何かが変わった一日(前)
何かが変わった一日(前)




 朝―――、ほとんどの生命が眼を覚ますであろう時間帯。

 この三咲町にも、いつもと変わりない朝が訪れた―――。

 そして、ここはとあるマンションの一室。

 ここには、世界が生み出した抑止力の具現ともいえる存在、そして恐らくは世界最強ともいえる生命体である「真祖」と呼ばれる種族の内の一人がいる。

 その内の一人―――と言えども、もはやこの世界に存在する真祖は彼女だけであろう。

 他に存在していた真祖、そのほとんどを彼女はその手で消滅させている。それもかなり昔の出来事だ。

 その彼女は、自らを鎖で縛り眠りについて、自らの敵であるものが現れる度に目を覚ましてその者を狩りに行く。

 そうして、ようやくこの三咲町にて彼女はとある人物の協力によってその敵を滅ぼし、遂に念願を果たした。

 それでは、何故彼女は未だにこの町に滞在しているのだろうか?

 それは、彼女を唯一「殺した」人間であり、敵を滅ぼす際に協力してもらった人物がいたく気に入って側にいたいからだそうだ。

 そんな彼女を見れば、昔の彼女を知る者はどのような反応を見せてくれるだろうか―――?



 金髪のショートカットに、魔を象徴する赤い眼。だというのに、連想される色は純潔なる白。

 彼女の名は―――【アルクェイド・ブリュンスタッド】



 彼女は俗にいう吸血鬼と呼ばれる種族だ。

 しかし、彼女は血を嫌っている。

 と、まあそれはあまり関係ないのだが吸血鬼といえば日の光が苦手で主な活動は夜になる。

 そのせいだろうか、かく言うアルクェイドも朝が苦手だ。

 いつも、起床するのは昼過ぎである。

 だから時刻が9時を指そうかという今も、ベッドの中で猫のように丸まって眠っている。

 猫といっても、猫科の最強はライオンだ―――。

 いつもならこのままずっと眠っているだろうけど、今日の彼女にはそろそろ起きなければならない理由があった。

 今日は自分の好きな相手―――【遠野志貴】と世間一般で言うデートがあるのだから。

 待ち合わせは10時、そろそろ起きて支度をしないといけない。



 「……ん。」

 アルクェイドの意識が段々と覚醒していき、目が覚めてくる。

 頭のてっぺんがちょっと見えるくらいまで布団を被っていた彼女が段々と布団から出てくる。

 まどろみの中にいる彼女は、意識をはっきりさせようと体を起こした。



 そこで―――彼女はいつもと何かが違うことに気がついた。



 足まで届くような金髪のロングヘア、まどろみの中にある瞳はいつもより心なしか少し鋭い―――。



 そして―――、

 「何故……、妾がこのようなところで寝ているのだ……?」

 いつもとは全然違う、上流貴族のような―――いや正に一国の姫のような言葉使い。






 彼女は―――アルクェイドの中で眠っているはずの人格、【朱い月】であった。






 彼女は、寝ぼけた頭で周囲を見渡す―――。

 いつも近くのようで、遠くから見ていた風景がある。

 意識が段々とハッキリしてきて、それによって現在の状況も理解してくる。

 そして、ようやく理解した―――。

 「な―――、―――!!」

 思わず驚いて叫びそうになったが、彼女は高貴である。驚いて声を上げるなんて無様はしない。

 間一髪のところで出てきそうだった叫びをなんとか押し止めた。

 とりあえず、布団から出てもう一度現状を確認する。

 「何故―――、あやつと妾が入れ替わっておるのだ―――?」

 そう、アルクェイドと朱い月がどういうわけか入れ替わっているのだ。

 つまり、今はアルクェイドの人格が彼女の中で眠っているわけである。

 彼女の言うとおり、何故このような状況になったのか―――それは神のみぞ知る。いや、神ですらわからないかもしれない。

 「―――に、してもあやつは……毎晩このように破廉恥な格好で眠っているとは、少しは真祖の姫としての自覚はないのだろうか……?」

 外見に変化が出たとはいえ、服装までは変わらず今の彼女は白いワイシャツに下着という、とっても色っぽい格好でいる。

 それを一言で表すなら―――












なまあし













 ―――だ。






 失礼―――余計な電波が入ってしまった。

 とまあ、原因はわからないのでひとまず彼女はこのまま一日を過ごすことにした。

 知識などはアルクェイドを見ていたので何ら支障も無い。

 アルクェイドの最近の出来事もきちんと記憶している。

 だから、今日が志貴とのデートの日だという事も知っている。

 「今日はあの男に会いにいかねばならない日であったな。」

 むぅ―――と、少し考え込む朱い月。

 彼女と志貴は何度か面識がある。

 というのも、実際に会ったわけではなく志貴の方が自らの夢を介してアルクェイドの深層心理に入り込んだ時に顔をあわせた。

 初めて顔をあわせたときなんか、彼女は志貴を十八解体してそこから追い出したものだ。

 志貴がアルクェイドを十七解体したときよりも一つ多いあたり、案外彼女もお茶目なのかもしれない。

 「まぁ、契りを無下にするわけにもいくまい。あやつの代わりに言ってやろうとするか。」

 あまり気乗りがしていない朱い月。元々日の光が出ている朝や昼間に歩き回るのはあまり好ましくない。

 加えて、彼女は志貴が苦手だった。というのも、彼の言動はとにもかくにも普通ではなく時には彼女を狂わせてしまう。

 そんな男と一日の行動を共にしたら、自分を保てるか不安になってくる。

 「はぁ―――、あやつも難儀な人間を好きになったものだ。」

 これ以上考えても仕方ないので、一回溜め息をついてから着替えに入る。

 部屋には、ここ最近彼女が着ていた服の数々が乱雑に置かれている。

 どれも洗濯をするべきものだった。

 「嘆かわしい……。」

 一言だけ心からの感想を述べて、タンスから着替えを取り出そうと探る。

 タンスの中を見て、彼女は頭が痛くなった。

 そこには一面、いつも彼女が着ている白いセーターのようなシャツ。

 一つ下の段を開けてみれば、今度は紫のロングスカートが同じように入っていた。

 即ち―――彼女の服装はこの組み合わせしかないようだった。

 「………。」

 あまりの惨状に朱い月は頭を抱えた―――。

 自分とコイツが同一の存在だと思うと泣きたくなってくる、と言わんばかりだ。

 結局、その"いつものアルクェイド"なスタイルに着替えるしかなかった。

 とってもしっくりと馴染んでいて、それがまた嫌だった。



 時刻は9時半―――朱い月は特に急ぐ風でもなく、優雅にマンションの一室から出て行った。






 場所は変わって公園―――。

 朱い月は公園のベンチに座って志貴が来るのをジッと待っている。

 彼女が公園に着いたのは部屋をでてから10分後ぐらい、今はもう10時に差しかかろうとしている。

 待ってる間も彼女は優雅な仕草であったが、何だか少し不機嫌だ。

 「まったく……、確かに待ち合わせは10時であったが時間ギリギリになっても未だに現れないのはどういうことか……。

 あの男は五分前行動という言葉を知らないのか……?」

 朱い月は待ちくたびれていたようだ―――。

 「あやつは待っている間も楽しいみたいなことを申しておったが……、これの何処が楽しいのだ……?

 ただ何もすることが無くて退屈なだけではないか……。」

 何時まで経ってもやってくる気配すら見せない志貴に対して、朱い月はイライラを募らせていく。

 腕を組んで足をトントンとして地面を何度も踏む仕草は、それでもやはり優雅な雰囲気を醸し出している。






 そしてようやく、志貴がやってきた―――。

 「ふぅ、ようやく着いた。まったく、秋葉達にも困ったもんだな。おかげで危うく遅れるところだった。」

 ここまで走ってきたのか、遠野志貴は少しながら息を切らせている。

 呼吸を整えたところで、辺りを見回してアルクェイドの姿を探す。

 「アイツ、もう来てるだろうか?それとも、まだ部屋で寝てたりして。」

 ベンチの近くにやってきながら志貴は呟く。

 朱い月には気がついてないのか、ベンチの近くに来ても未だに辺りを見渡していたり、公園の入り口を見つめていたりしている。

 「おい……。」

 朱い月が志貴の背中に呼びかける。

 いきなり呼ばれたからだろうか、少し驚いた顔で志貴が振り向く。

 志貴と朱い月との目が合う―――。



 「………。」
 「………。」



 たっぷりと五秒間は見詰め合っただろうか、志貴が口を開く。
















「えっと、どちら様―――?」
アントネーゲル(古い爪)

ズバシュッ!!!













 たっぷりと空高く吹き飛ばされ、そのまま落下して背中を打ちつけられる志貴。

 朱い月にしてみれば散々待たされた挙句にあのようなことを言われれば自ずと手が出てしまうのも自然の道理だ。

 けど、志貴にしてみれば理不尽な暴力以外の何者でもないだろう。

 手を出してから、少し己を恥じる朱い月。

 もう少し感情を抑えられないといけないな―――なんて考えている。

 「いたたたた……。いきなり何を……?」

 痛む背中を押さえつつ志貴立ち上がる。

 そんな志貴を朱い月はベンチから立ち上がって、腕を組んで見据えている。

 ちょっと目付きが鋭い―――。

 「お主……、よもや妾を忘れたと言うのではあるまいな?」

 いきなりそんなことを言われたので、志貴は考えてみる―――。

 「(う〜ん、どことなくアルクェイドに似てるけど……アイツはこんな落ち着いた感じはしないしな。

 けど、金髪といい目の色といい服装といいアルクェイドそっくりだ……。もしかして……!!)」

 何かに気がついたような顔で志貴が顔を上げる。

 朱い月の方も「ようやく気がついたか、この輩は……」といった表情でいる。
















「髪伸ばしたんだなアルクェイド♪それになんだか落ち着いてて俺は嬉しいぞ♪」
アルトシューレ(古い爪)

ズビシャッ!!!













 ぽーん、と吹っ飛ぶ志貴。

 「ええぃ……、この朴念仁は……」と朱い月も頭を抱えて嘆いている―――。



 再び立ち上がって服についた埃などを払う志貴。

 軽症で済んでいるのは朱い月が手加減したからだろうか?それとも、志貴の無意識の行動だろうか?

 「で……、まだわからんのか?これ以上間違えられると次の技でデッドエンドを迎える事になるぞ。」

 朱い月の次に控えている技はブルート・ディ・シュヴェスタァ(血の姉妹)である。

 これが決まると、ほぼ確実にグナーデン・シュトース(終焉)に派生させるだろうからいくら志貴でも無事では済まないだろう。

 すぐさま【教えて!!知得瑠先生】へ直行だ。

 そして、そこでは「少しはその愚鈍ぶりを直しましょう♪」と笑顔で一言だけ言われてタイトルに戻るだろう。

 志貴の方も自らの死を感じ取ってか、記憶の断片を必死になって手繰り寄せた―――。



 そうして、ようやく志貴からマトモな答えが返ってきた。

 「あんた、確か夢で会った……。」

 「左様、アルクェイド・ブリュンスタッドの中に存在するもう一つの人格―――朱い月だ。」

 それを聞いて、志貴の表情が厳しいものになる。

 「どうかしたのか……?」

 「お前、アルクェイドをどうした?」

 眼鏡越しから朱い月を睨みつけるように見据える志貴。

 そんな視線を受けて朱い月は、むっと不機嫌そうな顔になる。

 「失礼な輩だな、妾は別にあやつをどうこうしたわけではないぞ。大体、妾とて何故このようになったのかわからないくらいなのだぞ。」

 朱い月の返答を聞いて、志貴はちょっとだけ何かを考えるような仕草をして―――、

 「あぁ、確かにそうみたいだな。疑って悪かった。」

 小さな微笑みを浮かべて朱い月に謝罪した。

 その微笑みは、女性に対してかなりの破壊力を秘めているものだ。

 朱い月もちょっとグッと来たのか、志貴に背を向けて歩き出す。

 「このようなところにいつまでもいるわけにはいくまい。さっさと行こうぞ。今日はあやつの代わりに妾が相手をしてやる。」

 「あ、ちょっと待って。」

 スタスタと先に行こうとする朱い月に、志貴の制止の声がかかる。

 「なんだ、やはり妾では不満か?」

 「いや、そうじゃないんだけどアンタのこと何て呼べばいいのかな〜〜?って……。」

 バツが悪そうに頭に手をやる志貴に、朱い月は冷淡な口調で―――、

 「朱い月でよかろう。誰もが妾をそう読んでおる。」

 とだけ言った。

 しかし、志貴は何だか納得がいかないという顔で考えている。

 「それじゃあ何だか名前っぽくない……。けどアルクェイドってまんまなのもな―――。」

 別に妾がそれでいいって言っておるのに、よくわからん輩だな―――と、思う朱い月。

 でも、志貴のこういった面は今に始まったことではないと朱い月にもわかっていた。






 「朱い月だから"アカツキ"で―――。」

 「全力で拒絶させてもらう。」

 朱い月の頭に一瞬だけ、『どこぞの企業の会長で、ロボット乗りで、正体隠してた割にはバレバレだった、落ち目の女垂らしでスケコマシの、金持ちなめんなよ、な男』が浮かんできた。

 そこでそんな知識を仕入れたんだろうか―――?

 そういえば、アルクェイドが最近『機動戦艦ナ○シコ』の再放送を見ていた―――というのはまったくの余談だ。



 再び、思考に走る志貴。

 「そうだな、お姫様っぽいアルクェイドだから姫アルクでどうかな―――?」

 「っぽいというか、アルクェイド・ブリュンスタッドは正真正銘真祖の姫なのだが……。

 まぁ、普段のあやつを見ればそうも思ってくるか……。

 それはいいとして、その呼び方はどうも呼び名には相応しくないと思うが。」

 朱い月の言葉に志貴も「確かに……」と唸る。

 それならばと、すぐさま言い直す。

 「じゃあ、"姫"でどうだ?これなら呼び名としても普通だろ?」

 普通かどうかは別だが、確かに呼び名としても相応しい。

 相応しいけど―――朱い月にしてみれば、町中でそんな呼び方をされると恥ずかしい。

 けど、これ以上考えていても先に進まないので折れることにした。

 「そうだな、その呼び方で構わぬ―――。」

 少しだけ頬を赤らめて、朱い月は再び歩き出す。

 志貴も朱い月についていくように歩き出し、すぐさま隣に並んで歩き出す。

 「それじゃあ、姫。今日一日付き合っていただきます。」

 「―――!」

 笑顔と共に朱い月に向けられた志貴の言葉は、もはや不意打ち以外の何者でもなかった―――。






 町中を歩く志貴と朱い月―――。

 やはりというか流石というか、道行く人のほとんどの視線は朱い月に釘付けだった。

 アルクェイド同様の美貌、加えてアルクェイドにはない落ち着いた物腰。

 これだけの要素があれば充分人を惹きつける。

 周囲の視線を感じてか、朱い月が怪訝そうに顔をしかめる。

 「なぁ、志貴。妾は何処かおかしいのだろうか?先ほどから妙に人々の視線を集めておるのだが―――。」

 何かに困っている表情の朱い月を見て志貴は、

 「あぁ、きっと姫が美人だからみんなの目を惹くんだよ。」

 ―――と、何の恥ずかしげもなく口にした。

 いくら朱い月といえど、そんな台詞を言われて冷静でいられるはずはなかった。

 顔を赤くさせてどぎまぎしながら志貴に言い返す。

 「な、な、何を言っておるのだ汝(なれ)は!?よ、よくもそのような台詞をさらりと口にできたものだな!

 あぁ、やはり汝の言葉は妾の調子を狂わせる!」

 そんな朱い月を見て、志貴は思わず吹き出した。

 「な、何がおかしいというのだ汝は!?妾への侮辱かそれは!?」

 「い、いや……。姫もそんな風に慌てたりするんだな〜って。」

 「―――ッ!!」

 志貴の言葉で、朱い月の顔はさらに硬直し赤くなっていく。

 そして―――、

 「あぁ、もう!不愉快だ!先に行くぞ!!」

 怒ってしまった朱い月はどんどん先に、全速力で歩いていく。

 その速度は、かつて志貴とアルクェイドとの追いかけっこで証明済みで、全速力で走ってる志貴が歩いているだけのアルクェイドを引き離すことが出来なかったくらいのものだ。

 つまり、志貴は全速力で走らないと朱い月を見失ってしまう。

 一度見失ったら最後、先に行くとか言ってもお互い行き先なんて決めてないので下手をすると町中を探し当てなければいけなくなる。

 「おい、姫!そんな速さで歩かれると―――。」

 台詞の途中で、志貴の態度が一変する。

 「吾も本気で追いかけなければならないな……。」

 いきなり七夜モードに覚醒して朱い月を追いかける志貴。

 こんなことのために七夜の移動術なんて使われたら、天国(?)の黄理パパが悲しむぞ……。

 あくまで歩いているのにその早さが常人の全力疾走にも及ぶ朱い月と、一歩5mにも及ぶ足取りと速度で朱い月を見失わないように走る志貴は、端からトンデモナイ二人に映っていた。

 そんな周りをお構いなしに、志貴と朱い月の追いかけっこは続く―――。






 時刻はちょうど正午―――。

 あれから約二時間弱追いかけっこを続けていた二人は最寄のファーストフード店で食事を摂ることにした。

 朱い月にも食事はそれなりの意味しかないのだが、やはり志貴に付き合うのだからと一応摂っておくこととのことだ。

 ちなみに、入った店は『ノスバーガー』という何だか名前に嫌な響きがあるが、他のハンバーガーショップと比べて高額な替わりに味が良いというところ。

 ぶっちゃけ、志貴が来るべきところではない。

 彼は、味はまあまあで値段が安い『ナクドナルド』という、やっぱ名前に嫌な響きがある方へ行くべきだ。

 「(けどさ……、御気楽極楽なアルクェイドならともかく……姫は正真正銘のお姫様。下手に半端な味の物を食わせて不愉快になったら困るしな……。)」

 全国の○クドナルド利用客及び店員さんごめんなさい、な志貴の考えの所為で彼はあえて赤貧地獄への入り口を通ることとなった。

 それを言うならそもそもファーストフード店に連れてくるべきではないぞ、志貴。

 彼の愛用の財布『ガマグッチ(なんだか誰かの金を盗みそうな響きだが)』の現状―――












729円(涙)+赤い紐を通した五円玉(笑)








 ナック(ナクドナルドの略)ならこれでも足りたかもしれない。

 しかし、ノス(ノスバーガーの略)でこれはどうだろうか?恐らく、というか絶対足りない。

 しかも、彼が負担する料金は二人分。何故か、彼には女の子にお金を払わせるのは自分のポリシーに反するという考えを持っている。

 気持ちはわからんでもないが、その所為で折角毎日の学校での昼食代を切り詰めてコツコツ貯めた所持金が一気に吹っ飛ぶことになるんだぞ。

 小遣いも貰えず、バイトも禁じられている君にとっては死活問題だろう……。

 あぁ、そして小学校の時に10万まで貯めた輝かしい通帳がみるみる内に萎れていくのさ―――合掌。

 「え〜っと、姫の口に合うかどうかはわからないけど間違っても面倒起こすような発言はしないでくれよ。」

 切望するように志貴が言う。最近彼の周りは絶えず騒がしく、心休まる時がほとんどないので、いつもやすらぎを求めている。

 端から見れば天国のような毎日なのに、実際は地獄の日々と同時進行なのである。

 しかし、これは彼の八方美人な態度が招いた結果―――いわば自業自得なので仕方ないと言えば仕方ない。

 話を戻そう―――。

 現在、志貴は自分の財布の中身を把握していない。なんとか足りるだろう、な心持ちでいる。

 それは一種の現実逃避ともいえるが、もう何も言わないであげよう。

 志貴のそんな言葉を聞いた朱い月は、またしてもむっとなる。

 「汝、妾のことを無駄にプライドが高くて世間知らずな上流貴族共と一緒にするでないぞ。そういう常識くらい心がけておる。

 それに、妾はきちんと汝の迷惑にならぬよう気をつけておるのだぞ。

 尤も、汝の周りの者はほとんどがそういう気遣いが出来ておらぬのだからそう思うのも無理はないが、彼奴等と妾を一緒にされては困る。」

 淡々と落ち着いた口調で話す朱い月。

 志貴は、その言葉の中に救いを感じた気がした―――。

 それどころか、今朱い月が救いの女神に見えている―――。

 やっと、久し振りの安息を得た志貴は感涙してしまった。コイツはそんなにも追い詰められていたのか?

 突然泣き出した志貴を見て、朱い月は相当驚いき、加えて呆れていた。

 「なんだ?いきなり泣き出したりして。正直、かなりイタイからやめて欲しいのだが……。」

 前言撤回―――この世には神も仏もいなかった。

 そうして志貴は、注文の品が届くまで悲しみに打ちひしがれていた―――Amen。



 注文の品が届いて、志貴と朱い月は他愛も無い話をしながらそれを食べた。

 会話のほとんどは志貴が話をしているばかりで、その内容はほとんど日常への愚痴に近い。

 朱い月は、そんな志貴の話をそれなりに聞いてはいたけどほとんど食事の方に専念していた。

 「(まさか素手で食事をとるなどと思いもよらなかったな。あやつの中から見てはいたが、これほど大変だったとは……。

 あぁ、手が汚れる!!口の周りにソースがついてみっともない!!うわわっ、服にソースがついてしまったではないか!!なかなか落ちないのだぞこういう汚れは!!!)」

 なんて、心の中で不平を漏らしまくっていて、端から見てもその慌てようには微笑ましいものすら感じさせた。

 それでも、彼女にとって初めての食事は新鮮で、かつ味も上々だったので結果としては満足いったようだ。

 志貴もそれを感じ取って安堵していた。

 そして―――、志貴に最大のピンチが訪れた。

 そろそろ勘定に行こうとしたときに、ふと嫌な予感を感じた志貴は慌ててメニューを見直して計算しなおした。

 すると、料金はゆうに4桁を越えていた―――。

 「(しまった!ここはノスだった!ナックと同じ感覚でいた!やばい……やばいぞ……!!)」

 もう一度言うが、彼のガマグッチの中には729円と赤紐付の五円玉だけだ。

 とてもじゃないが、彼の分すら払えない。

 ガマグッチと睨めっこをしながら志貴が唸っていると、朱い月が問いかけた。

 「志貴……、まさかとは思うが……金が足りないと申すのではあるまいな?」

 朱い月の言葉が志貴に直撃しガマグッチ共々固まってしまった。

 固まった志貴を見て、朱い月は「やれやれ」と、頭を抱えてしまう。

 「仕方が無い、妾が払うぞ。」

 そう言って朱い月は立ち上がろうとするが、志貴はそれを良しとしなかった。

 「駄目だ、奢って貰うなんて。そんなのは俺が情けない。」

 その言葉は―――朱い月を不愉快にさせた―――。

 「では、どうするというのだ?汝は払えないのであろう?だったら、妾が払うしかないではないか……。」

 「それは……そうかもしれないけど……。」

 選択肢はないというのに、それでも志貴は決めあぐねていた。

 朱い月は「はぁ…」と一回だけ溜め息をついて、志貴を鋭い目で見据えた。

 突然のことに、背筋を伸ばして硬直する志貴に朱い月は叱咤するように言った―――。

 「汝はどうしてそのような考えしかできんのだ?女に奢って貰うことは情けないか?

 自分がデートに誘ったのだから、すべての面倒は自分で見るべきだと考えておるのか?

 汝はそれでいいかもしれぬ。けど、それを受ける側はどのように思っているか考えておるのか?

 自分の方が余裕があるのに、汝が無理をしてまでそういう行動を押し通す様子を見せられて、どのような心情になっていると思う?

 何故、男と女などという枠にこだわる?

 大体、男だから女を引っ張っていかないと、守っていかないといけないなどと誰が決めた?

 ならば、女は男を守ってはいけないのか?

 それは侮辱だぞ―――。そんな風に思われていては、さぞかし惨めであろうな。

 互いに支えあっての友――、恋人――、家族――ではないのか?

 汝だけの一方的な施しなど、妾にとっては迷惑なだけだ―――!!」

 鋭く、深く、重みのある声で――、冷静に、しかし熱く語る朱い月―――。

 そこまで言われたことは志貴にとって初めてのことだった。

 呆気に取られる形で志貴は考えさせられた。

 こういうときだけではない。志貴は様々なところで自己犠牲的な精神を持ってしまっている。

 それは彼のいいところかもしれないが、同時に彼の一番悪いところでもある。

 朱い月が言ってくれたから自覚できて、志貴もこういうところはもう少し考えるべきだと感じた―――。

 朱い月は、もう一度問いかける形で志貴に言う。

 「妾が払うぞ、よいな?」

 短い言葉。しかし、そこには様々な思いが込められている。

 志貴は我を取り戻して答えた。

 「わかった、頼むよ姫。

 ―――けど、レジで払うのは俺にやらせてくれないか?一応、周りの目もあることだし。」

 「うむ、承知した。」

 志貴の答えを聞いて、朱い月は財布から札を取り出す。

 それを、目に見えない速度で志貴に投げた。

 志貴はそれを二本の指に挟んで受け取り、二人はレジに向かう。

 手早く会計を済ませて店から出る。細かい消費税などの分は志貴が自分の所持金で払った。

 店の外に出て、志貴は朱い月におつりを渡そうとする―――が、

 「いらん、それはもう汝のものだ。」

 の声で返されてしまった。

 「え―――っ?」

 ぽかん、と口を開けて驚く志貴。思考は吹っ飛びかかっている。

 「実はいうとな、もう財布に入らないのだ。」

 そう言って志貴に自分の財布を見せる朱い月。

 ソレは正に異世界といっていい程、志貴のガマグッチとは次元が違っていた。

 たった2ランクアップしただけの『ガマゴン』など遥かに優越しているかのようなその財布。

 財布自体は、市販の半分に折りたためて、金貨を入れる部分と、カードを二・三枚入れられる部分と、お札を入れる部分があるだけの財布だ。

 金貨を入れる部分にはほとんど入ってないし、カードも一枚も入っていないが、札を入れるところだけは溢れかえりそうだった。

 いや、そんな表現さえ生温い。正に、皮で出来た財布が破裂しそうな勢いなのだから。

 先ほど志貴に渡された札も、その中の一枚―――福沢諭吉の笑顔が眩しい御札だ。

 これだけのお金を入れられて、この財布も財布冥利に尽きるだろう(何それ?)。

 しかし、よく見るとそれは天国と地獄の同居だ。

 例えるなら、普段は少食の志貴に対して極上松坂牛ステーキ(何か例えが庶民的だな……)を何百枚も食べさせることに近い。それも強制的に―――だ。

 一枚や二枚なら志貴は泣いて喜ぶだろう。しかし、ここまで食べさせられたら志貴に限らず、横綱でも悲鳴を上げる。

 つまりはそういうことだ。

 そして、志貴は考える―――。

 「(確かに、この財布にはもう入らないだろうし、これ以上入れるのも酷な話だ。けど、だからって俺が貰っていいのか?

 いや、ここで俺がこのお札を貰っても誰も文句を言わないだろう。現に、姫だってもう俺のと言っている。

 しかし、さすがにこれは俺の心が許さない―――。奢って貰った上にここまでしてもらうなんて―――。

 どうする―――俺!!!?)」

 たっぷりと、10分ほど考えて志貴が出した結論は―――、












 「わかった、ありがとう姫♪」

 志貴はガマグッチのためにプライドを捨てた。

 プライドだけではない、ポリシーも、自尊心も、信念も、理想も―――いままで積み上げてきた心をすべて捨て去り、ガマグッチの中に茶色一枚、緑四枚の御札を加えることにした。

 「ガマグッチ……、いままでお前には寒い思いばかりさせてきた……。

 けど、今は違う。今のお前は後少しで5桁に上るほどの所持金をその中に貯えているんだ。

 ありがとう、これからもよろしくな、ガマグッチ。」


 『アリガトウ、志貴。コチラコソヨロシクナ…。』

 ガマグッチの声を聞いた気がする志貴だった………。

 その一方で、朱い月も一人考え事をしている。

 「(つい、熱くなってしまったな……。妾もまだまだだな……。)」

 そうして二人は、ノスバーガーの前から離れて次の目的地まで向かうことにした―――。

 それにしても―――ますます志貴が可愛そうに思えてきたな……。






〜(後)へ〜