七ツ夜の
――終章――
「どうして、そんなことを?」
ようやく落ち着いた志貴は、深く息を吐き出しながら訊いた。
「志貴のためよ」
「俺の……?」
「そう、志貴の目」
『直視の魔眼』。
生き物の死、
物体の死、
形の死、
容の死、
カタチの死、
意味の死、
存在の死、
ありとあらゆる概念の死、
全ての死を視ることができる忌むべき目。
「もう、限界なんでしょう?」
ひどく、悲しい目をしている。我がことのように少女は心を痛めている。痛切な思いのこめられた視線。
志貴は息を飲み込んだ。が、上手くいかなかった。
忘れていたわけじゃない。
ただ、気がつかないように心のどこかがストッパーをかけていた。
「そ――」
「それは、違う」と、いおうとしたのか。しかし言葉は声にはならず。
志貴は一度、目を細めて瞼を閉じた。
開いた先の世界が死に満ち溢れていたら、一瞬、そんな恐怖が頭の中を過ぎった。
ゆっくりと瞼を開ける。
半月にも満たない、七つ夜の月。
凍える夜気の中に浮かぶ月。
月を見上げながら志貴は吐露した。
「――死が視えるんだ。俺は一番死に近いところに立っている。こうなることは解っていたよ」
「どうして、どうして志貴はそんなに達観していられるの。死んじゃうのよ?
心が死んで、狂って、身体が死んで。存在が消えてしまうのよ」
少女の声は、必死だ。
「達観なんてしていないよ。本当はすごく恐い。それよりも、俺はアルクェイドを失う方が恐い」
少女はビクッと叱られた子供のようになった。
「存在が消えてしまうって言葉、そっくりそのまま返してやりたいよ。何やってるんだよ。馬鹿ってね」
月を仰いでいた顔が、少女を見下ろす。
「君にいっても仕方がないかな?」
少女は小さく頷いた。
「わたしは志貴が知っているアルクェイドじゃないから」
「でもアルクェイドには変わらないんだろう?」
「イフ……可能性の数だけわたしはいる。わたしはこうなったかもしれない アルクェイドの可能性の残滓 」
「ふうん、正直、俺にはよくわからないな」
少女は躊躇いがちに口を開いた。
その言葉がどんな効力を持っているか知っているかのように。
「いいえ。志貴もそう なよの」
その言葉は、自我に疑問を持つには十分すぎるほどの力を内包していた。
あの日、魔眼殺しの眼鏡をかけても、死の【線】と【点】が消えなかった日。
消えない。
線、線、線。
線、線、線。
線、線、線、線線線線線線。
点、点、点。
点、点、点。
点、点、点、点点点点点点。
死の、死の、死の。
死の、死の、死の。
死の死の死の死死死死死死。
「志貴さまッ!」と自分を呼ぶ少女の顔を見るのが怖かった。
「志貴さんッ!」と自分呼ぶ少女の顔を見るのが怖かった。
「兄さんッ!」と自分を呼ぶ少女の顔を見るのが怖かった。
なぜなら、その者の死を視てしまうから。
怖い、怖い、怖い。
恐い、恐い、恐い。
恐怖、恐怖、恐怖、怖怖怖怖怖怖恐恐恐恐恐恐。
だから目を閉じた。
闇の世界には【線】も【点】も存在しない。
しかし――
闇は無条件に恐い。
暗い、昏 い、冥 い。
――昏 い闇に食 われる。
「 」
志貴は叫んだ。どんな言葉を叫んだかは忘れた。
もしかしたら言葉ですらなかったのかもしれない。
「どうされたのですか、兄さん」
そういって触れてきた妹の手を乱暴に振り払った。
もう、何もかも壊してやりたかった。
――壊す?
――そうだ、モノは死ぬから線と点が見えるんだ。
――だったら、
――全てが死んでしまえば、もう【線】も【点】も見なくていい
「ク、ハ、ハハハハハッハハハ」
嗤う。
嗤う死神。
その死神は魂を刈り取る得物を振るう機会はなかった。
「何やっているのよッ!! 志貴」
吸血姫の声が意識が消える寸前の志貴の耳に届いた。
――幻聴か? いや、ちがう。
それにしても、これは一体――
誰の記憶だ ?
「あなたも、いえ、あなたが元いたと思う世界ですら、虚像にすぎないの」
――崩れていく。壊れていく世界。
「アルクェイド・ブリュンスタッドが望み、夢魔 が具現化し、遠野志貴が飲み込まれた虚言の夢」
――曖昧になっていく、夢と現 の境界。
「【世界】から無理やり知識を吸い上げ、志貴の目を治そうとしたアルクェイド・ブリュンスタッドは、
自分が自分で在るために、吸い上げた不必要な知識を消去する必要があったの。
それは大変な作業よ。自分の内面にある【情報】を殺さなければいけないのですもの」
――ぐらつく、内面世界と外部世界の狭間。
「だから、遠野志貴を夢見た」
息ができない。
呼吸のやり方を忘れてしまったようだ。
心臓がドクドク脈を打っている。
耳の奥がうるさい。
ドク! ドク! ドク! ドク! ドク!
強い、強すぎる。どうしてそうまでして血液を体中に送らなければならないんだ。
視界が外部からたわんでいく。
中心部に向かって縮む世界。
世界は色を失った。
モノクロームの世界。
グルグル中心へと落ちていく。
堕ちていく中、自分の声を聞いた。
――何を恐れる必要がある。
志貴は深く呼吸をした。
心臓の鼓動が気にならなくなった。
世界の変容が止まった。
唯一、この世界の中で色のある少女に、遠野志貴の虚像は穏やかにいった。
「そうか」
と、だけ。
「強いのね志貴、本当に、羨ましくなるくらい強いわ。
その強さで、わたし を助けてあげて」
志貴は首肯し、いった。
「でも、君は?君は消えてしまう んだろう?」
「いいの。それがわたしの役割 だから、今のこのわたしよりアルクェイドの方がいいと思うから」
志貴は黙した。
森閑と時間が流れる。
ゆるゆると流れる川のように、時が刻まれていく。
「志貴、わたしの願い事聞いてくれる?」
「ああ、俺にできることなら」
「目を……閉じて」
いわれた通りに志貴は目を閉じた。
「少し、かがんでくれる?」
「こうかい?」
「もっと……そう、そのくらいでいいわ」
次の瞬間、唇がそっと触れ合った。
ただそれだけのキス。
少しだけ瞼を開くと、少女の伏せられた長いまつげが見えた。
志貴は再び瞳を閉じ、ただ唇を触れ合う行為に没頭した。
長い時間だったのか、それとも意外に短い時間だったのか、それくらいの時間が経過し、唇が離れた。
「さ、行きましょう。志貴」
朱に染まった顔を隠すように少女は背を向けて歩き出した。
その先には、朽ち果てた城がある。
扉は訪れるものを頑なに拒んでいた。
見上げるほど高い扉、十の歩を歩んでも端から端までたどり着けない扉。
その前に男と女がいた。
「ここが終焉か」
「然 り。我らの役割 はここで終了だ」
「道化を演じた端役は退場せねばならないが、さて、舞台袖はどこだ?」
「死ぬしかあるまい」
淡々と女は告げた。
「やはりそうくるか」
男はニヤリと嗤った。
「――いや、主役の登場だ」
女は深淵の闇が続く通路の奥に視線を投げた。
「やれやれ、出会っちまったか」
男の目は志貴に注がれている。
志貴は驚いた様子もなく、その目を見返す。
「そうか……おぬしが案内役だったわけだ。それで合点がいく」
女は少女を見ている。少女も女を見ている。
「貴女がその役割だったの? どうして?」
すると女はさあと肩を竦めた。
その脇で、嬉々として男が告げる。
「――さて、始めようか遠野志貴」
男が一歩進み出た。
志貴も黙った歩みでる。
その間合い、五間。
二人の限界の間合いである。お互いそれは知っている。
「!? どうして、あなた達は――」
二人の間に割り込もうとした少女を女が肩を掴んで引き止めた。
「あれは……そう、儀式のようなものだ。彼らには必要な行為だ」
「生憎、時間がない」
志貴がいった。
「わかっている。お互いにニ撃目はないと、いうわけか。
一撃必殺――吾 たちにはそぐわないな。だが、面白い」
二人は同じ姿勢で腰を落とした。
筋肉がたわみ、限界以上の速度を生み出す。
緊張が空気すら止め、ピンと張り詰めた。
少女は肌を突き刺す雰囲気を感じ取った。
空間自体が緊張感を帯びている。
切っ先が尖った空間の凍結。
解除できるのはたった二人。
いかに速く、いかに正確に【線】をなぞり、【点】を穿つか。
最大速度の太刀筋を生み出す。
それのみに集中している二人。
きっかけは――なんだったのだろう。
二人の姿はその場から消失し、刹那、間合いも消えた。
交錯する二人の影。
勝者は――
初めから決まっていた。
玉座には、自らを縛る王がいた。
ここは玉座なんかではなかった。牢獄。
自らを封じ込め、閉じ込めるための牢獄なのだ。
王の名はアルクェイド・ブリュンスタッド。
垂れた頭から流れる金髪も、
透き通った肌も、
白いドレスも、
全てが停滞し、拘束されている。
――なんて、哀しい姿なんだ。
ただ一人、王への階段を上っていく者がいる。
名は遠野志貴。
幸か不幸か、世界の【死】と繋がって しまった目を持つ、それ以外はごくごく普通の少年。
志貴はアルクェイドの前に立った。
そう、この世界には初めから この二人しかいない。
――囚われの姫は、王子様によって助けられなければならない、か。
「まったく、――道化だなぁ」
頬を掻きながら志貴は独白した。
「起きろ、アルクェイド」
短刀が閃き。
鎖はスッパリと断たれた。
目を開くとそこは見慣れた自室の天井だった。
いつもの癖でベット脇に置かれている眼鏡に手が伸びた。
眼鏡をかける。
レンズ越しの世界に、死は視えない。
あたりまえのことなのに安心した。
ふと、自分のベットに誰かが突っ伏しているのに気がついた。
床に膝をつき、無防備に寝顔をさらしている真祖の姫。
死んだように動かない寝顔は、何度視ても見とれるほど美しい。
ふにふにと頬をつっついてみたが起きる気配はない。
志貴は幻視 る。
金髪を靡かせたもう一人の真祖の姫を。
「今回は、上手くいったが次回もそうなるとは限らない。遠野志貴、そなたはぎりぎりの死の淵に立っている」
「知っているよ」
「愚問だったな」
女は紅の瞳をゆるやかにして微笑む。
「一つだけ、聞きたいことがあるんだ」
「ふむ、私 が答えられることなら」
「どうしてアルクェイドを助けたんだ?」
「そなたはそ奴を救うと云った。私が助けたわけではない、あくまでそなたがそ奴を助けたのだ」
「助けられたのは俺の方だよ」
「私の刻 は長い。少しぐらい甘い夢を見させてやってもよい、そう思っただけだ」
もう一人のアルクェイドは酷薄に笑みを作った。
「…………」
「それでは、な」
消えた。あたりまえだ、彼女は幻だ。
――ならアイツも幻か?
男が立っている。刃物と同じ鈍い輝きを放つ男だ。
「そう、幻だ。遠野志貴が幻視しているただの虚像だ」
「虚像がしゃべるなよ」
「いいだろ?吾 の身は幻なのだから、幻の虚像なら言葉を話しても不思議ではないだろう」
「わかったよ。で、何の用だ殺人鬼」
殺人鬼と呼ばれ、男は少しだけ顔をしかめた。
だがすぐ冷徹という名の仮面を被りなおす。
「確認したい。どちらが勝ったのだ?」
志貴は首を振った。
「やはり貴様にもわからぬか。それならそれでいい」
男はくるりと踵を返した。
「地獄の底で待っている」
「永遠に待ちぼうけていろ。俺は行くつもりはないね」
クッ――と、最後に笑い声を残して幻は消えた。
「最後は――君か」
少女がいた。
「ありがとう志貴。それだけが伝えたかったわ。
あなたのおかげでわたしは一瞬だけどわたしでいられた 」
「お礼をいうのはこっちだよ。アルクェイド」
呼ばれた少女は驚いた顔になり、その後はっとするほど美しい微笑を刻んだ。
「さようなら、志貴」
声が志貴に届いたときには彼女の姿はそこにはなかった。
否。もともとそこにはいなかった。
志貴はしばらく呆然としていた。
「志貴」
と、アルクェイドの声に呼ばれた気がした。
自分の膝元を見ていると、お姫様はまだ眠っている。
――さて、このお騒がせで、愛しき吸血姫になんて言ってやろう
そう思案しなが、アルクェイドの肩に手をかける。
夜の闇は日の光に駆逐され、すっかり影をひそめている。
もうすでに七ツ夜は終わっていた。
朝の日差しが、窓から差し込んでいた。
「起きろ、アルクェイド」
<了>