「えっ!?」
突然感じた強大な魔力。
世界を乖離し、世界を覆しかねないほどの魔力には、覚えがあった。
「アルトルージュ・ブリュンスタッド………」
ギリッ………。
歯が軋むほど食いしばり、彼女は駆けた。
予想したとおりならば、アルトルージュは志貴と戦っているはずだ。
何よりも、血と契約の支配者たるあの女が、志貴以外に固有結界を使うことが予想できない。
確かに、代行者たるシエルならば考えられなくも無いが、それは不死だった頃の話。
ロアが死に、その身にあった矛盾からくる不死が消えたシエルなど、固有結界を使うまでも無いはずだ。
「クッ!!」
嫌な想像ばかりが浮かんでは消え、浮かんでは消えていく。
あの固有結界に取り込まれたならば、幾ら七夜≠ニいえど長くはもたない。
何故ならあの世界には、月と水しか無いのだから……………。
世界の影に、在りし二人<中編>
「………………」
アルトルージュは無言で立っていた。
ただ無雑作に片手を肩まで上げて、その掌を前に向けて立っているだけ。
詠唱など必要ない。必要なのはイメージ。
水を刃へと変え、数十の水刃を躱し続ける男を、刺し貫くイメージ。
「予想していた以上に躱し難いな。
能力解放に加えて、自分の空想具現化を最大限に発揮できる場を作る意味合いもあったか」
最小限の動きで水刃を躱す七夜は、冷静にそう呟いた。
今、この世界に満ちている黒い水は、全てが七夜を殺すために動いていた。
或いは波のように。
或いは針のように。
或いは刃のように。
三百六十度、全方位から襲い掛かる凶器。
信じ難いが、その全てを七夜は回避していた。………いや、躱すことしか出来ないと言うべきか。
何故なら、固有結界が形成された時から、二人の距離は縮まってはいないのだから。
「…………見事ね」
「フッ、吾を褒める余裕も生まれたか」
僅かな驚きを籠めた賞賛に、七夜は嘲笑で返す。
だが、ここではアルトルージュの言葉が正しいと言えるだろう。
七夜は全方位から来る水で出来た凶器を、舞を舞っているかのように躱しきったのだから。
ただの人間ならば百回は楽に死ね、死徒であろうが数十回は死ねそうな攻撃にも拘らずにも、だ。
「警戒すべきは、その眼かと思っていたけど………………今でも人の業じゃない」
アルトルージュは今更ながら理解した。アレが危険視する意味を。
概念すら殺すことの出来る七夜の保有する魔眼
それは線∴スいは点≠なぞるという条件が付いている以上は、怖くは無いと思っていた。
嘗て存在した『邪眼の魔王バロール』など、睨むだけで死を与えることが出来たという。
それに比べれば出来損ないに等しい………………だが、
「如何なる予測も覆す不規則な動き、そして瞬間的ならば死徒にも匹敵する疾さ。
恐らく、此処で無ければもっと疾いのでしょう?」
両手を広げ、自分が作り上げた世界を示そうとしたが…………出来ない。
アルトルージュの本能が恐れたのだ。七夜≠ニいう存在を。
故にそんな無駄な余裕は見せられない。寧ろ防衛本能が働き、無意識に両手で体を抱いていた。
「その通りだ。
だが、それを言うならば蜘蛛の如き動きを、獣の如き疾さで行なう≠サう言って貰いたいな」
七夜が口にするのは、七夜の一族に伝わる業全てに通じる言葉。
一族に伝わるのは、人在らざる者を暗殺する為の業。
本来真っ向から戦うべき業では無いのだが、それを補うだけの完成度を七夜の暗殺術は持っていた。
それに加えて、七夜自身の能力の高さもある。
この二つが合わさることによって、七夜とアルトルージュの戦いは拮抗を保っていた。
「悪いが、言葉を交わす時も惜しい。これより先…………言葉は無用」
突如、七夜の気配が揺らぎ始める。強くなり………弱くなり………陽炎のように朧気な気配。
訝しむアルトルージュだったが、彼女に出来るのは今までどおりの空想具現化のみ。
ただの人間相手ならば、身体能力に頼った接近戦も使えるが、七夜に関しては自殺行為でしかない。
先手を打ったのは七夜。ゆらゆらと捉え所の無い動きで、アルトルージュを翻弄しつつ間合いを詰め始める。
横に廻るように動きが、悉くアルトルージュの目標を外させる。
それは陽炎のような七夜相手に、正確な狙いなどつけれる訳も無い、ということだ。
「クッ!!」
焦れるアルトルージュに対し、七夜はあくまでも冷静に対処する。
完全な行動を許された時間は、残り5分。
それでも焦らない。焦りは心に隙を作り易いからだ。
横に廻るような動きを始めて約30秒。種は……………撒いた。
……ヴァン……
「なっ!?」
一瞬にして七夜の姿が、アルトルージュの視界から掻き消える。
そして知覚するよりも疾く、アルトルージュは前方へと転がり込んだ。
……シュン……
「外したか………」
漆黒のドレスを濡らしながらも転がり、何とか攻撃を回避したアルトルージュが聞いた言葉がそれだった。
驚きも、焦りも、何一つ無い酷く冷静な言葉。
必殺の攻撃が躱されたにも拘らず、七夜はあくまでも平静だった。
対してアルトルージュは頬を伝う汗を止めることが出来ない。
この固有結界が無ければ、間違いなく首を落されていたのだから………。
動きとしては一瞬だけ強く気配を発し、直ぐに気配を消して相手の死角に滑り込む。
そのまま跳躍し、逆さまの状態から短刀を繰り出すことによって、首を刎ねる。
言葉にすればこの程度だが、実際は消えて見える。……そう、アルトルージュの眼にも、消えて見えたのだ。
「バケモノめ…………」
呻くように発した言葉も、七夜の無表情な顔を変えることは出来ない。
今の業名は、閃鞘・八穿
万が一、真っ向から対峙したときの為に作られた…………言わば苦肉の策。
暗殺者にとっては、見られた時点で暗殺ではなく、それは唯の殺し。
閃鞘・八穿は、そういった失敗した時の為の業なのだ。
「―――――――ァ!!」
短い呼気と共に、七夜がジグザグに動きながら特攻してくる。
恐ろしく疾く、そして不規則である為に、具現化した攻撃が間に合わない。
次々と繰り出される刃は、或いは躱し、或いは殺される。
それは如何な七夜とはいえ、数十を超える水の攻撃を躱しきることなど不可能ということ。
だが、恐るべき速さで動く今の七夜に当たる攻撃など、それこそ数えるだけしかない。
「チィッ!!」
「遅い!!」
慌てて逃げようとするアルトルージュだったが、相手は七夜。
幾ら身体能力で上回ろうとも、限定された空間内で、逃げ切れる筈も無い。
背を向けて逃げようとしたアルトルージュも、逃げられないことを悟ったのか、遂に振り返って対峙する。
――――――――――振るわれる凶刃。
アルトルージュには見えないが、七夜には見えている点≠狙った一撃は、掛け値無しの必殺!!
吸い込まれるように短刀の切っ先が、アルトルージュの肌に―――――――、
ズブシャ!!
「「ゴフッ…………!!」」
吐血は同時。塊のような血を吐き出し、近接した互いを濡らす。
だが、最初にしたのは何かが肉を穿つ音。
その正体は、黒く巨大な三角錐。それはアルトルージュの背中から、七夜の背中へと抜けていた。
「……ぅ……グ………油断したか…………」
「ふ………ふふ……妾の手並みを褒めるべきでは無いの?」
「ふ、ん……予想し得る事態だ。吸血種の………再生力を考えれ、ばな」
絶え絶えの声で、瀕死の状態でありながらも、七夜は不遜に応える。
全てはアルトルージュの読み通りだった。
追い詰められて振り返ったのではなく、自分に注意を集め、より錐に気付かせない為。
見事に嵌められた訳だが、それも予想しえたという七夜。
ただ肩口の傷に加えて、この固有結界との相性の悪さが問題だった。
傷の所為で制限された行動時間。凡そ、月と水以外の何も無い固有結界。
地形を利用し、死角への移動を基本とする七夜にとっては致命的な世界と言えるだろう。
「本当に見事だったわ。人の身にして、妾を此処まで追い詰めるなんて………」
「ふ………ん、まる……で…勝った………ような口振り、だ……な」
途切れ途切れの言葉に、尚も不遜な言葉を乗せる。
勝利を確信したアルトルージュだが、同時に気圧されているのはアルトルージュだった。
「さっ……さと……殺……せ。出来…な………けれ…ば、吾……が貴様………を殺す」
躰の震えが止まらない。臓腑の底から、恐怖で身が振るえている。
アルトルージュには理解出来ない。
左肩と腹に穴を穿たれ、勝機の欠片も見えない状態でこんなことが言えるなんて……。
確かに、長い生の中で死に掛かっているにも拘らず向かってくる者も居た。
けれど―――――――、
「何故…………笑えるの?」
七夜は笑っていた。明らかに死期の見えた状態になりながらも、口蓋を開いて笑っていた。
その姿の、何と凄まじきことか…………。
勝利を確信したアルトルージュが、ガタガタと震えていて、
死を目前とした七夜が、心底愉しげに笑っている。………壮絶な修羅の笑みで………。
「愉しいからだろうな。
フッ、吾は違う、吾は乗り越えたと思っても、釈迦の掌の上、か。
未だ血には抗いきれず、乗り越えてもいない。
…………不様だな、吾は。そこまで解っていながら、やはり愉しいとしか思えぬ。この殺し合いを、な」
途切れていた言葉から一転して、饒舌に語る七夜。
それだけではない。全身から吐き出される気配が、どんどん強まっていく。
カタカタ………ガタガタ………
震える。
圧倒的に優勢に立っているはずのアルトルージュの躰が………一層震えている。
理解できない。何故震えているのか、それは彼女にも解らない。
だが一つだけ…………解っていることがある。
それは………串刺しになりながらも嗤うことの出来る、七夜が心底恐ろしいということ。
「急げ………」
謎めいた言葉に、アルトルージュは七夜を見返す。
彼女には理解できない笑みを浮かべて、七夜は詠うように言葉を続けた。
「殺される前に、殺せ」
この言葉は一瞬で理解できた。
脳裏で水を刃へと変えるイメージを構築し、それと同時に腕を全力で振るう。
技など無い。ただ身体能力に任せた、張り手のようなモノ。
だがそれは、人の肉を抉り、引き裂くには十分な力を秘めていた。だが…………、
「鈍い………」
手が消えていた。
手首から先が、七夜に当たる筈だった手が消えていた。
それが七夜に斬られたのだと理解するよりも速く………次の一手が打たれた。
「―――――――斬刑に処す」
ズバババババババッ!!!
それは速さのみに特化した、乱撃術。酷く軽い斬撃は、精々浅い傷跡を付けるばかり。
だが、その中の幾らかが線≠なぞる事によって、致命的な傷を作り上げる。
「――――ァ、グッ――――」
「ヒュ」
ドンッ!!
全身に奔る痛みに、アルトルージュが苦悶の声を漏らす。
それと同時に、七夜が短い呼気と共にアルトルージュを蹴り飛ばした。
「――――――此処か」
トン
軽い音と共に、七夜が短刀を鳩尾付近に突き立てる。
その瞬間、肩と腹から流れ出ていた血が………………止まった。
「ッ!? まさか自分の死を!!」
「そう、今吾は吾の死を殺した=B
在るならば、吾は全てを殺す。それは身に迫る死とて例外ではない」
酷く冷たく吐かれる言葉に、アルトルージュは戦慄する。
死という概念を殺す眼。
そんなのは、断じて直死の魔眼≠ネどではない。だったら、アレは一体……?
「貴方は本当に人間なのッ!?」
「さて……な。知りたければ、貴様の背後で糸引く者に問うたら如何だ?」
「なっ!? ……………いつから気付いていたの」
七夜の問いに驚愕し、直ぐに眼を細めて問うアルトルージュ。
その驚きは、今までの比では無い。
七夜という存在を、アルトルージュは見紛えていたのだと改めて突きつけられた気分だ。
「悪いが、吾は志貴ほどに鈍くは無い。
貴様が吾を殺すことを望んでいないことなど、元より気付いていた」
淡々と言葉を紡ぎ、淡々と歩を進める。
その死≠結晶化したような蒼銀の眼で、ただ真っ直ぐにアルトルージュを見据える。
「だからこそ、吾も手加減せざる負えなかった」
「――――――――――え?」
アルトルージュには、一瞬七夜が何を言っているのか理解できなかった。
今までの死闘は、全て手加減されたものだった?
有り得ない…………間違いなくアルトルージュは全力だった。
固有結界を使い、間違いなく死力を尽くした戦っていた。なのに、七夜は本気ではなかった?
「嘘よ…………」
「虚言では無い。真祖の姫君は、貴様のことを心から嫌ってはいなかった。
それに加え、本人が望まぬ……仕向けられた殺し合い。
死を貴ぶ吾としては、侮辱ではあるが…………手加減するほか無かっただけだ」
震える声を、何の躊躇いもなく切って捨てる七夜。
これで真実を理解した。初めから生かされていたのは七夜ではなく、自分だったことを。
「何なら証拠を見せよう」
トンッ………
何でも無いことのように七夜は短刀を振り下ろし、たったそれだけで………世界が死んだ。
「あ………」
幼い姿、ぶかぶかの漆黒のドレスに身を包んだアルトルージュ。
静かに振り下ろされた短刀の一刺しで、今まで破られたことの無かった『鮮血の月』は簡単に死んだ。
それこそ…………喜劇のように…………。
「志貴ッ!!」
と、そこで二人の耳を叩く声。
互いの思惑こそ違うが、哀しませたくないから、会いたくなかった女性≠ェ……泣きそうな顔で立っていた。
彼女の名は、アルクェイド・ブリュンスタッド。
「来ないで貰おう、真祖の姫よ」
「ッ!? ………あ、七夜なのね」
志貴とは思えないほどの冷たい言葉に、一瞬だけ驚くアルクェイド。
しかし、志貴の中の同居人のことを思い出し、再び心配そうな声音で問う。
「志貴は? 志貴は大丈夫なのッ!?」
「安心しろ。奴が無事でなければ、如何して吾が動いていられる?」
七夜の言葉に、アルクェイドは安堵の息を漏らす。だが、七夜は嘘を吐いていた。
実際は、躰はボロボロの状態だ。一時的に死≠殺したから動いていられるが、時間は余り長くない。
大量の血液が付着した服の御蔭で、胸に開いた穴は見られていないが………それも時間の問題だろう。
「アルトルージュッ!! よくも志貴をッ!!」
「それが貴女の為なの…………」
アルクェイドの叫びに、アルトルージュは叱られた子供のように身を竦める。
それでも自分を奮い立たせるように言葉を紡ぎ、アルトルージュは七夜を見据える。
「アルクェイドの為を思うなら………此処で死んで」
「アルトルージュッ!!」
普段なら絶対に赦せない言葉を吐くアルトルージュに、アルクェイドは激怒していた。
その瞳は金色に染まり、真円の月を思わせる瞳は殺意によってギラついた光を灯している。
常人ならば発狂ししかねない眼光。
裏で生きる者にとっても、致死量になりつつある眼光を受けて尚、アルトルージュは怯まず七夜を見据える。
「例え貴方がどれほど強かろうと…………あの朱い月≠ノ気に入られようと、アレには勝てない」
「アレ………?」
分からない。七夜には、朱い月のことも含めて勝てない存在など………想像できなった。
朱い月ははっきり言って桁が違う。それこそ、アルクェイドが赤子のように思えるぐらいに。
アルトルージュは、朱い月の実力を知らない? ……否、仮にもアルクェイドの姉だ。それぐらいは知っているだろう。
ならば朱い月を越える存在だが…………O
R
Tという蜘蛛のような怪物がいるらしいが、少し無理がある。
第一、そいつは南米の奥地から動いたことが無いとのこと。やはり候補から外れる。
「分からないな。貴様ほどの存在が、何にそこまで怯える?」
「ッ!! う、五月蠅い! オマエはあの存在の恐ろしさを知らないからッ!!」
七夜の問いを侮辱と受けたのか、アルトルージュは今までに無く声を荒げる。
荒げると言っても、見た目が見た目なので拗ねているようにも見えなくも無い。
【そこまでだ。アルトルージュ・ブリュンスタッド】
「ッ!!」
突如響く声。遠雷のように響く声は、男とも女とも取れない奇妙な声だ。
声に反応したアルトルージュが、震える眼でアルクェイドでも、七夜でもない場所へ視線を向ける。
つられるように七夜も其方を見ると、一匹の巨大な犬がジッと此方を見ていた。
【敗北したようだな…………】
「え!? プライミッツ・マーダーが喋ったッ!?」
アルクェイドが怒りも忘れて驚き、アルトルージュは苦い顔を作る。
唯一、七夜だけが冷静に白い犬を観察していた。
全長は3m前後。全身の体毛は白だが、光の当たり方によっては銀にも見える。
双眸は深い蒼。犬に感情を求めるのも可笑しな話だが、感情の欠片も無いように見える。
しかし……全長3m前後の生物が、一目で犬に見える? 妙な話だ。
まるで、それが当然だと言い聞かされたように迷うことが無い。
「………あぁ、そうか。犬であると、無意識化に刷り込んでいるのか」
別に確証など無いが、何故かそうだと確信できた。
「ま、待ってッ! 私はまだ……ッ!!」
【負けていない、と? 愚かな……事実も見えぬ姿は滑稽を超え、醜悪である】
容赦の欠片も無い言葉。
しかし言葉では侮蔑しながらも、プライミッツ・マーダーと呼ばれた犬は、何の感情も見せなかった。
犬にしろ何にしろ、感情があるならば、感情を見せる度に気配は揺れる。
例えば哀しんでいる人の傍に行くと、訳も無く泣きそうになるのは気配に当てられているのが原因だ。
しかし、プライミッツ・マーダーの気配は欠片も揺れなかった。つまり、何も思っていないということか?
【よもや、人のように心が折れねば負けないと………いつか勝てるとでも思っているのか?】
「クッ………」
どうにも妙な展開になってきている。大体、プライミッツ・マーダーとは……、
「アルトルージュ・ブリュンスタッドの犬が、プライミッツ・マーダーでは無いのか?」
そんな話を、以前…聞いたことがある。
だからこそ、黒の姫・アルトルージュには誰も手を出せないのだと。
【否。我とこのアルトルージュは、契約関係にあったのみ】
「契約関係だと………?」
【然り。世の調和の為、アルトルージュが動き。
その代価として、我は力を貸すという契約をしていたに過ぎぬ】
アルクェイド、そして朱い月から聞いていた話と全く違う話だった。
二人の話では、多少の差異こそあるものの、二人は友であるとの話だったが………実際は単なる契約関係?
可笑しい、そう七夜は判断する。アルクェイドと朱い月が、そうなった以上は、その理由がある筈だ。
そしてそれは、アルトルージュとプライミッツ・マーダーの二人に、そう思われる何かがあったということ。
「真祖の姫よ、朱い月に代わってくれないか?」
「…………分かったわ。確かに私よりも朱い月の方が事情を知ってそうだし」
七夜の言葉に、アルクェイドはやや困惑したまま応える。
そして彼女は目を伏せた。
それと同時に、アルクェイドの纏っていた気配が急激に変化し、髪がショートからロングへと伸びる。
「さて。現状の説明を頼むぞ、七夜よ」
再び目を開いた時、アルクェイドはアルクェイドではなく。真祖の王……朱い月だった。
「面倒だが、仕方あるま【不要である】
志貴と七夜のように記憶を共有しないアルクェイドと朱い月に、七夜が説明しようとした時。
今まで黙っていたプライミッツ・マーダーが、口を開いた。
【久しいな、朱い月。我が同胞よ】
「同胞? …ッ!! まさか、御主はッ!!」
【瞬時に分からぬようでは、弱体化していることに間違いは無さそうだ】
朱い月はプライミッツ・マーダーの正体に気付いたようだが、七夜はまだ分からない。
分からないが、朱い月とプライミッツ・マーダーの会話は続く。
「何故だッ! 何故、御主が此処に在るのだッ!?
御主の顕現は、抑止力でも消せぬ存在の出現を意味する。そんな存在が、出現したというのかッ!?」
朱い月が此処まで声を荒げているのは、珍しいを通り越して初めてかもしれない。
少なくとも、七夜は此処まで動揺している朱い月を見るのは初めてだった。
初めて朱い月と出会ったとき、あの時も朱い月は激昂したが………今はそれを越えている。
【然り。故に我は此処に居る、此処に在る。星≠フ最大脅威を削除する為に】
「そん……な……では、狙いは七夜だというのかッ!?」
怒りを滲ませた言葉に、プライミッツ・マーダーは初めて感情を見せた。
――――――――それは憤怒だ。
何故、怒りを見せているのかは分からないが、初めて見せた感情は憤怒。
【何という体たらくだ。我の最大の汚点と言ってもいい。
よもや抹消者に、抹消対象が心奪われるようなことになろうとは…………】
「何を言っている…………? 抹消者? 抹消対象?」
プライミッツ・マーダーの言葉に、朱い月が初めて分からない、と困惑した。
しかし、これだけは………七夜にも少しだけ分かる。
「問うが………その抹消者とは吾か?」
【然り。……………然れど、本来の目的を外れし貴様は単なるバグだ】
冷徹なる蒼の双眸が七夜を射抜く。
――――――――――途端、全身の感覚が消え失せた。
ドサッ…
「……!?」
「七夜ッ!!」
倒れ伏した七夜に、朱い月が叫び声を上げる。しかし、七夜のその叫びすら何処か遠くに聞えた。
――――――――――触覚が失せ、体が動かない。
――――――――――聴覚が失せ、声が聞えない。
――――――――――嗅覚が失せ、臭いがしない。
――――――――――味覚が失せ、血を感じない。
――――――――――視覚が失せ、何も見えない。
人間が生きる上で重要な五感全ての機能が失われ、七夜は思考するだけの木偶に成り果てた。
少し離れた位置に立っていた朱い月が、七夜を抱き起こすが………七夜は何の反応も示さない。
「止めよ! 蒼き大地ッ!!
速やかに侵食固有異界『究極王権』を収めよッ!! さもなくば………」
【さもなくば、何だというのだ? 朱い月よ。
よもや我を倒すなどという世迷いごとを………「言うつもりだッ!!」
ドンッ!!!!
ゆっくりと地面に七夜を置き、瞬時にプライミッツ・マーダーに攻撃を仕掛ける朱い月。
なんの魔力も込められていない一振りは、たったそれだけで数本の木々を空へと飛ばした。
「なんて………力………」
殆ど見えない動きだったが、それでもアルトルージュは朱い月の力に戦慄する。
木をへし折ることは、吸血鬼であるアルトルージュにとって容易い。
しかし、木を根こそぎ空へ飛ばすのは難しいなんてレベルではなく、アルトルージュには不可能だった。
しかも直接木に触れた訳ではなく。単なる腕の一振りで巻き起こった風圧で、だ。
莫迦げている…………そう、アルトルージュは心底思う。
【情欲に駆られるとは…………堕ちたものだな、朱い月よ】
しかし、そんな莫迦げた力超えて、プライミッツ・マーダーは佇んでいた。
まるで今の攻撃など掠りもしない、と殊更言っているようにも見える。
「動くな」
【………ほぉ】
朱い月の目が、深紅から黄金へと変化している。
魅了の魔眼=c………魔眼の中でも高位に位置するモノが、発動している証拠だった。
朱い月の言葉は言霊となり、言霊は力へと変わり、プライミッツ・マーダーを束縛する。
「幾ら御主でも、七夜を奪うというのならば容赦はしない。
星の意思……………蒼き大地である御主でも…………………」
アルトルージュは、この名を聞いて全身に震えが奔るのを感じる。
そう、朱い月の言うとおり、今のプライミッツ・マーダーは、プライミッツ・マーダーでは無い。
今のプライミッツ・マーダーは……………蒼き大地と呼称される星の意志だった。
星の意志とは世界に等しく、如何なる者も敵わない存在だと………アルトルージュは思っていたが、
(勝てるのかもしれない……………)
改めて朱い月の力を見て、そんな夢をアルトルージュは見る。
しかし、それは……………、
【愚か者が……ッ!!】
オオオオオオォォォォォォォォォォンッ!!!!
「ッ!!」
「クゥッ!!」
それは咆哮だった。絶対的なまでの、力を秘めた。
耳を劈くような咆哮は天地に響き渡り、魅了の魔眼′果すら消し飛ばす。
【我を何と心得る朱い月よ。我は蒼き大地…………星の意思なりッ!!】
余りに儚い幻想だったと、アルトルージュは絶望する。
違うのだ…………力とか、そんな俗物的なものではなく、ただ存在が違う。
アルトルージュの前にいるのは、いわば神なのだ。
そんなものが相手にして、勝てるなど夢想すら赦される筈が無い。
「それでもだ……………」
だというのに…………。
「私は……………」
だというのに…………。
「七夜を失う訳にはいかない!」
何故、朱い月は諦めようとしないのか………?
何故、膝を屈しようとは思わないのか………?
【解らぬな。何故、そうもバグ如きに加担するのか。
ソレは、朱い月を抹消する役割を与えた………単なるプログラムの一種に過ぎぬというのに】
「な、に…………」
喉がカラカラに渇いて、朱い月は上手く言葉が出なかった。
何故なら、蒼き大地の言っていることは………、
「七夜の今までの人生は…………全て」
【我の筋書きだ。幼き頃に血族が死に絶えたのも、鬼の血族に拾われたのも。
この地へ多くの吸血鬼が集うのも全て…………我が全て用意した。
そこに居るバグが、朱い月を滅ぼしうる力を得る生贄としてな】
七夜が………遠野
志貴がどれだけ壮絶な人生を送ってきた良く知っている。
朱い月は波乱万丈に満ちた人生だと、それを聞かされた時は思った。
七夜の数百倍を生きていた朱い月だったが、その生涯の大半は何も無い。
ただ生涯の最後に月落とし≠行なおうとして、ある魔法使いに負けて殺されたぐらいだ。
つまらない生涯ではあるが、七夜の人生に比べれば、どれだけ幸福だったか分かる。
血に濡れていた人生を送る七夜は、決して人並みの幸福など得られない。
今を幸福だと言う者は居るかもしれないが、それ以上の苦痛という代価を支払ったからこそだ。
「御主が…………仕組んだ、と?」
【朱い月よ。………偶然などというものが、この世に在ると思ったか?】
地獄の業火のような熱が、朱い月の胸を焦がす。
それが怒りだと気付き、ただ…………朱い月は叫んだ。
「赦さぬ……………赦さぬぞ、蒼き大地ッ!!」
【囀るな、朱い月よ。汝といえど、我の前にでは矮小な存在に過ぎぬ!】
ただ赦せないと、朱い月は怒りに吼える。
ただ愚かだと、蒼き大地は侮蔑し吼える。
朱い月と蒼き大地。二つの存在は、ただ互いを消し去る為に、その爪を振るう。
「ハアァァァッ!!」
【脆弱………】
カキィィィンッ!!
紅い光跡を残す爪撃を、尾で受ける蒼き大地。
返礼とばかりに、前足を繰り出すが、朱い月はそれを躱す。
「何故、私を殺そうとした!? 私と御主は、同じモノの筈だ!!」
【確かに…………遥か古の昔は、そうだったかもしれぬ。
然れど、今は違う。最早、汝は必要ないのだ朱い月よ。寧ろ、汝の存在は害悪にしか成り得ぬ】
凍るように冷徹な蒼き大地の言葉に、朱い月は唇を噛む。
「だから、七夜を用意したのか………」
【然り。我が同胞たる汝を滅することは、理の矛盾を広げるに等しい。
故に我は、汝を滅する為に一つのプログラムを造り上げた】
それが七夜………朱い月と殺し合うために、用意された駒。
【よもや………それに狂いが生じるとは】
どこで蒼き大地の予定が狂ったのだろう…………。
遠野
志貴が、アルクェイド・ブリュンスタッドを好きになった時から?
七夜が血の衝動を抑えきれず、アルクェイドを十と七つの肉片に解体した時から?
それとも…………それとも……………それとも……………それとも……………?
疑念は尽きない。けれど、朱い月は断言する。
「私と七夜は…………どんな筋書きを書こうとも、互いを愛する」
地面に倒れたままの七夜を見て、ただ朱い月は断言したかった。
悠久の孤独である筈だった朱い月と七夜は、寄り添ってこそ在れるのだと信じたいから。
【――――――――――何を莫迦な】
そんな朱い月の言葉も、蒼き大地には遠く届かない。
ただ侮蔑する。朱い月の想いを、弱さとして……………。
【戯言は聞かぬ。愚かなる我が同胞よ………今此処で、灰燼と帰すがいい!!】
蒼き双眸が細く、鋭いものへと変わる。
ドン!! ドン!! ドン!!
大地が突き上げる鎚のように隆起し、木々が鞭のように蠢き、空気が刃のように襲い掛かる。
それを朱い月は、同じように空想具現化をもって防ごうと…………、
「カハッ!!」
出来なかった。
大地が打ち据え、木々が痛めつけ、空気がズタズタに切り裂く。
自分が空想具現化を使おうとして使えなかった事に、朱い月はことのほか衝撃を受けた。
しかし、それも当然のことかもしれない。
朱い月が空想具現化を発動しようとしてしなかったことなど、今まで一度たりとも無かったのだから。
【これで汝に残されたものは何も無い。
魅了の魔眼も、汝自身の力も、そして空想具現化も…………全て我には通じぬ。
最早、理の矛盾も致し方無し。朱い月、汝は此処で終焉を迎えるのだ】
朱い月の全てを捻じ伏せて、蒼き大地は倒れ伏した朱い月の頭蓋に足を乗せた。
◆ ◇ ◆ ◇ ◆
暗い、昏い空間がある。
そこは一切が闇に閉ざされており、広いのか狭いのか、高いのか低いのかも分からない。
元々この場所には、右も左も関係なく、上も下も無いのだが。
「…………此処は?」
呆然と声を出したのは、志貴だった。
プライミッツ・マーダーという、犬だと認識させられる怪物に睨まれて………、
「そこから記憶が無いんだよな……」
そこから先は、まるでテレビのスイッチを切ったかのようにプッツリと意識が無くなっている。
分かるのはそこから意識が無くなったのと、此処が妙に落ち着くということぐらいだ。
「ほぅ……思いの外、落ち着いているな」
「ッ!?」
突然聞えた声に、志貴は慌てて振り向く。
そこには全く同じ顔でありながら、志貴よりも幾許か鋭く、大人びた雰囲気持つ男がいた。
「え!? あ! ひょっとして、七夜か!?」
「そうだ。こうして対面するのは初めてだな、遠野志貴。
とはいっても、貴様は吾の紛い物とは会ったことがあるだろうが」
驚嘆する志貴に対して、七夜は冷静そのもの。
まぁ志貴が憶えている限り、七夜が自分のように取り乱すところなど、見たことが無いのだが。
「七夜ッ!! 此処は何処なんだッ!? それにプライミッツ・マーダーはッ!? アルクェイドはッ!?」
「落ち着け……………といっても、無理な話か。
では、簡単に答えよう。此処は精神世界………俗に言う心の中だ」
「心の………中?」
呆然と呟いた志貴だったが、どことなく信じられる。
嘘をつく利点が無いとかではなく、不思議とそれに納得できるのだ。
「そしてプライミッツ・マーダーと真祖の姫に関してだが…………分からぬ」
「なっ! 分からないって如何いうことだッ!?」
思わず詰め寄りかけた志貴を、七夜は静かに手で制した。
そこで志貴も七夜の眉間の皺に気付き、一応は閉口する。
「恐らくは、あのプライミッツ・マーダーがやったのだろうが………吾等の五感が絶たれた」
「なっ!?」
「今の吾等は、ただ思考するだけの木偶だ。遠からず、肉体の機能も停止するだろう」
やはり冷静な言葉に、再び志貴が詰め寄りかける。
しかし、今度は自分で思い直したらしく、元の位置に戻る。
そして志貴は真っ直ぐに七夜を見て…………、
「七夜…………俺はアルクェイドを護りたい」
「………………………呆れた正直さだ。莫迦正直にも程があるな」
余りにも真っ直ぐな言葉に、一瞬七夜の目が丸くなる。
しかし、すぐに苦笑と共に言葉を返した。
「自分に偽っても何の意味も無いだろ」
「確かにな…………。ククッ、では吾も言おう。吾は朱い月を護りたい」
大真面目に言った志貴に対して、七夜はどこか満足げに、そして自嘲するような笑みを零しながら言う。
それが不器用な七夜なりの照れ隠しなのだろう、と志貴は思い、口を開いた。
「それで…………どうにかする方法はあるのか?」
「素晴らしく成功確率は低いが……………たった一つだけある」
笑みを消して、鋭い眼光で見据えながら七夜は言う。
じゃあすぐにそれを、と言いそうな志貴だったが、七夜はそれを目で抑えた。
「ただ………それを行なうに当たって、覚悟決めてもらう」
「覚悟? それならもう――――――――」
それ以上先を、志貴は口にすることは出来なかった。
何故なら七夜の顔が、今まで見たことも無い位に苦渋に満ちていたから………。
「もう二度と………真祖の姫をその手に抱けなくなっても、か?」
「…………………え?」
七夜の問いに、志貴は答えられず。ただ呆然と問い返すことしか出来なかった。
後書き
何というか、遅くなって申し訳ありませんでした。(土下座
まぁ色々あったのですが…………一言で言えば、浮気です。(別作品
本当に申し訳ない。申し開きのしようもないです。
兎も角、これで『世界の影に、在りし二人』も、後編を残すばかり。
どうしようもない作者ですが、どうか最後までのお付き合いをお願い致します。では、また次回。