程度の些細な事なので、マスターも気になさらずに。
 それに、貴方からは十分すぎるほどの魔力が流れてきます。
 わざわざ食事をとり、魔力消費を抑える必要性はありません」

淡々と喋るライダーの顔は微かな笑みを浮かべ、気を使っているだろうことは容易に見て取れた。
マスターに心配させた事が申し訳ない。
きっとライダーは、そんな下らない事を本気で考えているのだろう。
それが六花には、とても悲しく思えた。

「そっか。でも、食べたくなったらいつでも言ってね。
 家族が一人増えるぐらいで傾くような、やわな家計じゃないから」

しかし、同時にとても尊く思えた。
人を頼らず生きる。それがメデゥーサライダーの在り方なのだと。
だから無理強いなど出来ず、誘う程度にしか伝える事しかできなかった。
それでも、ライダーは少し困ったように眉を顰めた。

「すみません。心遣いに感謝を」

「ううん。こっちこそ無理言ってごめんね」

互いに気まずくなり、何となく口を閉じる。
ライダーはもともと口数の多い方ではないのだから、別に気まずいなどと思っていないのかもしれない。
だが、ライダーは話しかけられない限り、自分から口を開くことはない。
だから結局、六花が気まずいと感じた時点で、二人の会話が止まるのは当たり前だった。

重苦しい沈黙の中、トーストをかじる小気味良い音だけが、いやに耳に響く。

「そういえば、ライダーはこの後どうするの?」

沈黙に堪えられなくなった六花がおずおずとライダーに声をかける。

「貴方の護衛をするつもりです。既に聖杯戦争は始まっていますので」

ライダーの澱み無い応えは、六花の予想した通りのものだった。
思わずこぼれそうになった溜息を飲み込み、六花は口を開く。

「その事なんだけどさ、ライダー」

そこで、六花は一度言葉を区切る。
六花が一間置いた意図を察し、ライダーが六花の正面に回りこむ。

六花はライダーに椅子に座るよう勧め、ライダーが席につくと、一つ頷いて再び口を開いた。

「うん、ありがと。
 私は師から魔力殺しを貰ってるから、一流の魔術師でも私が魔術師擬いだと見破れないと思うんだよね。
 だからライダーが私の近くにいない限り、マスターだって事はばれないと思うんだ」

「つまり、別行動をとる、という事ですか?」

「うーん…そうなんだけど、そういう言い方だと刺があるなぁ」

六花が困ったように眉を顰めると、それを見たライダーが微かに口元を緩めた。

「冗談です。了解しました。
 たしかに、マスターを発見されないのは聖杯戦争において強みになります。
 私のスキルに単独行動という物もありますし、おそらく最善に近い手でしょう。
 それで、私は何をすれば良いのですか?」

ライダーが冗談を言った事に、驚きと喜びを感じた六花は、からかわれた事が不愉快でなかった。
むしろ愉快だったと言える。

緩みそうになる顔を引き締め、六花は咳払いをした。

「そうね、うーん…。
 そういえば学校に不審な結界があったから、それを調べてくれないかな?」

その瞬間、笑みを浮かべていたライダーの顔が、酷く歪んだ。
それは如何なる感情だったのか、当人ですら窺い知れないだろう。
しかし、その貌は美しく、見る者の意識を焼いた。

「…ど、どうしたの」

やっと出た声は、からからに乾いていて、掠れていた。
その六花の様子を見たライダーは、自分の失態に気付き、撒き散らしていた激情を収める。

「すみません、マスター。
 あの結界は元マスターに命令され、私が張った物です。
 ですから解除しようと思えばいつでもできます」

ライダーがすまなそうに話す姿を見て、六花は先のライダーの異変の理由を知った。
どうやらライダーは強要され、あの結界を張ったらしい。
自分の意思でないとはいえ、あれを張った事には違いない。
それを悔いているらしく、ライダーは顔を伏せている。

それが六花にはどうしようもなく嬉しかった。

「そっか。なら今日の夜、学校に行こう」

ライダーはその言葉に含まれた意味を察し、一瞬の躊躇いの後、大きく頷いた。
それを見て六花は顔を綻ばすと、最後の一切れを口の中に入れた。

「じゃあ、バイト行ってくるね。先に行ってたりしたら酷いから」

手早く仕度をすませると、六花はライダーに一声かけ、家を出た。
ドアが閉まり、家の中にはライダーだけが残される。

「はい。ありがとうございます」

それは何に対しての礼だったのか、顔を上げたライダーは嬉しそうに笑っていた。





◇◆◇◆

人の目を逃れるように、一人の男が木の陰に立っている。

その男は今日一日を掛け、戦場になるだろう街を見て歩いていた。
そして、最後にここを確認した後、夜に向け、睡眠をとろうと考えていた。
男の予定では、あくまで確認するのは位置のみで、詳しい構造を調べる気など毛頭無い。
仮に、内部に侵入し、サーヴァントと鉢合わせでもしたら、そこにあるのは己の死のみだと自覚しているからだ。
事実、今日一日で廻った"匂う"場所全てに男は一歩も踏み入っていない。

だが、これはどういうことだろうか。
男は意識だけを広場に向け、再度確認した。
男の眼前に広がる広場には昼間だと言うのに疎らにしか人がおらず、閑散としている。

昼間、沢山の人で溢れているはずのこの場所に、何故人がいないのか。
男は思案し、そして直ぐに止めた。
理由がどうあれ、自分に有利な状況には変わり無い。
疎らだが人がいるのなら、仮にサーヴァントと接触したとしても逃げ切れる。
そしてこの程度の人数なら、苦も無く内部を見て回れる。
それが男の出した結論だった。

そして跳ねる様に、否、家々を跳躍し、その場へと向かう。
昼間だというのに、あまりにも軽率なその行動は、しかし誰にも咎められる事はない。
それどころか、誰も彼の姿を視認できないでいた。
それほどに速く、弾丸のように男は空を駆ける。

一際強い踏み込みを経て、男は建物を駆け登る。
そして軽やかな跳躍で鉄柵を越え、目的の場所に飛び乗った。
まるで街を見下ろすようなその場に、幸いと誰の姿もない。

突き出るように一つある、内部に入る為のドアに手をかけ、静かに引く。
男の予想に反し、ドアはすんなりと開いた。
てっきり鍵がかかっているものだとばかり考えていた男は、拍子を抜かれたように、肩を落とす。
しかし数度首を横に振り、気を取りなおすと、男は音も無く階下に飛び降りた。

―――いない

その階に、人の残滓が残っていないことを瞬時に看破し、男は更に下へと滑るように移動する。

―――いる

何かがそこにいることを察し、男は感覚を研ぎ澄ませる。
そして、本来なら有り得ない"匂い"を感じとり、僅かに目を見開いた。
瞬時の躊躇いの後、男は感知野を更に広げ、他に何かいるのかを探った。
結果、自分とそれのみ。

どうしようかと思案し、男は覚悟を決める。
腰に差した小太刀の鞘を握り、静かに踊り場から身を進めた。
相手に気付いたような動きは無い。

しかし、それでも男は油断をしない。
気配を削り、音を殺し、影のように長い通路を進む。
そして、男はあるドアの前で立ち止まった。

男がドアに手をかけようとした時、ドアが独りでに開く。
言うまでも無く、中に居たそれが出てきたのだ。

「えっ」

中から出てきた少女は、突然男が目前に現れたことに驚愕し、身を固くする。
それは相手を捕らえるのに絶好の機会。
しかし、男は何もせず、ただそこに立っているだけだった。
何故なら、男も快楽に身が震え、思うように身が動かなかったからだ。

冷静に、どこまでも機械的に処理しようと考えていた男の身体に、煮え滾るような何かが駆け巡った。
先に感じたそれとは比較にならない衝撃に、身体は歓喜に震え、意識は恍惚に焼かれた。

退魔衝動。
それが男の身体を駆け巡った何かの正体だった。
自分の遺伝子にまで摺り込まれたそれに、間違いなどあるはずが無い。
だから、自分の感性を信じるなら、この目の前の少女は魔なのだろう。

だが、それを感覚が否定する。
目の前にいる少女は、どう見ようともただの人間だった。
そう、魔術師ですらない。

狂気に動こうとする身体を抑え付け、男は睨みつけるように少女を見据える。

数歩の距離を置き対峙する少女は、美しかった。
艶やかな黒髪も、曲線を描く肢体も、全て男を誘うように蠱惑的な官能で飾られている。
その姿を視界に捉えた男は、再び自分の中で熱い何かが蠢くのを感じた。
相手が美しければ美しいほど、男の■■衝動は増大するのか、男は胸を鷲掴み、獣のように呻く。
しかし、終に抑え切れなくなり、男の足が前へと進んだ。

本能が警鐘を鳴らしたのか、少女は叫び声も上げずに後退る。
少女は震える足を懸命に動かし、男から離れようとする。
だが、それを嘲笑うかのように、少女の足が机に絡めとられた。
少女は机を巻き込み、盛大な音を立てながら倒れこむ。
それでも必死に手で身体を引き、逃げようとする少女に、無慈悲にも背後から声がかけられた。

「君は魔術師だよね?」

あまりにも優しいその声色は、今は少女に恐怖を与えるだけのものだった。
日常の中に潜む異常を恐れるように、異常の中に紛れ込んだ日常にこそ、人は恐怖を感じる。
恐怖で固まる事しかできないでいる少女に、更なる言葉が掛けられた。

「この結界について何か知ってる?」

男の言葉に、少女の肩が微かに撥ねる。
それは男が確信するには十分過ぎる反応で、男はゆっくりと少女の肩口に手を乗せた。

「いや…」

自分が如何に危ういかを思い出した少女が逃げようと必死にもがく。
が、

「教えてくれ。あまり長居できないんだ」

彼女の身体は地面に張り付けられたかのように動かず、それが少女を更に恐怖に陥れた。
何故、渾身の力で逃げようとする自分をこの男は手を添えるだけで捕まえていることができるのか。
少女が驚愕するその事実は、仮に男に言わせれば、おそらく簡単なことだと笑うだろう。
単に、男は彼が培った技術を用い、彼女の身体に力が入らなくしているだけなのだから。
だが、混乱状態にある少女が思いつく可能性は、魔術による束縛のみだった。
だのに魔力は感知できず、未知の恐怖が彼女を襲う。

「喋る気があるなら頷いて」

男の呼吸は荒く、興奮しているようにも、酷く消耗しているようにも思えた。
しかし、油断など微塵も無く、触れる男の指先はまるで鉄のように冷えきっていた。
その体温を奪う感覚に、少女は背筋を凍らせる。
少女が無言のまま頷くと、男の指先が少女から離れた。

「そのまま話してくれ」

まるで何かから逃げるように男は飛びのき、荒い息を繰り返す。
ここに来て、微かだった男の気配は、少女にも明確に感じられるほど、確かになっている。
自分に気付かせる為なのかと少女は推察し、しかし何故男がそのような事をするのかわからなかった。
少女は疑問を振り払い、自由になった喉で大きく息を吸い込んだ。

「何を話せばいいんですか?」

男の息が収まるのを待った後、少女は微かに震える声で話しかけた。

「この結界の事を知っている限り」

「わかりました。でもその前に、貴方は何ですか?」

愚問。
少女は心の中で呟く。

少女は男が何であるかを確信していた。
間違い無く聖杯戦争に参加する為に冬木を訪れた魔術師。
そうでなければ、自分程度を相手にここまで厳重な警戒をとらないだろう。
サーヴァントという言葉こそ洩らさないものの、明らかにその可能性を警戒している。
だからこれは尋問などではなく、ただの確認。

「分かっているとは思うけど、一応魔術師だ。
 けど、君が余計なことをしないなら、危害を加えるつもりもない。
 だからサーヴァントを呼ばずに、俺の言う通りにしてくれ」

男は困ったように笑い、少女の視界に現れた。
まるで浮き出るように現れた男は眼帯で塞がれた双眸を少女に向ける。

少女はその穏やかな微笑みに、不思議と親近感を覚えた。
何か理由があってということではなく、ただそう感じた。

あえて理由を言うなれば、おそらくこの男の気性が兄のような抱擁感を持つからだろう。
もちろん兄と言っても、今の少女の兄ではない。
彼女が理想とする兄弟像の中の兄である。

だが、この男がどのような気性を持とうと、魔術師である事には変わりない。
魔術師であるなら、己を殺し、目的の為に他の全てを捨てるだろう。
この場合、目的とは聖杯を手にする事。
それはつまり、自分以外のマスターを殺す事。

だから少女にはわからなかった。
男がわざわざ自分を生かしておく理由も、外来の魔術師がわざわざ学校にある結界を調べていることも。

「何で私を殺さないんですか?」

思わず出た疑問に、男はまた困ったように笑った。

「殺すにしても、この結界を解除した後だね。
 君を殺したからといって、この結界が消えるとは限らないし。
 でも安心して。殺す気はないよ。
 女の子は大切にしろってのが師の教えだから」

男はのほほんと、この殺し合いの場にそぐわない信条を平然と語る。
否、魔術師としてあるまじき信条だった。
魔術師なのに、魔術師然としていない。
その、少女の良く知る相手と似通った在り方に、少女は胸の苦しみを覚えた。

正しくは憤り。
憧れていたはずのその在り方を前にし、何故か少女は拒否したのだった。
それが引鉄となったのか、少女の心にどす黒い憎悪が生まれ、自嘲的な笑いが口から洩れる。

「そうですか。でも、それは無意味ですよ。
 この結界は私のサーヴァントが張ったものです。
 私では解呪不可能ですし、貴方はサーヴァントを呼ぶなと言う。
 これでも私を殺さないんですか?」

その告白をどう捉えたのか、男の顔が歪む。
怒りでも、戸惑いでもない、哀愁。
彼女の虚偽を見抜いたからか、彼女が事の張本人だからなのか、男は哀しみに心を震わせ、溜息をついていた。

「そうか、なら…」

「おい!!」

その声と共に教室の扉が勢い良く開けられた。
そこには赤髪の男と、金髪の少女が立っていた。

「せ…んぱい?」

少女は顔を青ざめさせ、弱弱しく首を振る。
先までの投げ遣りな態度とは正反対のその姿に、男は少女の心を垣間見たような気がした。

赤髪の男は憤怒の形相を浮かべ、足を踏み出そうとして、そこで止まった。

「お前」

「ごめんね。これ以上近づかれると、俺ではその子から逃げられないからさ。
 だけど、君たちが動かない限り、この子の安全は保障しよう」

少女の首筋に、鈍い光沢を放つナイフが添えられていた。
その意味がわからないはずもなく、赤髪の男は飛び出そうとした金髪の少女を手で制した。

「そこの窓を開けてもらえるかな」

男は立たせた少女を盾に、窓際へと移動する。
少女が震える手で窓を開けると、男は小さくありがとうと呟き、少女を室内へと押し返した。
そして水面に飛び込むかのように、窓から飛び降りた。

「桜!」

赤髪の男は少女に駆けより、肩に手を置く。
男に伴走していた少女は、窓に駆けより、そこから身を躍らせようとした。

「待て、セイバー。今は桜の安全が先だ」

その言葉にセイバーと呼ばれた少女は頷き、桜の傍に膝をついた。

「大丈夫ですか、桜」

桜が微かに頷き、赤髪の男は桜をゆっくりと立たせた。
セイバーは手を添えるようにして桜が立つのを手伝い、二人の後ろに回る。

「とりあえずここを離れましょう。話はそれから」

口を開きかけた男を制し、少女は桜に肩を貸し、歩き出す。
取り残される形になった男は窓を振りかえる。
そこから消えて行った男の姿を思い出し、微かに顔を歪めた。

「何だったんだ、あいつ」

そう呟くと、男は少女の跡を追い掛けた。





◇◆◇◆

「さっ。行きましょうライダー」

バイトから帰り、しばらくの休息を取った六花は生気を取り戻し、溌剌とした声で、ライダーに呼びかけた。
六花が横になっている間も直立不動を保っていたライダーが、それに応え、微かに頷く。
六花はコートを羽織り、外に出た。

「リッカ。何も貴方まで来る必要はないのですよ」

アパートを出て、しばらく経った時、意を決したようにライダーが口を開く。
口調こそ平時と変わらぬものの、その中には六花の安全を心配する彼女の優しさが多分に含まれていた。
だが、ライダーの謙虚な物言いによってその心遣いは隠され、六花は不愉快そうに眉を顰めた。

「私に付いて来られるとまずい事でもあるの?」

口を突き出すように、文句を言う六花の姿は、不愉快と言うよりも、拗ねていると言ったほうが合っているのかもしれない。
しかし、目はまるで心の中まで覗いているかのように、ライダーを凝視している。
その視線に気付かないはずも無く、ライダーは微かにたじろいだ。

痛くも無い腹を探られる事が、ライダーにとって悲しかったのだ。
しかし、ライダーはそんな感情をおくびにも出さず、主に言葉を返す。

「いえ。特に問題はありません。
 ただ、今朝貴方が言ったように、私と行動を共にしなければ、貴方はマスターだとばれないはずです。
 それをわざわざ行動を共にし、危険を負うのは非効率ではないかと」

六花は思い出したかのように―実際今の今まで忘れていたのだが―手を打ち、苦笑いをもらす。
その後、空を仰ぐように見上げ、しばしの沈黙。
くるりとふりかえると、六花はライダーがいるだろう空間を向き、笑った。

「そういえばそうだよね。
 でも、私は貴方のパートナーでしょ? だったら貴方の責任を私も負うのが当たり前だと思うの。
 それで何が変わるのかって訊かれたら、きっと何も変わらないのだろうけど、それでも」

それでも貴方が泣いているように見えるから。

六花は自分の失言に気付き、言葉を止める。
だからライダーが六花の真意を知る由もないのだが、ライダーは驚いたように六花を見つめていた。

「何でも無いよ。私が行きたいからってだけじゃ駄目かな?」

何かを仕切りなおすように、六花は脳天気な声でライダーに声を掛けた。
しかし顔は前を向き、その表情は窺えない。

「いえ、十分です。貴方は私が守ります」

ライダーは変わらず、形通りの応えを返す。
六花が質問を理不尽とも言える返答ではぐらかしたのに、その声は穏やかに笑っていた。

「うん。じゃあ改めて…行きましょうライダー」

「はい。六花」





◇◆◇◆

サーヴァント。
男はそれを単語として知っていた。
過去の英雄であり、人が敵うものではないと。

男はそれを理解しているつもりでもあった。
だが、甘かった。
ほんの数時間前、あの少女と対峙した時、男は死すら感じられなかった。

ただ、美しいと。
その純然たる感情は、決して戦場で感じ得るはずのないもの。
だのに、男はそれに支配された。

仮に、少女の横に赤髪の少年がいなければ、おそらく自分は少女に魅入られたまま、斬り捨てられていた。
男は有り得たであろう可能性を夢想し、身を震わせた。

カチャ

忍ぶつもりもないのか、夜に響く音を立て、ドアを開かれる。
足音は一つ。
軽く、おそらく少女のもの。
何か武術を嗜んでいるのか、その歩調に乱れは無い。
最初から目的があってここを訪れたらしく、その軽い足音は迷い無くとある場所へと向かう。

音の向かう方向を察知し、男は"当り"を引いたと確信した。
何より少女の声は、まるで何かと話しているかのように聞こえる。
間違い無くこの少女はサーヴァントを連れているのだろう。

ふと、男は頭の片隅で生まれた疑問に首を傾げる。
夕方に会った少女は自分のサーヴァントがこの結界を張ったと言っていた。
なのに、ここに現れたのは、白い少女。

―――どういうことだろう

思いつく限りの可能性を模索し、意味が無い事に気付いた。
結局、少女が連れているであろうサーヴァントを倒さなければ、この結界は消えない。

その事実を意識した途端、男の身体は小刻みに震えた。
武者震いなどではなく、ただの恐怖。
このまま隠れていれば見つからない、と一瞬浮かんだ馬鹿げた考えを男はなかなか振り払えなかった。
しかし、それでは何をする為にここにいたのかすら、分からなくなる。
男は静かに起き上がった。

作戦など無い。
相手が遥か格上で、傍に最大の弱点を抱えているなら、死角からの奇襲以外に己が取るべき行動は無い。

男は身体中の酸素を追い出し、意識を高める。
機会は一度きり。
それを外せば己は死に、それを決めれば相手と自分が死ぬ。
どちらにしても自分が死ぬだろう選択に、男は不思議と矛盾を感じなかった。

軽く息を吸い込み、その動きを初動とし、男は空高く舞い上がる。
音も無く少女の頭上に到達し、飛び込むかのように落下を始める。

白く輝く髪は美しく、見ていると酷く頭が痛む。
しかし、男はその激痛さえも意識から追い出し、必殺の一撃を繰り出した。

瞬間、三つの剣戟が昏い空に響く。
寸前で男の奇襲に気付いたライダーが瞬時に現界し、男の奇襲を防いだのだ。
手に持つ短剣は釘のようであり、現界したその柴の髪は見る者の心を震わせる。
男と少女の間に割り込み、構えをとるサーヴァントは戦闘者としても、女性としても美しかった。

「え?」

そこで初めて何かあったと気付いた六花は、振り返った眼下に信じられないものを見た。
蜘蛛のように手足を広げ、地面にへばり付いている男。
まっすぐに自分を見ているであろう双眸は、白い布に覆われている。

―――白い、布?

何故そんな物が自分の目に付くのか、六花は男が目を隠している事より、それを気にする自分が不思議だった。

六花の疑問が解消されるより速く、男が動き出す。
まるで地面を這うように、否、それでは語弊がある。
地面を滑るように、残像すら残さずに男は掻き消え、この空間に六花とライダーだけが残される。

音も無く、重力も慣性力も、全てを無視したように動く男の姿を六花は捉える事ができず、身を強張らせる。
そんな六花の前に立ちはだかるライダーは、焦る事無く、ただ前だけを向いていた。
その目に男を捉えているのかは、眼帯に隠され窺う事はできない。

背後から微かな風切音が聞こえ、ライダーは咄嗟に六花を抱えて前に跳ぶ。
ライダーは男の姿を視野に入れられるよう、身体を捻りながら着地した。
が、既に男はどこにもおらず、即座にライダーは頭上を見上げる。
しかし男の姿は空に無く、ライダーの足元で砂を噛む音が響く。

ライダーは首筋に悪寒を感じ、六花を脇に抱えたまま、更に後方に飛び退いた。

数瞬前まで彼女の首が晒されていた空間に、鋭い閃光が煌く。
そして、闇から浮き出るように男が姿を現した。

ライダーが奇襲者の予想外の戦力に焦りを感じているのと同様、男もサーヴァントの身体能力に愕然としていた。

目の前にいるサーヴァントは、何故か体術が拙い。
体術のみを比べるなら、おそらく自分が格上だろう事を男は確信している。

なのに、現実は全ての動作で男が一歩遅れている。
それはつまり、体術の拙さを補い、そして追い越すほどの余りある身体能力の差が男とこのサーヴァントの間には横たわっているという事だ。

それと同時に、男は自分の甘さを呪っていた。
ナイフが少女の首に達した時、僅かだが男は躊躇ってしまった。
その躊躇いが無ければ、おそらく少女を殺せていただろう。

自嘲を洩らし、男は腰に差してある小太刀を抜いた。
己が甘い事は自覚している。
自分が少女を殺す気になれない事も、諦めている。

だからといって、勝ち目の無い相手と戦おうとするとは。
己の行動の罵迦さ加減に眩暈を起こしながら、男は身を沈めた。

そして、闇に解けるようライダーの肉薄した。
だが、一度冷静になり、相手の手札を知ったライダーにとって、その奇襲はただの自殺行為に他ならなかったようだ。

鈍い音と、続いてフェンスに何かがぶつかる音。
地面を這うように接近してきた男をライダーは視認し、蹴り飛ばした。

「ぐうっ」

フェンスが撓むほどの衝撃を受け、それでも男は苦痛に顔を歪ませるだけで、立ち上がった。
その顔に焦りは無い。
初めから勝てるとは思っていないからなのか、窮地に追い遣られて尚、男は冷静だった。

そして、眼に巻いてある布に手を掛ける。
男が布を取る前に勝負を付けようというのか、ライダーが飛び出す。
ライダーには、この男がしようとしている事が容易に想像できていた。
同じように"魔眼"を封印しているライダーにとって、その脅威は真っ先に思いつく可能性だからだ。

しかし、ライダーが足を踏み出すより速く、男は眼に巻いた布を取り払った。

「しき…ちゃ…ん?」

その魔的な輝きが月下に晒された時。
驚きの声はライダーからではなく、彼女の主から洩れた。

夜に映える淡い蒼。
その逃れられない死を孕んだ眼光をいつ、どこで感じたのか。

それを六花が、忘れられるはず無かった。
"あの人"と初めて出遭った、あの森の中。
初めて、守りたいと思った純真な心と触れ合ったあの瞬間を。

ライダーは彼女の知識に無い魔眼に、僅かだが接近する事を躊躇した。
しかし躊躇した時間は僅かで、彼女と男の機動力を考えるなら失敗とは言えない。
その僅かな猶予は、おそらく短刀を一度振るうだけで帳消しになってしまうだろう。

潜り込むようにライダーの足元に移動した男の速さは先までとなんら変わらない。
完璧な回避こそ無理だが、切っ先が腹部に届くかどうかという程度の取るに足らないもの。
しかし、ここでライダーが回避した場合、おそらく男の離脱を許すことになる。
それならばと、ライダーは歯を食いしばる。
ライダーは敢えて男の攻撃を受けることで、反撃を確実なものにしようと身構えた。
ライダーの誂え向きあつらえむきの行動に男は相打つ覚悟を決める。

「だめ。志貴ちゃん」

その微かな呟きは、男の耳に届いた。
瞬間、白い少女の姿が脳裏に浮かんだ。


この布は絶対取らないこと。
この布を取るのも捲くのもわたししかしちゃいけないからね。


ライダーの腹部を切り裂こうとしていた男の腕が、寸前の所でピタリと止まる。

その隙を見逃すはずも無く、ライダーは左右の手を十字に薙いた。
男の血が空を舞い、六花の叫び声が木霊する。

「ライダー、止めて!」

止めを差そうと切っ先を走らせるライダーの手が、男の首を切り離す寸前の所で止まった。

「何故ですか、リッカ。この男は敵ですよ」

ライダーは主の奇怪な命令に動揺した。
目の前の男は、サーヴァントである自分と優劣はどうであれ戦えたのだ。
それがどれほどの脅威か、見ていた六花にもわかったはずだ。
今ここで排除しなければ、次に己の主を守りきれるかはわからない。
主の命令を振り切り、止めていた刃を動かす。

「違うのライダー。この人は私の大切な人」

再び手が止まる。今度は驚愕によって。
六花の声は震えていた。
それが恐怖ではなく、歓喜から来たものだと他者の感動に疎いライダーにすら感じられた。
胸元を深く斬られた男も、ライダーから離れる事も忘れ、膝をついたまま呆然と六花を見つめている。
その顔に広がる困惑はライダーのものより尚濃い。

「俺を知っているのか」

「えっ…」

男に駆け寄ろうとした六花の足が、予想外の言葉に止まる。
令呪の縛りが解けたライダーは即座に男から離れ、固まる六花の前に立ち塞がった。

「俺の名前。何で知ってるんだ?」

六花の身体がまた震えた。
しかし今度は、泪を伴う悲しみで。

「どうして? どうしたの志貴ちゃん。なんでそんな…」

零れる泪に言葉を失い、六花は顔を伏せる。
何故志貴が自分にこんな仕打ちをするのか、六花にはわからない。
もし、嫌われてしまっていたら、そう思うと胸が潰れそうになる。

志貴に声を掛けようと決意を固め、六花が顔を上げる。
が、それより速くライダーが六花を抱えた。

「サーヴァントの気配です。離脱します」

六花の承諾を得るより先に、ライダーは屋上から飛び降りた。
六花と男の関係を推察するのに気を取られ、サーヴァントの接近に気付くのが遅れていた。
気付いた時には目と鼻の先で、もう少し離脱が遅れていれば、姿を捉えられていただろう。

「嫌だ、ライダー。志貴ちゃんも一緒に」

ライダーとて六花に意地悪をしようとして男を置いてきた訳ではない。
己の責任だが、感知したサーヴァントの気配は目前にあり、仮に追い掛けられた場合、二人を抱えて逃げきる自信がなかった。

「もう無理です。彼はサーヴァントと接触しました」

あの深手では、いかにあれだけの動きが出来るとは言え、おそらく逃げられないだろう。
それがわかっているらしく、六花は悲愴な顔を屋上に向ける。

その横顔を見て、ライダーは後悔の念に襲われた。
最初から自分が彼を連れ出していたなら、あるいは逃げきれたかもしれない。
大切なものを守る為に六花に生き長らえさせてもらった自分が、主の大切なものを見捨てる。
そのあまりの醜さに、ライダーは六花にかける言葉が見つからなかった。

背中から聞こえる嗚咽に、ライダーは唇を噛み締め、己の愚かさを呪った。





◇◆◇◆

「また会ったね」

ドアから入ってきた赤髪の男に、志貴は絶望を感じながら笑いかけた。
彼の後ろに控える少女は、昼間の少女らしい服装が嘘であったかのように、鎧を纏う壮麗たる騎士だった。

「お前がこの結界を張ったのか?」

志貴の軽口に合わせる気は無いらしく、不快に顔を歪めて男が問う。

先まで対峙していた彼女らの情報を与えるか、与えないか、悩むまでも無く志貴は判断した。
巻き直した呪布の奥で目を細め、少女との距離を測る。

自分が彼女から逃げるにはあと数メートル足りず、これでは逃げても捕まる。
胸の深手が無いとしても、この数メートル分の隙を作るのは難しいだろう。

だが、やるしかない。
志貴は一つだけ相手がなんであっても一度限りなら有効な逃げ方を知っている。
そういう小狡い技は師から多分に受け継いでいるのだ。

「俺じゃないよ。それに誰の仕業かも知らない。
 それを調べようとしたら、誰かに襲われてこうなった」

腰にまわした手を静かに移動させ、"それ"を取り出す。
少女に気付いた様子は無く、志貴は安堵の溜息を心の中で付いた。

その言葉をどう受け取ったのか、男は警戒を解いた。

「そうか。どんな奴に襲われたのか分かるか? きっとそいつが犯人だ」

どうやら志貴の言い分を本気で信じているらしい。
馬鹿正直と言うか何と言うか、ここが戦場でなかったら、おそらく好感を持てただろう。
しかし隣に立つ少女にとって、相手が信頼できるか出来ないかは別なようで、志貴を見る目には一分の隙も無い。

―――そういう性格の方が高確率で成功するんだけどね

その軽口は余裕の表れと言うより、むしろ余裕を作りたい焦りの表れだった。

「気付いた時には斬られてて、何が何だかまるでわからないんだ」

フェンスに凭れ掛かったまま、地面に"それ"を擦り続ける。
長らく使っていなく、駄目になっている可能性がある"それ"に志貴が焦燥を覚えた時、少女が志貴の行動に気付いた。

「右手を前に出せ。何をやっている?」

無手のまま身体の前で構える少女は端から見れば滑稽だろう。
しかし、その殺気を向けられた志貴には、少女が腕を振り抜いた時、自分が殺されているであろうことは容易に想像できた。

冷や汗が額を流れ、喉が一瞬にして乾く。
震え出しそうになる手足をなんとか抑え、信じてもいない神に祈った。
そして、一か八かで志貴は"それ"を擦りながら右手を素早く前に出した。

ボン

摩擦熱で発火した"それ"は瞬く間に破裂し、屋上を煙で包む。
即座に気配を殺した志貴は余計な事を一切せず、フェンスの外へ勢い良く飛び降りた。

志貴が使ったものは忍者の王道とも言える煙幕だ。
しかしその効力は、彼の師が手を加えたという事もあり、対魔術師用になっている。
魔力を含んだ煙を辺りに充満させ、相手の感知能力を無効化し、時には逃げ、時には奇襲をする。
卑怯なようだが、結果として勝てば、それで良い。
師の考えにこの数年で侵食されてしまった志貴は、そう考えている。

「逃げられましたね」

煙が晴れ、男を守るように立ち塞がっていた少女はぽつりと呟いた。
相手の賞賛すべき天晴れな逃げっぷりにそれ以外の言葉がないのかもしれない。

「煙玉とは、してやられました」

煙幕を張られた時、主への奇襲を危惧したセイバーは追うかどうか一瞬迷った。
その迷いすら、相手の思惑通りだと気付いたのは、煙が晴れ、そこに誰もいない事を確認してからだ。

昼間といい、今といい、あの男は逃げる事に長けている。
おそらく自分より強大な相手との戦いを幾度も経験した結果なのだろう。

「結局、何なんだろうな、あいつ」

彼女の主も呆然と男のいた場所を眺めている。
先の話を信じるなら、あの男はこの結界を張っていない。
だが、先の狡猾さを踏まえると、あの言が真実かどうかは疑わしかった。

「わかりません。マスターで無ければ良いのですが」

あの深手でこちらを出し抜いた相手に、更に自分と同じ戦力がある。
セイバーはこの危惧が現実にならない事を祈った。